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近代革命の社会力学(連載第329回)

2021-11-15 | 〆近代革命の社会力学

四十七 インドシナ三国同時革命

(5)カンボジア社会主義革命

〈5‐1〉半王政‐半社会主義の60年代
 ベトナム、ラオスと並び、インドシナ三国同時革命のもう一つの舞台となったカンボジアにおける革命過程は、ベトナム・ラオスにおけるそれと交錯しながらも、大きく異なっている。
 独立後も君主制が維持された点ではラオスに近いが、王権が脆弱なラオスとは異なり、カンボジアでは、独立前の1941年に即位したノロドム・シハヌーク国王が強い指導力を見せ、49年の限定的な独立、さらに53年の完全独立に際しても、重要な役割を果たした。
 興味深いことに、シハヌークは1955年、父ノロドム・スラマリットに逆譲位して王座を去り、王族政治家に転身したうえ、人民社会主義共同体(サンクム)なる翼賛政治組織を結成し、選挙で圧勝した。
 このような子→親という王位継承は稀有であるが、元来、王位継承権者ながら宗主国フランスの意向で王座から排除された父を改めて王座に就けるという目的もさりながら、シハヌークは独自の社会主義思想の持主であり、そうした自身のイデオロギーを王座を離れて実現することも、異例の逆譲位の狙いであった。
 ただ、シハヌークの社会主義は、北ベトナムのようなマルクス‐レーニン主義を基調としたものではなく、タイの僧侶プッタタートが主唱していた仏教を精神的な支柱とする共同体思想であり、本質的には保守思想に近いものであった。
 このような仏教社会主義は同時代の東南アジア(及び南アジア)の仏教国に広く浸透し、カンボジアのほか、ビルマ(現ミャンマー)など、いくつかの国では政治的にも実践された。特に、大々的にイデオロギー化されたのは、ビルマである。
 ビルマでは、1962年の軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィン将軍が「ビルマの社会主義への道」という革命的な綱領の中で仏教社会主義を規定し、以後、長期の支配体制を維持したが、しばしば「ビルマ式社会主義」とも呼ばれた体制イデオロギーは、革命の装いを凝らした軍事独裁―その実相はネ・ウィンの個人独裁―の隠れ蓑にすぎなかった。
 それに対して、シハヌークは、1960年に父王が死去すると、国王を空位としたうえ、自らが国家元首として引き続き政治指導に当たる共和制的な要素を伴った特異な体制を構築した。そうした半王政の中で、政策的には仏教社会主義が追求されたが、実際のところ、社会主義体制としても標榜上の半社会主義であった。
 このような半王政‐半社会主義という中途半端な体制ではあったが、独立に尽力した「国父」としての存在性と「前国王」の権威を持つシハヌークが国家元首として実権を保持うえで、国内のバランスを取っていたことにより、君主制が維持されたまま、内乱状態に陥っていたラオスとは対照的な安定を享受していた。
 また、ラオスと異なり、カンボジアでは19世紀にその支配下に置かれたベトナムへの民族的対抗意識が強かったことも、ベトナム統一革命運動に巻き込まれていくラオスとの相違を成していた。


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