ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後日本史(連載第19回)

2013-08-28 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔二〕自社連立と「55年体制」の終焉

 細川内閣が8か月余りで瓦解した後、事実上小沢一郎が率いる新生党党首・羽田孜が後任首相に就く。しかし、首相指名直後、小沢らによる与党第一党・社会党の発言力を削ぐことを狙った統一会派作りの画策が表面化し、これに反発した社会党が連立を離脱したため、少数内閣として発足した羽田内閣はわずか2か月余りで瓦解した。
 その後の展開はあっと驚くものであった。94年6月、野党・自民党と連立を離脱したばかりの社会党が連立政権を成立させたのである。こうして、70歳の社会党委員長・村山富市を首班とし、細川内閣にも参画していた新党さきがけも加わった異形の連立政権の発足をもって、自社対抗を軸とした「55年体制」は正式に終焉したのである。
 ただ、頭は与党第二党・社会党、胴体は第一党・自民党というこのスフィンクスのような怪物の正体は、どう見ても復活した自民党政権であった。それはまた一種の翼賛体制でもあって、社会党は従来の党是をすべてかなぐり捨て、自衛隊合憲・日米安保堅持へ動き、わずか数年前には導入そのものに反対した消費税の税率引き上げ―村山内閣時には未実現―にも賛意を示した。
 村山内閣は表向き「人にやさしい政治」をキャッチフレーズとしたが、その実態は自民党が主導する「逆走」の流れに乗り、間もなく自党の命脈を絶つこととなる選挙制度改革法の施行を見届けるというものであった。
 こうしたことが可能となったのも、村山首相は元来、保守に傾斜した社会党右派に属し、党国会対策委員会の経験も長く、長年の与党・自民党とも内通しており、政権与党復帰のためには自党の理念も政策も投げ捨てることにためらいはなかったからである。
 一方で、戦前の帝国主義的植民地支配と戦争加害事実を認め、反省と謝罪を表明した95年8月15日の村山首相談話は、歴史認識の問題に関して、与党第一党の自民党が首相を出す第二党・社会党に一定の配慮を示したことによる妥協の産物であって、村山内閣のほとんど唯一「社会党らしさ」を滲ませた事績であった。
 けれども、法的な戦争責任については解決済みであることを強調するこの控えめな談話でさえ、帝国主義支配を愛国的な自衛とアジア解放の努力の賜物であったとする歴史認識を伴う「逆走」の流れの中では異物的なものであって、保守反動勢力の強い反発を招いた。
 その結果、90年代後半以降、村山談話の意義を否定するような政治的言説が活発化し、人口にも膾炙するようになり、歴史認識の面でも「逆走」の加速化はかえって促進されたのである。
 それはさておき、こうした異形の自社連立政権の効果は、自社両党にとって対照的であった。自民党はこれによって、ごく短期間での政権復帰を果たし、以後時々の状況に応じて連立相手を変えながら向こう15年にわたって政権党の座を維持し続けるのに対し、社会党は初めて小選挙区制の下で行われた96年の解散・総選挙でわずか15議席にとどまる壊滅的惨敗を喫し、事実上命脈が尽きたのである。
 結局、社会党は右派を中心とするグループが新党さきがけの鳩山由紀夫と管直人を中心に結成された民主党へ合流する一方、左派は新社会党なる分派を結成して離脱し、元委員長・土井たか子を中心とする護憲・市民運動派が96年1月に党名変更された社会民主党に残留し、事実上解党したのであった。
 皮肉にも、村山自社連立政権最大の“功績”は、首相自身が属した社会党をすみやかに解体し、「逆走」の加速化を軌道に乗せたことにあったと言えるだろう。

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戦後日本史(連載第18回)

