ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

靖国と憲法

2013-04-29 | 時評

政府の重要閣僚による靖国神社参拝問題で、またも外交途絶である。そしていつも通りの歴史観論争。しかし歴史観という主観的な土俵で議論しても、政治的な決着はつかない。

こういうときこそ、無味乾燥な形式的法律論の出番だ。参照条文は、憲法20条の第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」である。

これは極めて厳格な政教分離の規定であって、現行憲法起草時に参照されたアメリカ憲法でも単に国教の樹立を禁止しているにとどまり、上記条項のようにおよそ公権力の宗教的活動全般を禁止するような規定は見られない。

現行条項はあまりに厳格すぎるというなら、改定するがいい。事実、自民党改憲案では、先の条項に「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。という但し書きを追加して、閣僚の靖国参拝にも道を開こうとしている。これは与党自身、現行条項の厳格さを認識している証拠である。

だとすれば、悲願の憲法改定が成るまでは、憲法99条に定める公務員の憲法尊重擁護義務(「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」)を果たし、靖国神社への閣僚の公的参拝は控えるべきである。

一切参拝するなというのではない。神社への参拝は同じ憲法20条の第1項が保障する信教の自由の範囲内である。だが、それは閣僚といえども、一個人としての信仰心に基づき、一般人がしているように私的に参拝することの自由である。

テレビやネット動画を通じて全世界に配信されるような形での公然参拝は、国の閣僚としての公的参拝であり、現行憲法に反する国の宗教的活動に該当する。

ちなみに、靖国神社はそこに戦犯が祀られている間は、同神社自体が前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と謳われる現行憲法の精神とは相容れない存在である。

だからこそ、自民党案では憲法前文から上記箇所はバッサリ削除され、代わりに「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」云々と、むしろ「靖国」(=国を靖んじる)の精神こそが反映されているのである。

コメント

老子超解:第六十三章 為政者の等級

2013-04-28 | 〆老子超解

六十三 為政者の等級

最上の為政者は(無為の政治を行うので)民衆にその存在を知られる程度である。その次(次善)の為政者は(善政を施すので)民衆に親しまれ、ほめたたえられる。その次の(凡庸な)為政者は(恐怖政治を敷くので)民衆に畏れられる。その次(最低)の為政者は(暗愚のため)民衆に軽侮される。
(為政者が)民衆を信頼しなければ、民衆に信頼されないことになるのだ。
(為政者が)悠然として言葉を貴べば、政治的な功業が成し遂げられても、民衆は自然にそうなったと言うであろう。

 

 通行本第十七章に当たる本章から先は、為政者の条件や心得に関するすぐれて実践的な章がしばらく続く。一見浮世離れしているかに見える老子の意外な現実的関心が現れる箇所である。
 本章第一段は、為政者を独特の視点でランキングする点でとりわけ興味深い。出色なのは、善政を施す為政者が次善と評価されるところである。おそらくこれは儒教に基づく政治を示唆するものであろう。
 当然ながら、老子にとって最上の為政者はに基づく政治―無為の政治―を実践する者である。その場合、為政者はことさらに善政を施そうとはしないから、民衆はその存在を知ってはいても、特段称賛もせず、功業が成っても、それを自然なことと受け止めるという。これは政治指導者にカリスマ性を求めるような政論とは対極にある為政者論である。
 なお、三番目の凡庸な為政者による恐怖政治とは、おそらく法家思想に基づく厳格な社会統制の政治を示唆しているであろう。法家政治は暗愚の為政者による失政よりはましとはいえ、その次にランクされる悪政なのである。それは民衆を信頼しない政治であるから、民衆を信頼しない為政者は民衆からも信頼されないというのである。

コメント

「自由貿易」という青い鳥

2013-04-22 | 時評

自由貿易はアダム・スミス以来、資本主義が追い求める青い鳥である。だが、それが文字どおりに実現されたためしはない。

国際競争に耐えられない国内の弱小産業の保護はそうした産業を顧客とするブルジョワ政治の役目であるから、表向き自由貿易の旗を振りながらも保護貿易が隠れた基調となる。

もし自由貿易が文字どおりに実現されれば、マルクスの予言「自由貿易は社会革命を促進する」が的中しかねないことを支配層は承知しているのだ。

この点、目下国論を二分する論議の的となっているTPPも、実は完全な自由貿易協定ではない。それは全世界に適用される国際条約ではなく、地域間条約にとどまるうえ、抜け道となる例外事項を巡る当事国間の条件闘争がすでに始まっているし、この条約は米国が自国の産業を保護するための新貿易戦略という意味合いも濃厚である。

