ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第47回)

2016-08-30 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代

〈序説〉
 近代的な女権の黎明期をくぐり抜けた先に女権の伸張期が現れるのは自然の成り行きであったが、その原動力となったのは20世紀を通じて世界に広がったフェミニズム思想とその主要な実践場となった女性参政権運動とであった。
 女性参政権運動は19世紀以降、英国からアジア方面にも拡散していく議会制度の整備とも一体的な動きであった。考えてみれば、古代ギリシャの直接民主制では女性の参政が排除されていたのが、民主制としてはより後退的な間接民主制に属する議会制度において初めて女性の参政が解禁されていったのは、簡単な投票を通じた間接的な政治参加にすぎないゆえという消極的事情もあった。
 反面、自らが議員その他の公職者に就くための被選挙権に関しては法律上保障されても、すぐに女性議員・公職者が増加するというわけにいかなかった。被選挙権の実質的な保障がある程度進んできたのは、せいぜい20世紀最後の四半世紀以降のことである。
 過去、40年ほどの間に、女性の社会的地位がなお相対的に低いアジアやアフリカ地域でも、女性議員・公職者は増加傾向にあり、女性の国家元首もしくは執権者も続々と誕生している。それによって、選挙政治の進展の中で、新たな歴史を作る主役となる女性たちも出てきている。
 こうした女性参政の拡大は、社会経済的な面での女権の伸長を後押ししてきた。この面でも男女間での賃金格差や昇進格差の問題はなお積み残されているが、資本企業組織における女性管理職・役員の増加は否定できない趨勢となっている。こうした資本の女性化と権力の女性化との新たな結びつきという事象も考察対象となろう。
 一方、女権の伸長にはほぼ一世紀の周回遅れで、同性愛者―広くは性的少数者―の権利にも進展が見られる。20世紀後半から同性愛者解放運動も強力に組織されるようになり、その一つの成果として、今世紀に入って同性婚の解禁に動く諸国も続いている。
 こうした権利の全般的な伸長に対しては、それに対する反動としての抑圧も見られる。反フェミニズムやホモフォビア(同性愛嫌悪)に向かう動きである。こうした動きの中心点は保守的なイスラーム運動に見られるが、非イスラーム圏でも超保守的な運動には共通して見られる傾向である。
 近代をくぐり抜けて、ポスト近代の新たな歴史を作りつつある現代を大まかに捉えれば、女権と男権のせめぎ合いの時代であり、伸張と抑圧が拮抗する新たな抗争の時代を迎えていると言えるかもしれない。
 その先にどのような未来があるかは、本連載の課題を超えた問いである。本連載最終の「第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代」はそうした未来へ向けていまだ現在進行中の時代を扱うことから、唯一つの章のみで完結する。

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「女」の世界歴史(連載第46回)

2016-08-29 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(5)同性愛の近代的抑圧
 近世以前の同性愛は相当公然と容認されていた中国を除けば、洋の東西を問わず、罪悪視されつつも慣習的に容認されるという両義的な形で存在していたが、近世になると法制度・法治国家の整備に伴い、同性愛行為が性犯罪として法的な処罰対象とされるようになってきた。
 その際、キリスト‐イスラーム教の世界では、聖書にも登場する道徳的に退廃した街ソドムに由来するソドミー(アラビア語ではリワート)という犯罪概念が当てられた。この概念は同性愛行為そのものよりも広く「不自然」とみなされる性的行為全般を指す。ここでの「自然/不自然」の判断基準は、神が祝福する男女間の生殖に関わるかどうかに置かれていたから、生殖に関わらない同性間の性行為が「不自然」と認識されることは当然であった。
 ところで、ソドミー罪を厳格に適用するなら、女性間の同性愛行為も処罰対象に含まれ得るはずのところ、女性の同性愛行為が処罰された例は少なく、事実上黙認されていたと見られる。その理由は定かでないが、女性間の同性愛はある意味で同性同志の深い友情の延長として捉えることも可能だからかもしれない。
 こうした啓典宗教の影響による同性愛行為の取り締まりは、歴史的に同性愛に寛容だった中国にも及び、清朝は17世紀に処罰規定を導入している。その経緯は必ずしも明確でないが、前代の明末以来、来朝した宣教師を通じてキリスト教的価値観の影響を受けたことが考えられる。
 また近世までは「男色」の文化が半ば公然と存在していた日本でも、近代化によりキリスト教的価値観が流入すると、その影響からソドミー罪の概念も移入され、明治5年には「鶏姦罪」が規定されたが、これは後の本格的な刑法典には継承されず、日本では同性愛行為を直接に罰する規定は以後も存在しない。ただし、そのことは「男色文化」が従来どおり維持されたことを意味せず、「男色」は前近代の悪弊とみなされ、道徳的には同性愛を罪悪視する価値観が社会に広く定着していったことに変わりはない。
 ソドミー罪の取り締まりがフランス革命前の欧州で最も厳格だったのは、第二回無総督時代と呼ばれる18世紀前半のオランダであった。そのすべてが同性愛者とは限らないが、1730年には200人を越える男性が訴追され、60人近くが死刑判決を受けた。オランダは元来、自由主義的であったが、この時代は指導者を欠き、大衆のモラルパニックが起きやすかったと見られる。
 フランスでは18世紀のブルジョワ革命を機にソドミー罪は廃止されたが、同性愛行為が一切自由化されたわけではなく、欧州全体では比較的リベラルながらも、「社会道徳に反する罪」など別の名目で処罰されることは続けられた。ただし、フランス革命におけるソドミー罪廃止自体の影響は広く大陸ヨーロッパ諸国に及び、1858年には、イスラーム系ながらトルコでも西欧化改革(タンジマート)の一環として、同性愛行為の非処罰化が行なわれている。
 フランス革命の影響が直接には及ばなかったイギリスでは、ヘンリー8世が16世紀に制定した旧法が「個人に対する犯罪法」という近代的な法律に姿を変えつつ、同性愛行為が処罰され続けた。その最も著名な犠牲者は、劇作家のオスカー・ワイルドであった。彼は1895年、愛人男性の父親と法的トラブルを起こしたことをきっかけに同性愛行為で刑事訴追を受け、2年間収監される憂き目を見たのだった。
 また保守的なドイツでは、1871年のドイツ帝国創設時に制定された刑法典に男性同性愛行為を処罰する規定(175条)が置かれた。これに対し、97年、医師で性科学の草分けでもあるマグヌス・ヒルシュフェルトを中心とする「科学的人道主義委員会」が設立され、科学的な見地から同性愛者の権利を擁護し、175条の撤廃を求める運動を展開した。
 この運動は近代的な同性愛者解放運動の先駆けと目され、啓発的な役割は果たしたものの、内外の多くの知識人の署名も集めた同性愛処罰規定撤廃という最大の目的は達成されないまま、反同性愛の立場を採ったナチスの政権獲得により、解散に追い込まれた。
 ちなみに、初期のナチスは突撃隊幕僚長として政権獲得にも貢献したエルンスト・レームという公然たる同性愛者の幹部を擁していたが、ヒトラーと対立した彼は間もなく粛清されてしまった。ナチスドイツでは同性愛者は社会的逸脱者として厳罰・抹殺の対象とされ、多くの犠牲者を出すことになった。
 ナチスドイツにおける同性愛者の受難は同性愛処罰政策の極点であったが、欧州でも同性愛処罰は次第に緩和されつつも、おおむね20世紀半ば頃までは継続されていくのである。かくて、近代は女性の権利に関しては新たな道が拓かれる黎明期となったが、同じことは同性愛者には起きなかったのである。

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9条安全保障論(連載第14回)