2013-08-27 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔一〕細川政権と小選挙区制移行

 ソ連邦解体目前の1991年11月、リクルート事件後の中継ぎ登板という役割を果たして退任した海部首相に代わって、大蔵官僚出身の宮沢喜一が首相に就いた。
 宮沢は高度成長期の池田勇人首相側近として頭角を現し、池田の流れを汲む有力派閥の領袖となっていたが、その首相就任に当たっては竹下派の少壮幹部として党内で台頭してきていた小沢一郎の尽力があったため、宮沢政権も結局は竹下派の影響下に置かれた。
 しかも、宮沢政権は折から発覚した東京佐川急便事件―竹下派実力者・金丸信が東京佐川急便より5億円の闇献金を受けたとされる疑惑―を受けて金丸が議員辞職した後の竹下派の内部抗争に巻き込まれたうえ、小選挙区制導入をめぐる党内対立も勃発するなか、「政治改革」の切り札として小選挙区制導入を主張する小沢とその配下のグループは、野党提出にかかる宮沢内閣不信任案に賛成したうえ、集団離党し、新党結成に動いた。
 こうした党内造反によって成立した内閣不信任決議を受けて93年7月に行われた解散・総選挙で、ついに自民党は衆議院でも史上初めて過半数割れする大敗を喫した。
 この時の総選挙では保守系新党ブームが巻き起こり、特に自民党出身で前熊本県知事の細川護熙が結成した日本新党が注目を集め、細川自身を含む35人の当選者を出した。小沢らが結成した新生党も55議席を獲得する。
 自民党も過半数割れしたとはいえ、なお優勢な比較第一党の座を守ったため、日本新党を含む新党との連立を通じた政権維持を画策したが、不調に終わり、ついに同党は史上初めて下野することとなった。
 一方、小沢一郎は細川を首相に擁立しつつ、総選挙では議席半減の歴史的惨敗に終わった社会党も抱き込んだ八党連立内閣の結成を画策し、成功した。こうして、93年8月、初当選者が首班となる異例の細川連立内閣が発足する。
 世上、これをもって「55年体制」の終焉と称されることが多いが、それは必ずしも正確ではない。たしかに自民党は下野したが依然最大党派であったし、一方、細川連立内閣では惨敗した社会党が数的には与党第一党であったので、結局のところ「55年体制」のキープレーヤーであった自民・社会両党がそれぞれ敗北しつつ、与野党入れ替わったにすぎないとみる余地が十分あるからである。
 とはいえ、小沢や細川ら新政権の実力者が構想していたのは、「55年体制」を解体し、自民党ともう一つの保守系政党が政権交代し合う二大政党政治の構築であった。
 このようにブルジョワ二大政党が政権をキャッチボールし合う形の二大政党政なら、つとに戦前昭和初期に経験済みであったが、細川政権の使命は、その一見清新なイメージとは裏腹に、そうした古い政治への「逆走」を加速化させることにあったとさえ言える。
 それゆえ細川政権最大の使命は、従来社会党やその他の小政党にも一定以上の当選者の確保を可能にしてきたいわゆる中選挙区制に代え、一選挙区一当選人原則で、二大政党化を導きやすいとされる小選挙区制を衆議院に導入することであった。
 細川内閣は細川自身の東京佐川急便からの過去の借入金疑惑をきっかけとしてわずか8か月余りで総辞職したが、小選挙区制導入を柱とする「政治改革」だけはすみやかに実現され、94年から施行されたのであった。
 今日まで維持されている新たな小選挙区制は、比例代表制並立という形で修正されているとはいえ、組織動員選挙に長けた自民党にとってはさほど痛手とはならない一方、すでに弱体化していた労組に依存する社会党にとっては壊滅的打撃となりかねない制度であって、その狙いは自民党を含むブルジョワ保守総体による「社会党潰し」にあったと言って過言でなかった。
 にもかかわらず、社会党は占領期の片山内閣以来45年ぶりとなる政権与党の地位と大臣ポスト欲しさに細川連立内閣に参画し、自らの命脈を縮めるような罠にはまったのだった。

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人類史概略(連載第5回)

2013-08-21 | 〆人類史之概略

第2章 現生人類の誕生と拡散(続き)