それでも、TPPは原理的には関税撤廃を目指す包括的な自由貿易協定の性格を持ち、資本主義・市場経済がイデオロギー化した時代の新たな産物ではある。

これに対して共産党は最も強硬な反対論の急先鋒となっているが、コミュニストならばマルクスが真の自由貿易にあえて「賛成」してみせたことを思い出すべきである。

彼は保守的な保護貿易に対して自由貿易が古い民族性を解体し、プロレタリアートとブルジョワジーとの対立を激化させるという破壊的な効果を持つ限りにおいて、これを社会革命の内爆的動因ととらえ、逆説的に「賛成」したのであった。

つまりは、資本主義に青い鳥を自由に追求させてやったほうがかえって自ら墓穴を掘る結果になるというわけである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載最終回)

2013-04-12 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復(続き)

レーニンの脱神格化
 ソ連邦解体は、スターリン以降のソ連体制によって付与されてきたレーニンの神格を剥ぎ取る契機ともなった。レーニンの脱神格化である。レーニンの脱神格化とは何か。それはレーニンに対するタブーなき批判の自由が確保されることである。
 旧ソ連時代にもスターリン死後のフルシチョフ政権当時にスターリン批判が共産党指導部自身によって行われたことはあったが、革命と建国の父レーニンに対する批判は長らくタブーであり、タブーが徐々に解けたのはソ連末期のゴルバチョフ政権下で情報公開と言論の自由化が進んでからのことであった。
 ただ、レーニンを批判するという場合、単に彼の理論と実践の個別的な誤りを指摘するだけでは足りない。それを超えて、彼の理論と実践を全般的に批判的分析の対象とすることが必要となる。
 なかでもマルクス主義者レーニンがマルクス離反者でもあった事実を正面から見すえなければならない。ソ連当局によって宣伝され、今日でもなお基本的に維持されている「レーニンはマルクスの理論を後進的だったロシアの現実に適用した」というレーニン評価は見直されなければならないのだ。
 すでに随所で触れてきたとおり、彼はマルクス理論の「適用」どころではない、それからの「離反」を示している。彼の理論はマルクスの用語を使用してはいるが、マルクスとは別個のレーニン独自のもので、端的に「レーニン主義」と呼ばれるのが最もふさわしい。ソ連とその同盟国が体制教義としていた「マルクス‐レーニン主義」は実態と乖離したイデオロギーにすぎなかったのである。
 レーニン脱神格化の第二弾は、為政者レーニンの失政を直視することである。すでに見たように、レーニン政権下での社会的混乱は並大抵のものではなかった。
 それは想像を超えた混乱であったため、10月革命は、反革命派の間ではおよそ革命なるものが大衆にとっていかに辛い苦難を強いるものかを宣伝する材料として今日まで使われているほどである。
 レーニンをはじめボリシェヴィキは一般命題的な「テーゼ」を巡る論争に明け暮れることが多く、具体的な政策立案能力には欠けていたと言わざるを得ない。その最たるものが民衆の生活にとって肝心な農業・食糧政策であった。レーニン政権は「戦時共産主義」という誤った政策のために帝政ロシア時代にも見られなかったほどの飢餓を引き起こした。農業・食糧問題での失政は悲惨な内戦の要因でもあった。
 マルクスから離反して労農革命を唱導したレーニンが為政者として農業問題に関して一貫した良策を打ち出すことができなかったのは、彼にとって農民との同盟は権力掌握のための手段的な意味合いが強かったためである。彼自身は農民に共感などしていなかったし、かつてのナロード二キのように農村に直接足を踏み入れることもなかったのである。
 ・・・とこのようにレーニンを断罪していくと、レーニンを全否定し、歴史から抹消してしまうことになりかねない。実際、今日ではレーニンも10月革命もソ連も存在しなかったかのような空気が世界に見られる。ロシアにおいても、旧暦10月25日の革命記念日はもはや祝日ではなくなっている。
 しかし、レーニンが指導した革命事業は神ならぬ人間のなせる業であり、そこには反面教師的な側面も含めて多くの教訓が含まれている。それは近代における革命について考える際の素材の宝庫なのである。革命など真っ平ご免蒙りたいと思っている人にとっても、なぜ、どのようにして革命が起きるのかを考える手がかりが得られるだろう。
 そうした意味で、映画のタイトルにもなった「グッバイ、レーニン!」は“神レーニン”に対する決別宣言でなければならず、“人間レーニン”に対しては、「ハロー、レーニン!」でなくてはならない。
 ちなみに、ソ連邦解体を主導したロシアの“急進改革派”エリツィン政権は、レーニン廟に保存されているレーニンの遺体の撤去・埋葬を企てたが、反対も根強く、実現しなかった。たしかにレーニンを葬り去るにはまだ早いが、人間レーニンを回復するためには、普通の人間として埋葬し直すほうがよいのではなかろうか。(連載終了)