2016-08-27 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

八 自衛行動の許容範囲②

 前回は日本国単独での個別的自衛権を前提にした議論を展開したが、近年ホットな議論の的となってきたのは、外国との集団的な自衛権の行使の可否であった。この点で、2015年に制定された安保法制は、「限定的な」集団的自衛権を解禁することで、戦後防衛史における歴史的な画期を作り出した。
 たしかに自衛行動は一国のみで完遂できるに越したことはなく、第一義的にはそうした個別的自衛権の行使で対処すべきだが、9条下で抑制された自衛隊編制及び装備では対処し切れない場合に、個別自衛行動の補充または補強のため外国の力を借りることが一般的に禁止されるわけではない。
 そうした外国との協調的な自衛権行使の方法として、防衛同盟を前提とする共同自衛権の行使と、多国間での集団的な自衛権の行使とは概念上区別されるべきである。その点、安保法制が前提としているのは、ほとんど専ら前者の共同自衛権、それも日米同盟に基づく米国との共同自衛なのである。

 周知のように、戦後日本は先の大戦では敵国であった米国との二国間防衛条約―日米安全保障条約―に大きく依存してきた。日米安保条約は、最高裁判所が憲法判断を回避してきたことから、憲法的に宙に浮いた状態で今日まで維持されたうえ、それが「ガイドライン」という条約外の外交文書を通じてなし崩しに拡大されてきた。その結果、日米安保条約は、政治的現実においては憲法に優位する超憲法的規範だと言っても過言ではない状況にある。
 しかし、9条に適合する過渡的安保体制は日米安保条約のような外国との防衛同盟条約に基づく共同自衛行動を必ずしも禁止するものではないとしても、9条はそのような共同自衛行動の条件を厳格に制約する。

 まずは共同自衛する同盟国の選択である。それは9条の趣旨を理解する国でなくてはならない。9条に適合する防衛同盟とは同盟国間で9条の趣旨を共有することでもあるからである。その点、米国は「押しつけ」の怨念を生み出すほど昭和憲法の制定にも深く関与しており、いちおうは同盟相手の条件を満たしているだろう。仮にも米国の態度が明確に変わり、9条廃止を要求してくるなら、それこそ日米安保条約を破棄すべき時である。

  次に、同盟に基づく共同自衛体制のあり方として、同盟相手の軍隊または軍隊相当の武装組織(以下、「外国軍」と総称する)が日本国内に常駐することは許されない。その点、最高裁は、安保条約の憲法判断を回避しながら、9条が保持を禁ずる「軍隊」は自国の主権が及ぶ軍隊をいうとして、外国軍はこれに当たらないという形式的な解釈を示すことで、実質上は条約の合憲性を示唆している。
 しかし、主権の及ぶ国内に外国軍が常駐するなら、一体性が強まり、軍隊を共同保有しているに等しくなるので、最高裁のような形式論は不当である。外国軍の駐留が許されるのは、共同自衛権発動時における基地の共同使用及びその他演習等の目的での短期駐留の場合だけである。従って、政府は日本国内の全米軍基地の撤去へ向けた対米交渉義務を負わねばならない。懸案の沖縄米軍基地問題も、その一環で解決するであろう。

 さらに、共同自衛権の具体的な発動要件であるが、9条下では原則として日本国と同盟国の双方に自衛権の発動要件となる事態が生じた場合に、共同武力をもって対処できるにとどまる。従って、専ら一方の国のみが有事の場合に共同自衛行動を取ることは許されない。
 また、日本国が核兵器使用効果の受益者となることは認められないから、共同自衛行動における同盟国による核兵器の使用は予め条約中で禁じておかなければならない。その他、反人道的兵器の使用についても、同様である。

 以上の趣旨を明確にするためには、日米安保条約の合憲的な改訂が必要である。現行安保条約はその法文を極めて簡素に定めつつ(全文わずか10箇条)、具体的な解釈運用指針を法規範性のない「ガイドライン」に丸投げするという粗野な体制は法治国家原則を軽視するもので、本来認められないやり方であった。
 これを改め、9条に適合する形でより具体的な規定を置く安保条約の抜本的な改定を構想すべき時機である。もし米国が条約本文の全面改定に難色を示すならば、せめて9条に適合するような合憲解釈に基づいた「9条ガイドライン」を策定し直すべきである。それをすら米国側が拒否するなら、安保条約の破棄も辞するべきでない。
  さらに、日米安保条約はあくまでも9条下での「過渡的安保体制」を支える手段にすぎないから、恒久的なものではあり得ず、10年程度の期限を区切り、必要に応じて更新していく期限付き条約としなければならない。

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9条安全保障論(連載第13回)

2016-08-26 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

七 自衛行動の許容範囲①

 9条の下で自衛権の行使として、どこまでどのような武力行使ができるかということは、最も実際的な問題として、常に論議され、それなりの基準も設けられてきたところである。しかし、近年は国際情勢の変化に対応するとして、武力行使の要件や方法に関する基準を緩和・拡大する傾向にある。
 その点、安保法制制定以前の旧自衛隊法では自衛隊の主任務として、「直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛すること」旨が明記されていた。この文言は自衛隊の任務規定であると同時に、「侵略」という事象の発生を大前提として自衛権が発動されるという武力行使の大枠規定でもあったのだった。

 これはいわゆる「専守防衛」が国是とされた時代を反映し、9条との整合性を考慮した合理的な規定であったが、「間接侵略」の概念は曖昧で、例えば同盟国の基地や艦船・航空機等が攻撃された場合でも、「間接侵略」とみなす余地があった。
 厳密に言えば、9条下で可能な武力行使は、日本領土への直接侵略を排除するための自衛権行使としてのみ認められるべきものである。しかも、それが自衛戦争という形で継続的な戦争へと展開していくことはまさに戦争放棄を定めた9条に違反することになる。従って、ひとまず侵略排除に成功したら、それ以上の追尾攻撃や報復攻撃は厳に自制し、武力行使を直ちに中止しなければならない。
 さらに、いわゆる先制的自衛権の行使も禁止される。先制的自衛権は「攻撃は最大の防御なり」の軍事格言に基づき、先に相手を叩くことで、侵略を先制的に抑止するという戦術であるが、これはまさしく先制攻撃に他ならず、自衛戦争の一種だからである。

 一方、侵略を未然に防ぐための領海警備行動については現在でも自衛隊ではなく、海上保安庁の主任務とされている。これも9条の趣旨を考慮し、自衛隊の任務をできる限り限定するという観点からの役割分担政策であり、評価に値する部分はあるが、海上保安庁の本務は「海の警察」であり、国境警備隊ではない。
 過重任務や権限の重複という問題を回避するためにも、海難事故・海上事件の処理に関わらない領海警備活動の任務は一括して自衛隊(統合自衛隊)に移管し、海上保安庁は海上警察機関として純化したほうが合理的であり、そのことが直ちに9条に反するとは考えにくい。

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「女」の世界歴史(連載第45回)