用具革命の加速化
 小序でも述べたとおり、人類史は連続的な用具革命のプロセスであると言ってよいわけだが、そうした革命のプロセスを加速化させるきっかけを作ったのは、現生人類の功績である。それは特に石刃技法と呼ばれる新しい石器の製造技法を完成させたことである。
 一つの石核から多くの剥片を取り出す石刃技法は、それによって多目的・多品種の石器の量産を可能にした。そこで、考古学の編年上はこれ以降を「後期旧石器時代」と呼ぶが、この技法の普及の意義をあまり過大評価すべきではないだろう。
 石刃技法を技術として見たときには、この技法は従来の調製石核技法の発展的応用にすぎず、石核技法の技術的基盤の上に成立するものである。またこの技法自体は現生人類が発明したものではなく、アフリカでは現生人類以前から現れていたし、すべての現生人類がこの技法を一斉に実践していたわけでもなかった。とはいえ、おしなべて石刃技法の完成者は現生人類であったと言うことは許されよう。
 石刃技法によって石刃の多様化と量産が進むと、それは用具全体の多様化にもつながり、実際により鋭利で漁撈向きの骨角器のような用具も進歩していった。こうした用具の多様化は用具革命のスピードを早めるとともに、現生人類の拡散・定住に伴い、地域的な特色をも示し始め、それが原初的な民族集団の標識となっていったであろう。
 石器製造は長きにわたって打製であったが、石器の多目的・多品種化は打製石器を飽き足らないものとし、研磨されたより繊細な磨製石器の開発へと進んでいく。以後、いわゆる「新石器時代」と呼ばれる新たな時代に入る。文明の開始はなお未来のことであったとはいえ、来たるべき農耕の開始が待っていたのもこの時代であった。

交易活動の始まり
 「交換価値はノアの洪水以前からある」。マルクスはこう述べて、人類の交換という行為の古さを強調していた。
 用具革命が加速化して、用具の多様化が進むと、地域的な特色が濃厚になったことで、離れた地域間で用具やその原料を互いに交換し合おうとの考えが浮かぶことは自然である。このようにして交易が開始される。その点、石核技法の域を出ることのなかったネ人には少なくとも長距離の交易活動の形跡が見られないことは首肯できるところである。
 こうした交易活動の始まりにはまた、前に述べたような現生人類の強欲さという性格も大いに関わっていたであろう。ただ、単純に自らの欲する物資を略奪するのではなく―略奪も現代に至るまで続く現生人類の最も粗野な「経済活動」ではあるけれども―、相手方が欲する物資を互いに代償として与え合う交換という行為には、打算的という現生人類のもう一つの性格が関わっていよう。
 こうした現生人類の交易活動は、隣接する集団間のみならず、次第に遠隔の集団間でも行われるようなる。この場合、現生人類の際立った拡散を支えた長距離移動能力が大いにものを言ったであろう。
 「自己の生産物の販路を常にますます拡大しようとする欲望に駆り立てられて、ブルジョワ階級は全地球を駆けめぐる」(『共産党宣言』)時代の到来はまだはるかに遠い未来のことであったが、交易のために長距離を駆けめぐる現生人類の不可思議な熱心さは、すでに先史時代に現れていたのだ。

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人類史概略(連載第4回)

2013-08-20 | 〆人類史之概略

第2章 現生人類の誕生と拡散

環境適応と「人種」
 現生人類ホモ・サピエンス・サピエンスは、およそ20万年前、アフリカ大陸でホモ・ヘルメイから進化した亜種として誕生したと考えられている。この新種のホモ属も、当初は中期旧石器時代の文化段階からスタートし、先覚者たちと同様に「出アフリカ」して世界に拡散していった。
 「出アフリカ」→拡散という行程においては先行の絶滅人類を踏襲していたわけだが、違っていたのは現生人類の際立った拡散力と環境適応力とであった。
 現生人類の「出アフリカ」の経路やその回数、拡散ルートといった細部に関しては、すでに人類学者によって活発な議論が行われているため、この概略史では言及しないが、ともかく現生人類は南極大陸を除く世界の隅々まで拡散し、各々その土地の環境に適応していったのである。
 その適応の過程では、肌の色や容貌といった外形まで進化・変容させて、いわゆる人種的な差異を生み出すようになった。そうした差異があだとなって、後々人種差別のようなネガティブな事象も生じることになったわけだが、人種の別とは決して人間間の優劣関係ではなく、むしろ現生人類の環境適応力の高さを示す変数なのである。
 この点、今日の有力学説によれば、我々現生人類は20万年近く前にアフリカに実在した共通の母系祖先(いわゆるミトコンドリア・イブ)を持ち、特に非アフリカ人は、7ないし8万年前という比較的「近年」になって出アフリカに成功した一集団の複雑に分岐した子孫たちであることが遺伝学的に明らかにされつつある。要するに「人類皆きょうだい」は単なる道徳的スローガンではなく、科学的にも証明されつつある命題なのである。
 ということは、現生人類そのものが先行人類に比べて特別に環境適応力に優れていたというよりは、現生人類の中でも特定の一集団とその子孫たちが他の同胞集団よりも環境適応力に勝っていたというのが正鵠を得ていよう。