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第68回)

2013-04-11 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復

ソ連邦解体とレーニンの「責任」
 レーニンが10月革命によって作り出した体制は、74年後の1991年、やはり一種の革命によって解体・消滅した。このことに対して革命から6年余りで世を去ったレーニンにどの程度の「責任」が認められるかが問われるであろう。
 これは裏を返せば、仮にレーニンがスターリンの没年1953年(レーニン83歳)まで健在してソ連を指導していたら、ソ連体制はもっと持続していたであろうかという問いに等しい。
 答えはノーであろう。なぜなら問題の発端は10月革命そのものにあったからである。10月革命はレーニンとボリシェヴィキの当座の権力掌握という「蜂起の技術」に関しては鮮やかに成功した革命であったが、長期的に見れば超未熟児のような体制を産み出した「早まった革命」であり、100年は持続しなかった「失敗した革命」でもあった。
 レーニンの「早まった革命」はマルクスの「革命の孵化理論」を踏まえず、資本主義が発達し切らない前に労働者と農民―実際はレーニンらの職業的革命家―が蜂起して社会主義の建設に向かうというものであったから、初期のレーニン自身が予見していたロシアにおける資本主義の発達の可能性を阻害する一方で、マルクスによれば発達した資本主義の中から産まれるはずの共産主義を産み出すこともできず、商品生産と賃労働といった資本主義的要素を残したまま、他方では生産手段の国有化という形で擬似共産主義的な要素を併せ持つ中途半端な国家社会主義という方向へ収斂していかざるを得なかったのである。
 この点ではちょうど同時期、メンシェヴィキ支持派が多数を占めたスウェーデンの社会民主労働者党が議会政治の枠内で長期政権を担い、資本主義と共存しつつ労働者の生活水準を引き上げる高度福祉国家の建設に乗り出していったこととは好対照であった。
 このスウェーデン・モデルは、マルクス主義を放棄し、やがてケインズ経済学に依拠するいわゆる「修正主義」の代表的成功例であり、ロシアでもこのモデルが適用されていたら、その後の展開は全く違ったものとなったかもしれなかった。
 しかし、ロシアのメンシェヴィキはあまりにも弱く、本来的には少数派でありながら戦術に長けたボリシェヴィキに勝って政権を掌握するなど望むべくもなかったのだ。
 しかし、レーニンが作り出した超未熟児体制も国家社会主義の形態をまといながら、スターリン時代には工業化、経済成長をかなりの程度達成し、よく生き延びはしたと評価することもできる。何はともあれ、ソ連の70年間で、ロシアと他の連邦構成共和国は「発展」―「社会主義的不均等発展」もあったにせよ―したのである。
 しかし、1991年のソ連大衆は政治的抑圧と物不足の貧弱な消費生活を強いるだけの体制の存続に関して、もはやいかなる幻想も抱いてはいなかった。
 同年8月、かねてからソ連体制の根幹に関わるブルジョワ自由主義的な改革プログラムを進めていたゴルバチョフ大統領―前年の憲法改正で共産党一党支配を廃止していた―に対して、共産党保守派がクーデターを起こすと、モスクワ市民はちょうど74年前の8月に反革命派コルニーロフ将軍のクーデターに対峙した市民たちのように、体を張ってクーデターを阻止したのである。
 年末、“急進改革派”のロシア大統領エリツィンらによってレーニン政権が締結した22年連邦条約の無効が宣言され、10月革命とソ連邦の終焉が決定的となっても、ソ連大衆は強く反対することはなかった。
 この結果、ロシアは10月革命を取り消し、2月革命の線まで立ち戻って、レーニンにより中断されていた資本主義の道を再び歩み出すこととなった。レーニンを非難する言葉こそ聞かれなかったが、彼は無言で断罪されたのである。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第67回)

2013-04-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー(続き)