2016-08-24 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

③トルコ革命と女性
 オスマン・トルコでは16‐17世紀に後宮が政治を主導する「女人政治の時代」を経験したが、基本的には他のイスラーム諸国同様、女性全体の地位は低い状態に置かれていた。しかし、晩期の西欧化改革(タンジマート)は、結果的に近代的な女性運動を惹起した。
 とはいえ、本格的な女性運動が組織されるのは、体制末期に青年トルコ人運動が興った時であった。1908年に設立されたオスマン女性福祉機構がそれである。立憲革命に結実した青年トルコ人運動も主要メンバーは男性が占めていたが、幾人か女性の姿もあった。
 その代表的な人物としては、オスマン帝国初の女性小説家と目され、かつフェミニストでもあったファトマ・アリエ・トプズ、共和革命後にトルコ史上初の女性政党を設立するジャーナリストのネジヘ・ムヒッディン、小説家で女権運動家もあったハリデ・エディブ・アドゥヴァルなどがいる。
 特にアドゥヴァルは第一次世界大戦での敗戦後、英国やギリシャによる占領への抵抗を呼びかける扇動者として活躍、続く対ギリシャ戦争ではレジスタンス軍の下士官として参戦さえした。23年の共和革命にも参画したが、独立戦争以来の同志でもあった初代大統領ケマル・アタチュルクとは対立し、亡命を強いられた。
 アドゥヴァルとは全く違うタイプの女性戦士として、農民出身のハトゥ・チュルパンがいる。彼女も独立戦争で兵士として活躍し、その功績を知ったアタチュルクの推薦により、革命後、35年の選挙で当選した18人の女性国会議員の一人となった。また、戦争未亡人のカラ・ファトマも公式に民兵隊を率いて独立戦争を戦い、当時女性としては異例の中尉にまで昇進した。
 このようにトルコ独立戦争及びその延長的な共和革命には、少数ながら女性戦士の姿も見られ、また戦士ではないが、トルコ史上初の女性医師となったサフィエ・アリも独立戦争で兵士らの治療に活躍している。
 こうして、トルコの近代化がイスラーム世界と言わず、アジア全体でも例外的に女性の地位向上を後押ししたのも、一つには徹底した近代主義者としてのアタチュルクの姿勢が影響していたかもしれない。
 アタチュルクは、革命後、一夫多妻慣習の廃止、離婚や相続における男女平等などの近代化を実行し、さらに1930年には地方で、34年には国政での女性参政権を認めるなど、女性の地位向上も近代化プログラムの柱としていた。
 ちなみに1923年から25年までの間、アタチュルクの妻で共和革命後、初代のファーストレディとなったラティフェ・ウッシャキはパリとロンドンで教育を受けたトルコにおける近代的な女性法律家の草分けであると同時に、近代的なファーストレディとして公の場にもヴェールを脱いで姿を見せるなど、近代的女性の範を演じた。
 なお、短い結婚生活のため、実子のなかったアタチュルクは多くの養子を取ったが、そのほとんどが養女であり、その中には世界初の女性戦闘機パイロットとなったサビハ・ギョクチェンがいる。また、別の養女アフェト・イナンは指導的な歴史学者となった。このように、アタチュルクは政策としてのみならず、自ら女子を養子として育成する試みを行なうほど、女子教育に関心が高かったようである。
 しかし、こうした革命初期の女性の地位向上は多分にしてアタチュルクの個人的な改革姿勢に負っていた要素が強く、かつ保守的なものであったため、先のムヒッディンが設立したフェミニスト政党は合法性を認められなかった。
 結局、革命後も、トルコにおける女性の法的権利と現実の社会的地位のギャップは容易に埋まることはなく、実際、女性国会議員数も35年の選挙時をピークに減少し、やがて一桁台に落ち込んでいくのである。

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「女」の世界歴史(連載第44回)

2016-08-23 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女権

②辛亥革命と女性
 日本の明治維新からおよそ半世紀置いて中国で勃発した辛亥革命も極めて男性主導性の強いものであったが、そうした中で異彩を放つ女性革命家が秋瑾である。
 清朝官吏の一族に生まれた秋瑾は、さる豪商子息との結婚に失敗し、単身日本へ留学した。当時の日本は孫文をリーダーとする中国革命派の海外拠点であり、秋瑾も孫文の中国同盟会に入会し、革命運動に身を投ずることとなる。
 ところが、清朝の要請を受けた明治政府による革命派取締りが厳しくなると、秋瑾は最強硬派として帰国・革命準備を主張する。しかし帰国後間もなく、武装蜂起に失敗し、清朝の鎮圧作戦により拘束、即決処刑された。そのため、4年後の辛亥革命を見ることはなかったが、すぐれた詩人でもあった彼女の死は反響を呼び、半ば伝説化される形でその後の革命運動を促進する役割を果たしたと言われる。
 31歳で刑死した秋瑾の活動期間は短かったが、女性啓発雑誌『中国女報』を創刊し、文筆を通じて女性解放にも寄与した点で、彼女は中国における近代的フェミニズムの先覚者でもあった。
 辛亥革命あるいはそこに至る革命運動の過程で秋瑾以外に目立つ女性の姿は見えず、辛亥革命成就後も、女性の権利に関して大きな成果は見られなかった。そうした中、孫文の三番目の妻宋慶齢とその二人の姉妹―いわゆる宋家三姉妹―は、それぞれ革命政府要人の妻となり、政治にも関与する新しい近代中国女性として歴史に残っている。
 三姉妹の父宋嘉樹は宣教師から実業家に転じ、新興民族資本・浙江財閥の創始者の一人となり、孫文の支援者でもあった。三姉妹は父の方針によりいずれもアメリカ留学を経験し、当地で近代教育を受けた第一世代の中国人女性たちであった。
 三姉妹のうち、後に国民政府行政院長(首相)を務める孔祥熙の妻となった靄齢は政治活動より教育・慈善活動に従事したが、真ん中の慶齢は孫文の秘書から妻となり、孫文の晩年を支えた。彼女は孫文没後、孫文が創設した国民党の幹部となった。一番下の美齢は孫文の後、国民党指導者として台頭する蒋介石の妻となり、やはり国民党幹部として強い影響力を持った。
 こうして三姉妹は、やがて始まる抗日戦争を国民党側で経験するが、三姉妹の歩みはその前後から食い違っていく。特に孫文未亡人として孫文の考えを尊重し、共産党との協力関係を主張する慶齢は蒋介石の反共クーデターに強く反対し、国共合作に奔走するが、美齢は蒋介石夫人としてぶれることなく、一貫して夫の代弁者であり続けたのである。
 結果、戦後の歩みは三者三様となる。夫とともにいち早く渡米した靄齢に対し、容共派として国共内戦後も大陸に残った慶齢は孫文未亡人としての名声を背景に、国家副主席から事実上の元首格である全人代常務委員長代行まで務め上げた。
 一方、共産党に敗れ、夫の蒋介石とともに台湾に渡った美齢は台湾総統となった夫を支えるファーストレディとして積極的に活動した。夫の死後は主としてアメリカに在住し、台湾民主化の過程で次第に影響力を喪失する中、100歳を越える長寿を全うし、2003年にアメリカで死去した。
 このように清末の新興財閥から出て、辛亥革命・抗日戦争・国共内戦を越えて生きた宗家三姉妹は、それぞれの仕方で中国近代史の女性証人と言える存在であった。

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「女」の世界歴史(連載第43回)

