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近代革命の社会力学(連載第416回)

2022-04-25 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(4)ルワンダ救国革命
 ルワンダでは、1961年、多数派民族フトゥ主体による共和革命により、少数派民族トゥツィの王制が倒されて以来、フトゥ族による統治が続いていたが、1973年の軍事クーデターで政権を握ったフトゥ系ハビャリマナ大統領の独裁統治下で、一定の民族融和が進んでいた。
 一方、共和革命後、フトゥ優位体制下での迫害を避けたトゥツィ族は、隣国ウガンダに逃れ、ウガンダの難民キャンプである種の難民コミュニティーを形成していた。かれらは必然的に1980年代のウガンダ内戦にも巻き込まれるが、そうした中で、ヨウェリ・ムセヴェニが指導するウガンダの革命組織・国民抵抗軍(NRA)に身を投じて活動するトゥツィの集団が出現した。
 かれらは1986年のウガンダ革命にも参画し、新たなムセヴェニ政権の高官となった者もあった。一方で、1979年に知識人トゥツィ難民を中心に結成されていた国民統一ルワンダ人同盟が1987年にルワンダ愛国戦線(RPF)に改称、武装革命運動に着手した。
 RPFは1990年10月、ルワンダ領内へ進撃して、北部地域を制圧、以後、ルワンダ政府軍との間で内戦に入るが、93年にはハビャリマナ政権との間で和平が成立した。
 この一時的な平和状態は、翌年、ハビャリマナ大統領が同様の民族構成を持つ隣国ブルンディのンタリャミラ大統領(フトゥ系)とともに搭乗していた航空機が撃墜され、両大統領が死亡した事件によって破られた。
 この暗殺事件の真相は不明であり、RPF犯行説とフトゥ強硬派軍部犯行説の両説が存在するが、いずれにせよ、この事件を最大限に利用したのは、フトゥ強硬派であった。近年の調査研究によると、かれらはあたかもナチスのホロコーストのように、極めて計画的・組織的にトゥツィ絶滅政策を立案・実行した(詳しくは拙稿参照)。
 こうして最大推計で100万人(国民の約20パーセント)が犠牲となったルワンダ大虐殺は1990年代を代表する人道犯罪となったが、同時に、この惨事が新たな革命の契機ともなる。1994年7月、RPFが攻勢を強め、ルワンダ全土を制圧したからである。
 これによって、トゥツィ主体のRPFが政権勢力として新体制を樹立した。これは、大虐殺の犠牲者側であるトゥツィが反転攻勢に出て正義を取り戻したことを意味しており、革命史上の稀有な事例である。
 このようなことが可能となった要因として、トゥツィ族は長い迫害の時代の中、上述したようにウガンダで難民コミュニティーを形成しており、RPFも虐殺を免れた在ウガンダのトゥツィ・コミュニティーを基盤としていたこと、大虐殺を実行したフトゥ勢力が政治的には十分組織化されておらず、ハビャリマナ独裁体制が終焉した後の権力空白期にあったことが大きいと考えられる。
 RPF政権の実質的な指導者はポール・カガメであり、彼は94年の救国革命後、副大統領を経て2000年に大統領に就任、以後、現在まで長期政権を維持し、カガメ政権下でルワンダは目覚ましい復興を遂げたと評されている。
 現在では独裁化傾向が指摘されるカガメ政権であるが、少数民族系の政権がこれほど長期的に安定を維持しているのは、多数派フトゥも自らが引き起こした大虐殺の結果に衝撃を受け、ある種の政治的なアパシー状態に陥ったことがあるだろう。
 こうして、ルワンダ救国革命は1990年代におけるアフリカ諸国革命の中では最も成功を収めることとなったが、虐殺の動因でもあった民族主義的な「フトゥ・パワー」が民主化運動のような形を取って再覚醒する可能性もあり、将来の新たな政変の可能性も排除することはできない。


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