トロツキー幻想
 トロツキーは本来、スターリンなどよりはるかに傑出した10月革命の元勲でありながら、スターリンによって排除され非業の死を遂げたため、死後多くの崇拝者を出した。かれらはトロツキストと呼ばれるマルクス主義の一派を成して今日でも活動を続けている。
 レーニンがスターリン以降のソ連体制によって神格化されたとすれば、トロツキーは反スターリン主義者によって聖人化されてきたと言える。しかし、レーニンともスターリンとも違うとされるトロツキーの理論的独自性については、しばしば過大評価がつきまとってきた。
 彼を最も有名にした永続革命論(一段階革命論)はレーニンの即時武装蜂起の意思決定にも示唆を与えたことが知られるが、トロツキー理論のもう一つの支柱である世界革命論について言えば、「プロレタリアートによる革命の輸出」というテーゼ自体はレーニンが一国社会主義論を打ち出した前出論文の中でも示唆していたことである。 
 ただし、レーニンの場合はトロツキーのように世界革命―さしあたりは西欧諸国での革命―をソ連における社会主義建設の条件とまでは考えていなかった点で、トロツキーはマルクスとエンゲルスがかつて『ドイツ・イデオロギー』で打ち出したテーゼ「共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能」に立ち戻っているようにも見える。
 しかし、スターリンの一国社会主義論の下で、ソ連の工業化と経済成長がかなりの程度達成されたことで、永続革命論・世界革命論の意義は失効してしまった。
 もっとも、トロツキーのように、10月革命はスターリンによって「裏切られた」と解釈し、スターリン流社会主義を偽りの“社会主義”とみなすならば、トロツキーの所論はなお失効していないことになるが、それではトロツキーの社会主義認識とはいかほどのものであったのだろうか。
 この点、トロツキーの農民強制論、すなわち「プロレタリアートは農民を強制して社会主義の建設を急がねばならない」というテーゼは、要するにネップのように農民のブルジョワ的願望を満たす慰撫政策に異を立てたもので、同じことを農業集団化によって大々的に実行したのがスターリンであったとも言える。
 その意味で、農民強制論はスターリンでも支持できるようなテーゼである。富農出身であったトロツキーは、農民は本質的に動揺階級であって、革命的闘争にも反動的闘争にも参加する信用のおけない階級とみなしていたが、このような農民観もスターリンと共有できるものであっただろう。
 しかしその一方で、トロツキーはネップ期の経済体制については、諸産業が労働者国家の手中にある限り「資本主義はその形式を残していても客体としては存在しない」という論理で、これを擁護する矛盾した主張もしている。このような理解はネップの発案者であったレーニン自身がより率直にネップの本質を「国家資本主義」と認めていたことと対比しても妥協的・後退的な理解と言わざるを得ない。
 トロツキーがレーニン以上に民主主義的であると評されるのが党官僚制に対抗する党機関の下部服従論である。たしかに彼は言葉の上ではレーニン以上に党官僚制に対して否定的であった。
 しかしそのトロツキーが一方では人間を本質上怠惰な動物とみなし、資本主義を社会主義で置き換えるには、政府による強制と労働の軍隊化が不可欠であるとして、労働組合の国家管理を提起したのである。
 この考えは労働組合を党官僚制への対抗力と考えていたレーニンによって強く批判され、一時トロツキーを警戒したレーニンをしてスターリンにトロツキーへの対抗を準備させるまでになった。スターリンはこのことを後々まで記憶していたに違いない。
 もっとも、労働組合はスターリン時代を通じて、レーニンの要望よりもまさにトロツキー提案に沿う形で完全な国家管理下に置かれてしまうのであるから、この点でのトロツキーとスターリンの距離は遠くない。
 ちなみに「労働の軍隊化」といったテーゼからも、トロツキーにはスターリンと同様、軍隊的組織への傾倒が看て取れる。彼が10月革命時の軍事指揮で活躍し、革命後は赤軍(ソ連軍の前身)の創設者となったのも、決して偶然とは言えない。
 労働者をサボタージュ分子、農民を動揺分子と見下していた彼は、レーニン以上にエリート主義的な観点を持つがゆえに、スターリンとともに軍隊的規律強制に積極的なのである。
 こうしてみてくると、トロツキーはレーニンよりも宿敵スターリンとの間に意外な共通点を共有しつつ、レーニンとスターリンの間を天翔るような偉大な亜流派であったと理解できるのではなかろうか。
 実際的な面からしても、仮にトロツキーがスターリンを抑えてレーニンの後継者に就いていたとして、決して成功はしなかっただろう。最晩年の論文でレーニンはトロツキーの自己過信とともに行政的な側面への過剰な没入に苦言を呈していたが、実際のところ、トロツキーの行政的手腕には疑問符が付く。そのことは外務人民委員(外相)時代に担当した戦争終結を巡る外交交渉の結果にも表れている。
 当時、彼はレーニンの単独講和論にもそれに反対する革命戦争論(戦争継続論)にも与さず、「抗戦も講和もしない」との中間的な立場をとり、結局交渉では成果を上げないままロシアに不利な条件での単独講和を甘受せざるを得なかったのである。
 このようなトロツキー流の中間的な立場は彼がまだ調停派であった頃からのものである。彼は当時、その煮え切らない態度をレーニンから「彼はどんな見解も持たない・・・・・低級な外交家だ」と痛罵されたことがあった。トロツキーはずっと後に調停派時代の自らの態度を自己批判したが、その本性は終生変わらなかったようである。もっとも、こうした中間的な立場はトロツキーの分析的な性向に由来するものと言えなくもない。 
 結局、トロツキーはいくぶん学究肌の面を持った自意識の強い作家肌の人間であって、彼の真価は文筆面で大いに発揮された。実際、彼は自意識の強い人間にふさわしく、史料的というよりも文学的に価値の高いすぐれた自伝を残した。この点は自己を語ることに禁欲的で、自伝の類を一切残さなかったレーニンともマルクスとも異なるトロツキーの魅力と言えるかもしれない。