残酷さと強欲さ
 現生人類はその誕生時からしばらくはホモ・ヘルメイやネアンデルタール人(以下、「ネ人」という)のような先行種と共存していたと考えられているが、なぜ現生人類だけが生き残ったかという問題は大きな謎である。特に長期にわたって共存していたと見られるネ人はなぜ忽然と姿を消したのか。
 そこにはネ人に内在する限界もあったであろうが、現生人類による集団的排除の可能性を排除することは楽観的にすぎるだろう。現生人類は残酷さという性格を共有している。このことは、現生人類が多くの動物を絶滅に追いやってきたばかりでなく、世界歴史の中でも数々の同胞殺戮が繰り返されてきた事実からも明らかである。
 現生人類はネ人をはじめとする先行人類を殺戮した━。それは絶滅の唯一の要因ではなかったとしても、少なくとも絶滅を促進はしたと推定することは不合理ではなかろう。
 ただ、その殺戮は直接的な襲撃・殺害ばかりでなく、狩猟採集の場をネ人などから奪い取って相手方を飢餓に追い込むといった経済的な「殺戮」も含まれたと見てよいであろう。少なくとも、現生人類は先行人類と末永く平和共存する意思を持ち合わせなかった。
 ちなみに現生人類がわずかながらネ人の遺伝子を承継していることについても、これを平和的な「通婚」の結果とみなすのは楽観的であり―それならばより多くの遺伝子承継があって然るべきであろう―、残念ながら集団的レイプのような暴力の介在を想定せざるを得ない。
 こうした残酷さに加え、現生人類には並外れた強欲さという性格も備わっていた。この性格は残酷さとも表裏一体であり、当初は狩猟採集の場の独占といった形で発現し、実際に成功したのだろうが、後に狩猟採集をより大量的・効率的に行うための新たな用具の開発という用具革命の加速化をもたらす原動力ともなったのである。

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戦後日本史(連載第17回)

2013-08-14 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔五〕冷戦終結と湾岸戦争

 1年半余りで退任した竹下首相の後任には、竹下派の支持を受けて中曽根派幹部の宇野宗佑が就いた。ところが、宇野首相には就任早々に女性スキャンダルが持ち上がったうえ、就任直後の1989年7月の参議院選挙で、自民党は結党以来初めて参議院で過半数を割る大敗を喫し、宇野首相はわずか2か月余りで退任に追い込まれる。
 続いて、三木武夫の流れを汲む少数派閥出身の海部俊樹が首相に就いたが、実権はやはり竹下派の掌中にあった。こうして「大統領型宰相」中曽根が政権を去った後には弱体な政権が続き、「逆走」はまたも停滞期に入るかに思われた。
 そうした中だるみの危機を国際情勢の激変が救った。それは89年の冷戦終結とそれに引き続く91年のソ連邦解体とであった。「逆走」の停滞の危機を国内環境的に救ったのが昭和天皇の死と改元であったとすれば、国際環境的に救ったのは天皇の死と同年の暮れに起きた冷戦終結と2年後のソ連邦解体であったと言える。
 1950年に始動した戦後日本の「逆走」は結局のところ、東西冷戦という戦後の国際情勢によって支えられていたわけであるが、同時に「逆走」の長期鈍化をもたらしたのも、同じ国際情勢なのであった。
 一方に米国の代理人的立場で日本の内政・経済を安定的に運営する自民党・財界があり、対する社会党・労組の背後には60年代以降日本共産党との不和対立から日本社会党支持に方針転換したソ連が介在していた。
 冷戦終結はソ連邦解体の引き金を引き、ひいては日本社会党・労組勢力の後ろ盾をも失わせる結果となったのだった。日本社会党が91年のソ連邦解体からわずか5年で事実上解党したことは、決して偶然事ではなかった。
 イデオロギー的な面から見ても、ソ連邦解体は社会主義・共産主義をはじめ、およそ反/脱資本主義的な思潮の退潮をもたらし、資本主義市場原理一辺倒の風潮を全世界的に作り出した。このことは、イデオロギー的には反共の流れにある戦後日本の「逆走」を加速化していくうえで、大きな追い風となっただろう。
 もう一つ、冷戦終結後に起きた久しぶりの国際戦争であった湾岸戦争も、「逆走」の停滞を防ぐチャンスとなった。この時、日本は自衛隊の海外派遣を禁ずるものと解釈されてきた憲法9条の趣旨に沿って、イラクを攻撃する米国率いる多国籍軍への軍事協力を差し控えたのであるが―総計130億ドルの資金拠出は行った―、このことが米国の不興を買ったものと理解され、自衛隊の海外派遣解禁へ向けた論議がにわかに高まる。
 その結果、91年には自衛隊史上初めての海外任務として海上自衛隊の掃海艇部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣されたのを皮切りに、翌92年には自衛隊が国連平和維持活動に参加することを可能とするPKO協力法が制定された。ここに自衛隊の専守防衛原則は崩れ、以後自衛隊の海外派遣の実績が積み上げられていく。
 このことは、「逆コース」施策の目玉として50年代に誕生した自衛隊が単なる「自衛隊」から、実質上の「軍隊」へ向けて逆成長していく出発点ともなった。それは93年に始まる「逆走」加速化の合図と言えたかもしれない。

