ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第320回)

2021-10-29 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(4)革命と救国評議会の樹立
 1974年のポルトガル民主化革命は中堅・若手将校を主体とする国軍運動(MFA)によって計画されたクーデターとして開始された。戦略を指揮したのは国軍運動の中心的指導者であるオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉であり、クーデター部隊の構成も綿密に企画されていた。
 同年4月25日のクーデター決起に対して不意を突かれたカエターノ政権は反撃のいとまもなく、降伏し、カエターノ首相は前ギニア総督アントニオ・デ・スピノラ将軍への権力移譲に同意した。スピノラ将軍はMFAのメンバーではなかったが、事実上MFA将校のメンターのような存在となっていた。
 降伏したカエタ―ノ首相と当時のアメリコ・トマシュ大統領はいったん離島のマデイラ島に移送された後、それぞれポルトガル語圏のブラジルへの亡命が許され、前政権首脳への報復的処刑なども行われることはなかった。
 かくして、クーデターは無血のうちに成功した。それだけのことであれば、これは単なる軍事クーデター政変にすぎず、革命事象に数えることはできないが、このクーデターに際しては、多くの市民が自宅待機要請に反して街頭に繰り出す民衆蜂起に進展し、市民がクーデター軍の兵士らにカーネーションを渡して祝した事実から、「カーネーション革命」の美称も冠せられる民衆革命の性格も帯びた。
 しかし、革命成就後、スピノラ将軍を大統領兼議長とする臨時政府として樹立された救国評議会は全員が軍幹部で構成された軍事政権であった。また、必ずしも全軍規模での革命ではなかったため、旧体制支持派部隊からの反革命を警戒し、革命防衛を担う特殊部隊として大陸作戦司令部(COPCON)が編成され、少佐から一挙に准将に特進したオテロ・デ・カルヴァーリョが司令官に任命された。
 とはいえ、トップのスピノラ将軍と革命を実質的に主導したMFA系将校らとの間には、植民地戦争の終結という一点を除けば、深い溝があった。その点で、スピノラ将軍は1952年のエジプト共和革命で革命を主導した自由将校団のメンターとして最初の大統領に担ぎ出されたナギーブ将軍の立場にも似ていた。
 とはいえ、当面の急務であった植民地戦争の終結という課題に関しては、革命の原点とも言えるギニア‐ビサウの1974年9月の独立を皮切りに、他のアフリカ植民地との間でも順次独立へ向けての交渉が開始され、革命の最初の重要な成果となった。
 しかし、植民地問題に関してもスピノラ将軍は完全独立には消極的であり、ましてその他の内政課題に関しては、共産党と結ぶMFA系将校らの急進的な姿勢と本質的に保守派であるスピノラ将軍の間での対立が激化していき、74年9月末、軍内右派によるクーデター未遂事件を機にスピノラ将軍は大統領辞任に追い込まれた。
 後任には、救国評議会ナンバー2で国軍統合参謀総長フランシスコ・ダ・コスタ・ゴメシュが就いた。ゴメシュは革命の直前、カエタ―ノ首相への忠誠を拒否したために参謀総長を罷免された人物で、以後、1976年の民政移管まで大統領として、激化する権力闘争を調整するかじ取り役を担う。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代革命の社会力学(連載第... | トップ | 次の記事へ »

コメントを投稿