2016-08-22 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

①明治維新と女性
 アジア近代化の先駆けともなった日本の明治維新の知られざる特徴は、徹頭徹尾男性陣によって実行されたということである。それほどに維新側で女性の姿は見えない。むしろ、女性の姿は会津戦争を会津藩側で戦った婦女隊の女性たちや、同じく会津藩側で戦い、後に同志社創立者・新島襄の妻となる山本八重のように、旧体制保守の側で見られた。
 このことは、封建的な幕藩体制の中でも武士階級の女性たちは差別されつつもそれなりに自己の「居場所」を見出していたため、浪人のような形で体制からはみ出す者もいた男性に比べ、ある意味では旧体制の保守に利害を持っていたことを示している。
 明治維新の主役となったのは、旧幕藩体制下では閉塞させられる立場にあった西日本外様藩の下級青年武士たちであった。かれらが維新成就後には「明治の元勲」として権勢を張ることになるわけだが、彼らの多くは正妻のほかに妾を持ち、その点では一夫多妻の旧大名と変わりなかった。
 とはいえ、明治維新では女性の通行の自由を妨げていた関所の撤廃や、多分にして形だけとはいえ芸娼妓解放令などの部分的な女性解放も実現したほか、黒田清隆のように女子教育の意義を認め、女子留学生の米国派遣を計らう要人もいた。
 この時に派遣された五人の女子のうち、二人は病気等の理由で脱落したが、津田梅子、山川捨松、永井繁子の三人は米国で学び、帰国した後、それぞれの仕方で近代的女子教育に携わる先覚者となった。
 こうした体制内化された近代女性とは別途、反体制的な自由民権運動に参加する女性も現れた。その先駆けは高知県で女性参政権を主張した楠瀬喜多かもしれない。
 彼女は維新前、土佐藩士の妻だったが、夫との死別後、納税者たる戸主となったのに県の区会議員選挙で女性に投票を認めないのは不当だとし、一人で請願を続けた結果、政府が1880年の区町村会法で各区町村会に選挙規則制定権を認めたことで、彼女の区では女性(戸主のみ)の投票権が認められることになった。
 これは地方の一地区とはいえ、当時は世界的にも画期的な女性参政権の実現であったが、政府はわずか4年後の84年、一転して区町村会の選挙規則制定権を廃止し、女性参政権も否定されたため、この先駆的な女性参政権の実験は短命に終わった。しかし参政権運動から自由民権運動に身を投じた喜多自身は明治を越えて大正時代まで長寿を保ち、「民権ばあさん」の異名を取ることとなった。
 喜多より若い世代からは、より本格的な民権運動家女性も出現する。後に衆議院議長ともなる中島信行の妻・中島湘煙(岸田俊子)は夫も幹部を務めた自由党の同伴者となり、女権拡大の論陣を張る演説家として活動した。
 彼女の演説に触発され、民権運動家となったのが福田英子であった。彼女は明治政府の民権運動弾圧の中、朝鮮の開化派と組んで朝鮮の地で立憲革命を起こすことを計画した大阪事件に連座して投獄されるなど、闘士的な一面があった。
 大阪事件から5年後の1890年、明治政府は集会及政社法を公布して、女性が政治集会や結社に参加することを含め、女性の政治活動を全面的に禁止し、女性に対する政治的抑圧を強化した。この施策は、政府が女性の政治的覚醒を恐れていたことを示している。
 こうした女性抑圧策の一方、日清・日露戦争で従軍看護婦として尽力した功績から非皇族女性として初の受勲者となった新島八重や、幕末の尊皇攘夷運動家で、義和団事件の前線視察をきっかけに女性の戦争協力組織となる愛国婦人会を設立し、やはり受勲者となった奥村五百子のように、富国強兵策に協力する形で地位を認められる女性も現れるのである。

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9条安全保障論(連載第12回)

2016-08-19 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

六 自衛武器の許容範囲

 前回まで、9条の下で認められる過渡的自衛力の組織的な側面について見てきたが、過渡的自衛力の内実は組織論にとどまるのではなく、究極的には物理的な力、すなわち武器によって決定づけられる。
 この点、政府は9条の下で保持が許されない「戦力」の意味として、「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるもの」と解釈してきたが、このような歴史主義的な解釈基準はあいまいに過ぎ、現在の自衛隊装備は優に諸国の軍隊のそれに匹敵するものとなっており、政府解釈は形骸化している。
 そこで、このあたりで、9条の下でも許容される過渡的自衛力の物理的な要件、すなわち保有できる武器の範囲についても改めて検証し直す必要が出てきている。

 そもそも「戦力」不保持を宣言する9条の下では、戦力の物理的な手段となる「兵器」の保有は許されない。このことは現在でも比較的よく認識されているらしく、防衛省・自衛隊では「兵器」の用語を避けて「防衛装備品」と呼び、その研究開発・調達等に当たる官庁を「防衛装備庁」と称している。
 ただ、これらは多分にして用語上の婉曲的な言い換えと化してきており、防衛装備品という名の兵器、防衛装備庁という名の兵器庁(または軍需庁)となっているだろう。その傾向は、改憲を通じた再軍備に向け、今後ますます強まると予測される。
 だが、本来9条の下では「兵器」に該当しない「自衛武器」とは何かを、言葉遊びでなく、実質的に検証することが政府に課せられているのである。

 その点、大まかな基準として、専ら攻撃的な武器―攻撃専用武器―は「自衛武器」には当たらないと解される。典型的には、核兵器に代表される大量破壊兵器である。今日の大量破壊兵器は「抑止」の名において保有されるのが一般だが、ひとたび発動すれば大量虐殺を免れない兵器は自衛武器に該当し得ない。
 このような大量破壊兵器の保有禁止は当然、大量破壊兵器保有国との共同運用のような形態を採ることの禁止にも及ぶ。ただし、「核の傘」のように、外国の大量破壊兵器の抑止力を間接的に借りることは必ずしも9条に違反しないが、核使用による大量破壊効果を享受することは許されない。従って、9条の下では「核の傘」は抑止のみ、使用については明確に拒否するという国家意思を正式に表明しなければならない。

 一方、兵器分類上は通常兵器に含まれるも、大量破壊兵器に準じた広範囲にわたる破壊効果を持つ非人道的兵器も自衛武器には該当しない。現在、この種の兵器については特定通常兵器使用禁止制限条約によって国際間でも規制がなされているが、技術開発によって未規制の新型兵器が続々と登場すると予想されることから、9条安保論では条約の形式的な規制対象には拘泥せず、実質的な基準から攻撃専用武器かどうかを判断するべきである。

 議論となり得るのは、攻撃型潜水艦や戦闘爆撃機のような攻撃的可動兵器の保有である。これらは防衛上も必要とみなされることがあるが、厳密に言えばこれらの兵器は自衛武器の範疇には含まれない。自衛武器の範疇に含まれる可動兵器は哨戒型艦船や防空警戒機などにとどまり、そうした自衛目的を超えて攻撃的に使用できる可動兵器の保有は9条に違反するのである。

 もっとも、現代戦争ではミサイルの使用が想定されており、好戦的な諸国は皆、弾道ミサイルを配備するようになっている。このようなミサイルは当然にも攻撃専用武器として9条の下では保有が許されないが、外国からのミサイル攻撃に対する迎撃的な防衛については別途考えなくてはならなくなっている。
 ただ、真に効果的なミサイル防衛のあり方については多々議論があり、安易なミサイル防衛システムの配備推進は許されず、9条と整合する自衛目的を逸脱しないミサイル防衛のあり方についての技術的な研究が必要である。
 それ以前に、大量破壊兵器ともリンクしている弾道ミサイルのような攻撃的武器の廃絶を国際社会においてリードすることも、9条によって日本国政府に課せられた責務であることが想起されなければならない。

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戦後ファシズム史(連載最終回)