コメント

マルクス/レーニン小伝(連載第66回)

2013-04-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー

予定された敗者
 スターリンのライバル・トロツキーは10月革命時にはペトログラード・ソヴィエト議長として軍事革命委員会を率いて武装蜂起を指揮した立役者であった。この時レーニンはまだ臨時政府から追われ地下潜伏中の身であり、前面に出られなかったことから、10月革命の実戦面での功績はトロツキーにあったと言って過言でない。
 そして、レーニン最晩年にはトロツキーは後継候補に浮上したうえ、レーニンがスターリンと衝突してその解任を検討するに至って、最有力後継候補となったはずであった。にもかかわらず、結果として彼はスターリンの巻き返しに遭って、言わば逆転負けを喫してしまった。それも生命を奪われるような形で。
 何よりもまず彼はナロードニキ→メンシェヴィキ→調停派→ボリシェヴィキと渡り歩いた革命的渡り鳥であった。そのうえボリシェヴィキ入党は第二次革命渦中の1917年のことにすぎなかった。この点で、スターリンが初めからボリシェヴィキで一貫していたことと比べ、党歴に弱みがあった。
 また性格の点でも、レーニンから指摘されたように、トロツキーには自己過信の強い自惚れ屋の一面があった。このような性格は当然、同志たちから好かれず、党内で多数派を形成することに失敗する要因ともなった。
 さらに理論面でも、彼の長期的スパンを伴う世界革命論にはどこかメンシェシェヴィキ的な革命待機論の響きが感じられ、単純明快なスターリンの一国社会主義論と比べて魅力に欠けたのであった。とりわけ早く新しい革命事業をやりたがっていた若手党官僚たちにとってはそうであった。
 最後に、あまり言われないことではあるが、トロツキーのユダヤ系富農という出自も看過できないマイナス要素であったろう。元来、ボリシェヴィキは母方から一部ユダヤ系の血を引くレーニン自身を含め、多くのユダヤ系党員を擁していたから、党内的にはユダヤ系出自は直接に問題視されることはなかったが、ロシア社会全般ではユダヤ人差別の存在は覆うべくもなかった。
 実際、第二次革命とその後の内戦期にも動乱に便乗したユダヤ人に対する集団暴行・虐殺事件(ポグロム)が頻発していた。こういう状況では、ユダヤ人がロシアを中核とするソ連の指導者となることにはロシア人の反感が予想された。それに加えて、富農はボリシェヴィキにとって打倒対象であるはずであった。
 こうしてトロツキーは24年のレーニンの死の直後から坂道を転げ落ちるようにして失墜させられていく。まず25年に陸海軍人民委員(国防相)を解任されたのを皮切りに、27年の党大会で党・政府の全役職を奪われたうえ、29年には国外追放の身となり、流浪の末最終的にメキシコまで流れていかなければならなかった。それでも敵の魔手を逃れることはできず、40年、ついにメキシコで暗殺されてしまうのである。

コメント