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戦後日本史(連載第16回)

2013-08-13 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔四〕「天皇崩御」と尊王モード

 5年近くに及んだ中曽根政権が1987年11月に退陣した後、中曽根の「裁定」により田中角栄の流れを汲む竹下登が政権に就いた。田中本人は85年に病気で倒れ、すでに影響力を失っていたが、代わって田中と袂を分かつ形で独立した竹下を中心とする勢力が新たに自民党内最大派閥として台頭していたのである。
 そうした強力な支持基盤を持つ竹下政権は中曽根政権が構想を掲げただけで果たせなかった売上税(消費税)の導入を改めて政権課題とし、86年総選挙での大敗の後、再起しつつあった社会党を中心とする野党勢力の反対を振り切って実現させた。しかし折から発覚したリクルート汚職事件の影響から、世論の批判を追い風とする野党の突き上げを受け、竹下政権が長期政権化する可能性は急速に失われた。
 こうして再び「逆走」の停滞が起こりかけたとき、それを救ってくれるような大きな出来事が80年代の終わりに起きた。それは昭和天皇の発病・死去であった。
 天皇は87年に内臓の病気で歴代天皇では初となる開腹手術を受けていたところであったが―これも「玉体」にメスを入れることのタブーが解けた象徴天皇制ならではのことであった―、88年9月に大量吐血し、病床に臥せた。この時点から、宮内庁を中心に天皇の「ご病状」がマスメディアを通じて「大本営発表」式に刻々と報道され、社会現象となった。
 結局、すでに87歳の高齢に達していた昭和天皇は治療の甲斐なく、89年1月に永眠し、戦争をはさんで60年以上に及んだ長い昭和の時代が幕を閉じた。元号は昭和から平成へ変わる。
 この63年ぶりの改元は、昭和生まれの国民にとっては初の経験となる「天皇崩御」とともに、元号と結びついた天皇の存在性を改めて国民に強く意識させることとなった。
 この間、天皇の発病から死去に至るまで、多くの社会的行事が中止ないし縮小されるなど、社会全体が「自粛」ムードに支配され、尊王がモードとなった。こうした「自粛」を政府が直接に主導した形跡はないが、皇室行政を担う宮内庁が前面に出て報道管理を徹底したことで、間接的には政府が尊王モードを醸成したと言ってよいだろう。
 このことは、10年後、平成天皇在位10周年の節目に当たって、多数の芸能人を含む著名人を動員しての大規模な奉祝式典が挙行され、再び「天皇陛下万歳」の唱和が鳴り響く時代の序章となり、平成の時代に「逆走」がさらに加速化・急進化していくうえでの精神的なベースともなったのである。
 こうして、こちらもすでに命脈が尽きかけていた竹下政権は、改元と昭和天皇の葬礼という時代を画する任務を最後の仕事として、89年6月に退陣した。  