2016-08-17 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐5:アメリカン・ファシズム??
 本連載の最後は、アメリカン・ファシズムの可能性という意外すぎるテーマで締められる。従来、アメリカは個人主義と自由主義の国とされ、全体主義の極点とも言えるファシズムとは世界で最も相容れないとするのが通念であった。
 実際、アメリカにも従来、歴史的な人種差別を軸とした白人優越主義団体やナチスに共鳴するネオ・ナチ集団などは存在してきたが、これらが政党化されるようなことはなく、伝統的な共和/民主二大政党政の枠組みに大きな変化は見られない。
 ただ、21世紀に入って二大政党政内部で、元来右派を形成してきた共和党に変化の兆しが見えている。その岐路となったのは、アメリカ史上初めて本土中枢が攻撃された2001年の9・11事件である。
 この衝撃的事件の後、当時の共和党ジョージ・ブッシュ大統領は議会と協働してテロ対策に関する連邦法執行機関の権限を大幅に拡大する大規模な法律(テロリズムの阻止と回避のために必要とされる適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化するための法律)を策定した。
 この長大なタイトルを持つ法律は、通称「愛国者法」とも称されるように、9.11事件で喚起された愛国感情に依拠して、秘密裏の情報監視・取得や移民・外国人に対する監視と収容・送還を容易にする憲法上際どい法律であり、実質上は合衆国憲法の部分的停止法と言ってもよい内容を持つ秘密警察法規であった。
 そうした危険性から、当該法律をナチスが独裁制を固める土台とした「国民と国家を保護するための大統領令」になぞらえる向きさえあった。政令と法律の相違を無視したこの比喩はいささか大袈裟であったが、ブッシュ政権はこの法律とともに、これまたアメリカ史上初となる国内治安管理専門の官庁として国土保安省を設置して、治安管理政権としての性格を明確にした。
 これだけでブッシュ政権をファシズムと結びつけることはできないが、とはいえ、これほど管理主義的な政策を実行した米政権は過去になく、アメリカ史上異例の政権だったと言える。しかし、続く民主党バラク・オバマ大統領は2011年、実際上の観点から愛国者法の重要条項を4年間延長する法律の制定を主導しつつ、その期限切れを迎えた15年、通称米国自由法(正式名称は長大なため省略)の制定を主導し、愛国者法に大幅な修正を加え、人権上の配慮を行なった。
 愛国者法自体はオバマ政権下でも廃止されていないとはいえ、大きな修正が加わったのは、アメリカにおける伝統的な「自由主義」の牽制力が働いたためとも言えるが、これに対する反動として出現したのが、「不動産王」ドナルド・トランプが巻き起こす「トランプ現象」であった。
 現時点で共和党大統領選候補者に決定しているトランプは、テロ対策のための強硬な移民排斥を軸とする煽動的な主張で支持を集め、共和党の大統領候補者指名選挙を勝ち抜き、指名を獲得した。トランプは二大政党政の片割れである共和党から立候補しているものの、実質的には伝統的な共和党指導層の外部にある無党派的な立場であり、エリート支配に対する民衆―とりわけ白人労働者階層―の反感を巧みに刺激する形で、大統領候補者にのし上がったと言える。
 トランプはしばしば人種差別的な言動で波紋を呼んできたが、身内にユダヤ教徒がいることからも、反ユダヤ主義は封印しており、大衆の不安が強いテロや麻薬犯罪と結びつけた反イスラーム主義・反ヒスパニック主義を前面に押し出している。彼の反移民・米国第一主義の政策綱領は文字どおりに実現されれば、欧州における反移民国粋ファシズムの流れと呼応したものとなることは確実であり、「トランプ政権」の成立は欧州にも多大の影響を及ぼすだろう。
 実際のところ、「トランプ政権」の小さな予行演習とも取れる「政権」がすでにアリゾナ州に現れている。09年に州知事に就任した共和党ジャン・ブリュワー知事(女性)の下、不法移民の疑いがある者を官憲が職務質問、拘束することができることを軸とした全米でも最も厳格な移民法を成立させたのだ。
 この州法は12年に合衆国最高裁で違憲と判断され、15年にはブリュワー知事も任期切れをもって退任したが、当然にもブリュワーはトランプの移民政策を高く評価し、トランプ支持を表明している。
 アメリカン・ファシズムとも言うべき「トランプ政権」が現実のものとなるかどうか、現実のものとなったとして、その政策綱領を修正なしに実行できるかどうかは、アメリカにおける「自由主義」の牽制力がどこまで働くかにかかっているだろう。(連載終了)

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http://blog.livedoor.jp/kobasym/archives/1018037.html

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戦後ファシズム史(連載第53回)

2016-08-16 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐4:日本の新国粋主義
 戦前における軍部主導の擬似ファシズムが、敗戦を経て、―連合国の占領という「横槍」の結果ではあるが―民主的に再編され、漠然と「戦後民主主義」と称される体制が定着してきた戦後日本でも、21世紀に入って「ファッショ化要警戒現象」と思しき現象が観察される。
 といっても、日本では現時点で外見上明白な変化が見て取れるわけではない。戦後日本の体制は、戦前非合法化されていた共産党も含めた多党制の下、保守系包括政党の性格を持つ自由民主党が不定期の解散総選挙を繰り返しながらほぼ一貫して政権を維持する一党優位構造であり、1990年代以降、二度の比較的短い政権交代を経験しても、この構造は変わっていない。
 しかし、イデオロギー的にも温度差のある派閥連合体の性質を持つ自由民主党内で中道保守系派閥が主導していた党内権力構造が変質し、2000年の森喜朗内閣以降、5年にわたった小泉純一郎政権を経て、森が実質上率いていた最右派派閥が主導するようになり、自民党の右傾化反動化傾向が顕著になってきた。
 この傾向は、1997年に設立された各界横断的な尊王国粋団体・日本会議と同時に結成された連携国会議員グループが自民党内に深く浸透し、とりわけ近年の安倍晋三政権では首相をはじめ、多数の閣僚を輩出していることで、ある種の影の権力として党内党の様相を呈するに至っていることともリンクしている。
 こうした自民党の右傾化反動化傾向は、2009年の総選挙で敗れ、自民党が下野中の12年4月に取りまとめた「憲法改正草案」に顕著に現れている。この草案の特徴は、再軍備宣言を基調としつつ、基本的人権に公益・公序の観点から広範な制限を加え、国防の責務や国旗国歌尊重義務に象徴される国民の国家忠誠義務を明記するという国家主義的な色彩の強いものである。
 そのほか、天皇を国家元首して明記し、国防軍の退役軍人も内閣総理大臣及び全ての国務大臣となれる道を開くなど、克服されたはずの軍国主義に回帰するかのような復古色も滲み出る内容となっている。
 このような改憲草案をひっさげつつ、安倍を擁する自民党は12年の総選挙で圧勝し、政権を奪還すると、13年、16年の参議院選挙でも連勝し、衆参両院を制覇するというかつてない支配力を得た。その結果、野党は断片化を来たし、対抗力を喪失しており、巨大与党が議会政治を支配するというシンガポールや近年のロシアなどで見られる議会制ファシズムの形式的な土台はすでに用意されているとも言える。
 10年近い長期化も窺う安倍政権ではメディアに対する与党からの訂正要求や「ネットサポーターズクラブ」なる後援組織を通じたインターネット上での世論介入のような法制化されない非公式的な形態の情報統制策が多用されていることも、「ファッショ化要警戒現象」として注視される。
 他方で、地方基盤政党の形で、地方集権化、競争淘汰主義と教育を中心とした分野での管理統制を追求する日本維新の会(現党名)のような新たな権威主義的右派政党も台頭している。同党は日和見的に離合集散と党名変更を繰り返し、いまだ全国政党にはなり切れていないが、同党が中央でも伸張し、自民党と協力関係、さらには連立政権を形成することになれば、日本政治はファッショ化段階に進む可能性もある。
 ちなみに、移民政策に関して、従来の日本では欧州における反移民諸政党の主張をも上回るほどの移民規制策―事実上の移民否定政策―を敷いてきているが、近年は在日コリアンを中心とした定住移民の排斥を訴える在野運動も隆起している。こうした運動はまだ議会政党の形を取っていないが、隠然と与党周辺にも影響していると見られ、今後の動向が注視される。
 これに対し、従来、一部自民党内にも裾野を持つ形で、右傾化反動化に対するブレーキの働きをしてきた護憲運動は高齢化による退潮も目立ち、往時の勢いを失っている。とはいえ、自民党も現時点では護憲的な傾向の強い中道政党・公明党との連立枠組みを維持しており、連立第二党からのブレーキはある程度働いていると見られる。
 こうして、現時点では日本のファッショ化は要警戒段階にとどまっているとはいえ、新国粋主義とも呼ぶべき潮流の中にあって、「戦後民主主義」は現在、岐路に立たされていることに変わりなく、今後の日本の針路は安易な予断を許さぬものとなるだろう。

※既連載『近未来日本2050年』は、日本のファッショ化が進展するという前提で、2050年の近未来日本における「議会制ファシズム」のありようをフィクショナルに描出する試みである。

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戦後ファシズム史(連載第52回)

2016-08-15 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐3:トルコの宗教反動化
 欧州周辺域で「ファッショ化要警戒現象」が観察されるのは、地政学上欧州の東端とも言えるトルコである。トルコはオスマン帝国1923年のトルコ革命以来、共和体制の下で政教分離を国是として近代化を推進してきた。
 この間のトルコでは革命の中心を担った軍部が政教分離国是の「守護者」として時折クーデターを含む硬軟の政治介入も敢行する政治力を保持しつつ、親軍部系の世俗政党・共和人民党を軸とした議会政治が定着しつつあった。この体制は、近代化という側面ではトルコをイスラーム圏内で最も近代的な国に押し上げる効果を持った一方、民主主義という側面ではトルコを軍部の政治力が留保された半民主主義の段階にとどめる制約を課してきた。
 この構造に最初の転機が訪れたのは1995年の総選挙で、イスラーム保守系の福祉党が第一党に躍進し、翌年、福祉党中心の連立政権が発足した時であった。しかし、これに危機感を抱いた軍部は97年、圧力をかけて福祉党政権を退陣に追い込み、98年には憲法裁判所による違憲・非合法化決定により福祉党は解体された。
 しかし、一度火がついたイスラーム系政党の躍進は止まらず、2002年の総選挙では、福祉党の後継政党で前年にやはり憲法裁判所決定により非合法化されていた美徳党から分かれた公正発展党が圧勝し、政権与党となった。この時から、現在まで四度の選挙をはさんで公正発展党政権が続いており、トルコ現代史は大きく変化している。
 この間、政権を主導しているのは、2003年から14年まで首相を務めた後、大統領に転出したレジェップ・タイイップ・エルドアンである。彼は福祉党→美徳党で活動したベテラン政治家で、イスタンブル市長時代にはイスラーム主義を煽動した罪で投獄、公民権停止処分を受けたこともある人物である。
 そうした政治弾圧の経験からも、エルドアン政権の前半期は軍部及び軍部と連携する司法部の権力をそぐことに置かれていた。この課題は憲法改正を通じて達成されていき、軍部はかつてのように政治介入することができなくなった。
 これは一面で民主化の進展とも受け取れたため、エルドアンへの内外の評価は一時高まったが、11年の総選挙で勝利した後、別の側面が浮き彫りになり始める。権力基盤の強化を背景に、イスラーム保守色を強めるとともに、言論統制や反対派弾圧などの権威主義的な性格が発現し始めたのだ。
 14年に大統領に転出したエルドアンが従来の憲法上おおむね象徴的な元首にとどまってきた大統領の権限を強化し、長期体制化を狙っていることが明らかになると、この問題をめぐる党内対立も表面化する中、16年には大規模なクーデター未遂事件が発生した。
 クーデターは短時日で鎮圧されたが、エルドアン大統領はクーデターの背後に新興宗派的なイスラーム運動を展開して政権と対峙するフェトフッラー・ギュレン師が潜むという構図を作り出し、ギュレン派と目される各界メンバーの大量パージに乗り出しているほか、一度は廃止した死刑の復活も主張している。同時に、反クーデター集会を通じた大衆動員によりエルドアン支持と愛国的な感情を煽る手法で、野党も翼賛的に巻き込む全体主義的な空気を醸成しようとしているため、ファッショ化の現実的な危険が懸念される。
 他方で、エルドアン政権は欧州が受け入れない難民の送還先として欧州における反移民政策の協力者という位置にもあって、欧州の反移民国粋主義の波ともリンクしており、欧州がエルドアン体制の強権化への批判を強める中、今後の地政学的複雑化が注視される。
 いずれにせよ、近代トルコの国是であった政教分離政策は岐路に立っており、従来、民主主義の観点からは後進的な面もあった軍部の政治介入によるコントロールも効かなくなった現在、ファッショ化の危険も孕むトルコの宗教反動化は避けられなくなっている。
 ちなみに、トルコには1969年に結成されたより欧州的なファッショ色の強い世俗政党として民族主義者行動党が存在しているが、同党は近年穏健化し、親イスラームにも傾斜しつつあり、クーデター未遂後の公正発展党体制との関わりが注目される。

[追記]
民族主義行動党は2018年6月の総選挙で公正発展党と政党連合を組み、勝利した。同時に実施された大統領選ではエルドアンが再選し、政権延長に成功した。

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9条安全保障論(連載第11回)

2016-08-13 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

五 過渡的自衛力論④

 今回は、前回概要を記した統合自衛隊の指揮系統についてである。前々回で触れたように、自衛隊が「半文民」組織化されたとしても、武装組織である事実に変わりはなく、その独断暴走や政治化を防ぐためには、民主的統制下に置かれるべきことは当然であり、その最高指揮権は現行憲法上行政の長たる内閣総理大臣が掌握する。

 ここまでは現行自衛隊と同様であるが、自衛権の発動や災害出動を含めた自衛隊の活動に関する実質的な意思決定機関として「自衛隊統制会議」が置かれるべきである。この機関は、既設の国家安全保障会議のような単なる安保対応の諮問機関ではなく、自衛隊の活動そのものに関する決定機関にしてかつ統制機関である。
 その議長は内閣総理大臣であり、副議長を防衛大臣が務める。その他の構成員として、内閣官房長官、外務大臣、法務大臣、財務大臣、国土交通大臣、国家公安委員長に内閣法制局長官、衆参両院の各防衛問題担当委員会の委員長を加えた計11人から成る会議体である。国会の常任委員長が参加するのは、内閣のみならず、国会による統制も利かせるためである。自衛隊統制会議の議決は正副議長と国会の両常任委員長を含む多数決により、その議決事項は閣議決定により最終的な効力を有する。

 自衛隊統制会議の議決及び閣議決定に基づき、防衛大臣を通じて自衛権が発動されるわけだが、9条適合的な自衛隊は統合的に組織される。その具体的な意味を少し立ち入って概説すれば、まずは全国を複数の管区に分けた統合地方隊がある。その地理的区分は時々の防衛事情に応じて変化し得るが、基本的には、現行海上自衛隊及び航空自衛隊の地方部隊の地理的区分を参考にしながら、新たな統合区分を設けることになるだろう。
 その点、現行の部門別自衛隊では、海上自衛隊は北から順に、大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の五地方隊、航空自衛隊は北から順に、北部、中部、西部、南西の四方面隊に区分され、両者の区分に齟齬がある。統合自衛隊では主軸となる海上自衛隊の区分を基準にしつつ、北海道と南西諸島はそれぞれ別個の地方隊が管轄する六乃至七個程度の地方隊で構成されることになると想定される。
 こうした地方隊以外とは別に、全国的な機動運用部隊として自衛艦隊がある。これは現行の海上自衛隊においても長い海岸線やシーレーン防衛の目的から設置されている機動運用部隊である。一方、防空に関しては、弾道ミサイル防衛の重要性が増している状況に対応するため、ミサイル防衛を含めた防空全般を統括する広域防空司令部を設置する。
 結局のところ、統合自衛隊の中枢となる司令監部は司令総監、副司令総監に、自衛艦隊司令官、広域防空司令官の計四人で構成される。これに必要に応じて、特殊部隊を指揮する特殊部隊群司令官や防衛省情報本部長のような情報部門の長が加わる。

 ところで、しばしば現行自衛隊において「文官統制」の要とされてきた防衛省内部部局(内局)であるが、9条安全保障論においては、「文官統制」よりも「憲法統制」が重要であり、そのためにも先の自衛隊統制会議における審議と議決が要となる。一方で「半文民」としての自衛官自体の文官的性格が増すからには、武官と文官の峻別は必要としない。
 従って、防衛省内局は政策的な観点から防衛大臣の立案を補佐する機構として存在していればよく、防衛省内局が自衛隊現場を統制するという無理な構制に固執する必要はない一方、内局ポストに制服自衛官を充てることも臆する必要はなくなるだろう。

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9条安全保障論(連載第10回)

2016-08-12 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

四 過渡的自衛力論③

 前回は「軍隊ではない(あってはならない)」自衛隊の形式的な組織要件について見たが、ここではそのような自衛隊のより実質的な編制要件について見る。
 現行自衛隊は、周知のとおり、陸上・海上・航空の三隊によって構成されている。これは陸海空三軍構成を通例とする現代軍隊の編制にならったものであり、それゆえに自衛隊が9条で保有を禁止されるはずの陸海空軍のアナロジーとして合憲性を疑われるゆえんでもある。
 これに対して、政府は9条で禁止される「戦力」とは「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるもの」をいい、「陸海空軍」とはそうした「戦争目的のために装備編成された組織体」を指し、「その他の戦力」というのも、「本来は戦争目的を有せずとも実質的にこれに役立ち得る実力を備えたものをいう」として、自衛隊はかかる意味での「戦力」に該当せず、9条に反しないと解釈してきた。
 こうした政府解釈は「戦力」に関する一般論で片を付け、自衛隊が9条の枠内で備えるべき編制の実質内容については回避している点で、まさしく法的な形式論に終始している。

 そこで、改めて9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制という観点から自衛隊の編成について考えてみるに、それは陸海空軍の単純なアナロジーであってはならないはずである。
 政府が自衛力論のキーワードとする「必要最小限」を重視するなら、四囲を海洋で囲まれ、大陸部と接続していない日本の現有領土の地理的な特質にかんがみ、自衛隊は海洋防衛を主たる任務とするものに限定されなければならない。すなわち、自衛隊≒海上自衛隊ということになる。
 現行三自衛隊にあっては、海上自衛隊約4万5千人、航空自衛隊約4万7千人に対し、陸上自衛隊約15万人(いずれも2015年3月現在の定員概数)と圧倒的に陸上自衛隊中心の編成となっているが、これは陸軍主体の旧日本軍の編成を継承したものにほかならない。
 陸軍はその名のとおり陸上戦力であり、大陸国家においては防衛上の中心的存在となるが、元来島嶼国家の日本にはふさわしくない戦力である。しかるに、戦前の旧日本軍では陸軍兵力が終戦時約550万人にまで膨張していたのは、まさに大陸侵略という帝国主義的膨張政策の結果であった。
 これに対し、9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制下の自衛隊は海上防衛を主軸とするので、陸上防衛力はあえて必要ないと言ってよいのである。日本の防衛上、敵軍に上陸を許したうえ、陸上で撃退するという作戦は、現在のように都市化が進んだ時代には多大の犠牲者を出す危険な市街戦となりかねない。
 よって、日本の防衛上は敵軍の上陸阻止という水際作戦が最も重要であり、そのための海上防衛力の配備を必要とし、かつそれで足りる。ただし、一定規模の陸上部隊の存在が許されないわけではないが、それは陸上自衛隊として別立てにするほどのことはなく、万一敵軍の上陸を阻止できなかった場合における遊撃・破壊工作を主任務とする陸上特殊部隊として編成すれば必要にして十分である。

 とはいえ、現代の戦争においては空軍の比重が大きい。つとに第二次世界大戦でも米空軍(当時は陸軍航空総軍)の激しい空爆によって主要都市と社会基盤を徹底的に破壊されたことが日本の敗因となったところでもある。空爆はそれにさらされる一般市民に逃げ場をなくし、大量犠牲を出す最も反人道的な攻撃手法であり、それを専門とする空軍という軍種自体が、現代戦の反人道性を象徴している。
 しかし、そうした航空攻撃が現代戦の中心となっている現状にかんがみれば、防衛上も防空体制の保持が必須となる。そこで航空自衛隊については海上自衛隊とは別立てで保持するという編成もあり得るが、航空自衛隊を空軍のアナロジーとするなら、やはり9条を逸脱するだろう。
 その点、旧ソ連軍が保持していた防空軍が参照される。ソ連防空軍は空軍とは別立ての防空任務に限局された専守防衛組織として機能していた。航空自衛隊の役割も本来は防空軍に近いものであったはずだが、近年は戦闘機のマルチロール化に伴い、より攻撃的な空軍に近づいている。防空任務限定の航空自衛隊であれば、戦闘機は最小限でよく、警戒機や高射砲、防空ミサイル等を中心とした防御的な装備が中心となる。

 こうして、9条の現在時間軸に基づく過渡的防衛体制下の自衛隊は陸上を除いた海上及び航空自衛隊の二部門に集約されるが、海・空を完全な別立てとするなら、陸軍を排除した海軍と空軍のアナロジーとなりかねないので、海・空二部門は別立てではなく、統合されなければならない。
 この点、現代米軍が形式上は陸海空軍に海兵隊、沿岸警備隊を加えた五軍種構成を維持しながらも、運用上は統合されていることが参照される。この統合はあくまでも全世界に展開する米軍の作戦遂行上の効率を考慮した運用上の統合にすぎないが、自衛隊の場合は軍隊組織との相違を考慮した憲法的な制約としての組織上の統合化が要求されるのである。
 要するに、自衛隊は自衛隊として単一の防衛組織―統合自衛隊―であって、担任地域ごとに海上自衛隊と航空自衛隊が統合された地方隊と全国的な機動運用部隊の二本柱で編成されることになる。当然、現行のように各自衛隊ごとに旧日本軍の参謀本部(または軍令部)のアナロジーである幕僚監部が設置され、それぞれに幕僚長が任命されることにはならず、自衛隊の司令監部は単一であり、全体を唯一の司令総監が指揮する体制となる。

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9条安全保障論(連載第9回)

2016-08-11 | 〆9条安全保障論

Ⅳ 過渡的安保体制

三 過渡的自衛力論②

 前回、過渡的自衛力論の概略を述べたが、今回からはその具体論を展開する。その際、次の二つの問いを順次解明していくことになる。

  問1:合憲的な自衛のための武力行使とは?
  問2:合憲的な自衛のための武装組織とは?

 9条の規定に沿って論理的に展開するなら、問1から問2へ進むのが適切であろうが、ここでは、再軍備を狙う改憲論の目玉に関わる問2からあえて入ることにする。

 ここで単純な「自衛力」ではなく、「過渡的」という形容詞を付加しているのは、自衛力の保持を恒久化するのではなく、あくまでも未来的非武装世界が到来するまでの期間限定での自衛力の保持であることを自覚するためであった。これに対して、自衛力の保持を合憲とする政府見解は、「必要最小限」という容量の問題に焦点を当てるばかりで、時限性の問題を等閑視してきた点において、視野が狭いものである。

 過渡性という時限性を重視するならば、自衛力の行使は時限的な義勇軍組織をもってするのが最も首尾一貫するであろうが、現代にあってはそうした義勇軍の組織化は技術的に困難となってきているため、現実的な選択肢ではない。そこで、志願制という限りではボランティア性を維持しながらも、公式の常備武力を組織することになる。
 この点で、戦後日本の常備武力として機能してきた自衛隊は、本来は戦力不保持を宣言する9条と戦後の地政学的事情との苦しい妥協の産物ではあるが、過渡的自衛力を担う組織としては、むしろ適切な選択肢と言えるのである。

 ただし、そのためには自衛隊がまさしく「自衛隊」ではなくてはならない。すなわち、自衛隊とは、自国防衛を任務とする武装組織であって、軍隊でないものでなくてはならない。軍隊の保持は9条2項で明確に禁止されているのであるから、これは当然のことである。
 しかし、「軍隊でない」ということが具体的にどういうことを意味するのか、より突っ込んだ考察を要する。「軍隊でない」とは、その組織が軍隊式に構築されてはならないということである。具体的には、要員の養成や階級が軍隊式であってはならず、また法体系的にも一般法を排除する軍法を持ってはならない。
 この点、現行自衛隊も当初はそのような非軍隊性という性格がかなり意識されていたのだが、時を経るにつれ、自衛隊の軍隊化が進行し始めている。それでも、階級呼称には旧日本軍とは異なるものが用いられ、法体系的にも軍法や軍法を執行する軍事法廷(軍法会議)は存在せず、非軍隊性はかなりの程度残されていると言える。

 一方、幹部要員の養成に関して、自衛隊は一般大学出身者の任用も行なってはいるが、幹部自衛官養成に特化した防衛大学校の創設とその定着により、必然的に幕僚長をはじめとする主要な幹部自衛官は防衛大学校出身者で占められるようになっている。それにより、自衛官の「軍人」化が進行している。
 およそ人間の組織では人が主要素となるという点では、自衛官の「軍人」化が進む現状は、まさしく再軍備を規定する改憲に向けての重要な布石となっている。しかし、9条安保論はこれとは逆の流れを促進する。つまり、自衛官の「半文民」化である。「半文民」とは、武官でありながら、文官的な素養と性格を併せ持つ官吏のことをいう。
 この点で、防衛大学校という幹部自衛官養成機関の位置づけには問題がある。現在の防衛大学校は省庁大学校でありながら大学(及び大学院)相当の教育機関と位置づけられているため、エリート軍人を養成していた旧陸軍士官学校及び海軍兵学校の後身に近い性格を帯びている。

 自衛官の「半文民」化を進めるには、幹部自衛官はすべて一般大学出身者(民間からの転職者を含む)とし、防衛大学校は上級幹部研修機関に特化する必要がある。それに加え、現場自衛官についても、専従自衛官を削減して、民間人の兼職による予備自衛官化を進め、ボランティア性を強化することである。
 また階級呼称についても、現行自衛隊のそれは旧日本軍とは異なるとはいえ、名称だけ変更して実質は旧称に対応している面が強いが、このことも軍隊化傾向を助長してきた。自衛隊の純粋「自衛隊」化のためには、階級呼称の廃止及び職掌による職名(隊長、司令官等々)への一本化も必要である。

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「女」の世界歴史(連載第42回)

2016-08-10 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

③西太后と明成皇后
 19世紀後半期になると、近代化の波は東アジアにも押し寄せるが、女権忌避的な風潮の強いこの地域では、女性君主の出現は望めなかった。その代わり、強い個性を持って君主に匹敵する権力を行使する后が現れた。
 一人は清朝末期の西太后である。彼女は18歳で9代咸豊帝の後宮に入り、皇太子を産んだことで懿貴妃に昇格するが、あくまでも側室扱いであった。しかし、懿貴妃は皇帝も辟易するほど政治的野心が強く、1861年の咸豊帝の死後、皇帝の側近グループを排除するクーデターを起こし、西太后として10代皇帝に即位した息子同治帝を後見する垂簾聴政の形で実権を握った。
 しかし同治帝が74年に早世すると、今度は甥に当たる光緒帝を擁立し、引き続き実権を保持した。この間の政治体制は、咸豊帝の皇后だった東太后、さらに咸豊帝の弟恭親王とともに権力を分有する三頭政治であったが、81年に東太后が死去、84年には清仏戦争敗戦の責任を取らされた恭親王が失権すると、西太后の一人天下となった。
 西太后の施政はひとことで言えば日和見主義であり、同治帝の時代には、アロー戦争以来、西欧列強による領土侵食が進む中、伝統的な王朝体制を維持しつつ、西洋近代技術も摂取する洋務運動の後援者となったが、この中多半端な改革策が新興国日本との戦争に敗れ、挫折すると、西太后はいったん政治から身を引く。
 しかし、親政を開始した光緒帝が日本の明治維新にならった根本的な近代化改革(変法運動)に乗り出し、守旧派官僚らの反発が高まるのを見ると、西太后は守旧派の要請を受け、クーデターを断行、光緒帝を幽閉し、政権を奪取する。
 ここから西太后の反動政治が開始されるが、これも1900年の義和団の乱を機に挫折、乱が収拾されると、復権した西太后は一転して変法政策を採用して、近代化改革を進めるのである。その成果は06年の立憲君主制への移行宣言に現れるが、9年後の移行という先送り条件がついていたため、08年の光緒帝死去、翌年の西太后自身の死去により実現しないまま、辛亥革命を迎え、清朝はあえなく終焉してしまう。
 結局のところ、西太后は権力闘争には長けていたものの、自己の権力を保持するための日和見主義的な施政のために、激動期の清朝を西欧・日本の外国勢力からも、また国内の革命勢力からも守り切れず、清朝の幕引きに手を貸す結果となった。

 一方、清の間接支配下にあった隣国朝鮮にも、西太后と同時期に類似の女性権力者が現れた。朝鮮王朝26代高宗正室の閔妃(明成皇后;ただし明成皇后は諡号のため、以下では閔妃と呼ぶ)。
 西太后同様に政治的野心の強かった閔妃の政治家人生はほぼ、高宗治世の初期に実権を持った高宗実父・興宣大院君との権力闘争に割かれていた。まず1873年、大院君を追放する策動に成功した後、権力中枢を身内の閔氏で固めた縁故政治を開始する。
 その施政の特質は、大国への依存という事大主義であった。当初は、明治維新直後の日本に接近し、その力を借りて一定の近代化を志向したが、その代償は自国に過酷な不平等条約(日朝修好条規)の締結であった。
 しかし、軍の近代化策が旧軍人の反発を招き、大院君の復権を狙ったクーデターを呼び起こすと、今度は清を頼って政権復帰を果たし、清を後ろ盾とする。ところが、清も日清戦争に敗れ、国力を低下させるや、ロシアに接近していく。
 このような閔氏政権の親ロシア化に反発した日本や親日派の策動により、95年、閔妃は王宮内に乱入した反対勢力の手により暗殺されてしまう。こうして閔妃は西太后とは異なり、非業の最期を遂げることとなった。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来の中国的な垂簾聴政型の王后とは異なり、一人天下となって以降の西太后と同様、君主と同格の后であった。
 彼女の反動的な縁故政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし近代主義者としては限界があり、その政治路線は日和見主義的で、一貫しなかった。その点でも西太后に匹敵し、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。

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