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人類史概略(連載第3回)

2013-08-06 | 〆人類史之概略

第1章 絶滅した先覚者たち(続き)

最初の用具革命
 用具の発明がホモ・ハビリスの栄誉に属する功績だとすれば、用具の発達史上に革命を起こしたのは30万年ほど前に出現したホモ・ヘルメイであった。
 それ以前に氷期をはさんで、およそ180万年前に出現したホモ・エレクトスという画期的な種族がハンドアックスのようなより精巧な石器を発明し、用具生産を進歩させてはいたが、ホモ・ヘルメイのほうは調製石核技法という石器生産上の革新を成し遂げたのだった。
 これははじめにほどよく調製された石核を作りおき、そこから剥片石器を打ち出していくというもので、これにより種々の石器を効率的に製作することができるようになった。この人類史上最初の用具革命というべき画期以降を考古学の編年上「中期旧石器時代」と呼ぶが、現生人類もその出発点においてはこの文化段階にあったと考えられている。
 ホモ・ヘルメイはアフリカで誕生し、長年月をかけてアフリカを出て各地へ移住する「出アフリカ」を行い、25万年ほど前までに今日のユーラシア大陸全域に拡散していった。そこからヨーロッパ地域では、かねて「旧人」の代表格として知られてきたホモ・ネアンデルターレンシス(通称ネアンデルタール人:以下「ネ人」と略す)に進化したと見られる。
 ネ人はかつてホモ・エレクトスのような原始的な「原人」と進歩した「新人」たる現生人類との間を進化的につなぐ「旧人」と考えられていたが、その後の研究でこうした直接的な系統関係は否定された。
 しかし、近年になって、現生人類がごくわずかながらネ人の遺伝子を継承していることが明らかにされ、一部で両者の混血が生じていた可能性も浮上した。結局、ネ人は現生人類と共通の祖先を持つ近縁の別種であるが、現生人類が一部遺伝子を引き継いでいるというのが、最新の知見のようである。
 いずれにせよ、ネ人は中期旧石器時代を代表するホモ属であり、調製石核技法の主要な担い手となった。また、かれらは集団で狩猟をしたほか、石器や木器の加工や動物の解体などの共同作業を実践し、集団的な「社会」の原型を示していたと見られる。
 ネ人が現生人類の大きな文化的特徴である言語を有していたかどうかについては見解が分かれ、発声機構に未発達の部分が認められるネ人は分節化された音声言語を話すことはできなかったとする見解が有力である。
 しかし現生人類と類似した舌骨の存在から、ある程度の言語を話せたという見方もある。かれらが共同作業を実践していたことや、現生人類との交雑の可能性もあることからすれば、何らかの単純な言語的発声をしていた可能性はあるだろう。
 とはいえ、ホモ属としてのネ人には少なからぬ限界性があり、石器生産に関して現生人類のような革新は示さなかった。また壁画のような芸術行為や交易のような経済行為を行った証拠もない。
 ただ、ネ人が現生人類と一部地域で共存していたと見られる晩期に、ネ人が逆に後発の現生人類が開発した新たな石器製作技法―石刃技法―や死者を埋葬する習慣などを学習していた証拠はあり、ネ人はそうした文化学習能力は備えていたと見られる。
 結局のところ、ネ人は中期旧石器時代の代表的な先覚者ではあったが、まさに先覚者にありがちな限界性を抱えており、進化の一定段階で絶滅し、一部遺伝子を現生人類にバトンタッチしながらも、種としては姿を消していったものであろう。

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ナチス的改憲

2013-08-05 | 時評

麻生太郎副総理による「ナチスの手口模倣」発言は当然にも内外に波紋を広げ、多くの糾弾も行われているが、ここでは糾弾はひとまず脇において麻生発言を分析の対象としてみたい。

まず麻生氏自身の釈明によれば、この発言はナチスの価値観を肯定したものではなく、自民党が結党以来の宿願とする改憲の手法に関して、喧騒の中で改憲するよりも国民が知らない間に憲法が変わっていたというやり方のほうが妥当だとし、その事例としてナチスによるワイマール憲法廃棄を引いたものであるらしい。

発言者自ら撤回したとおり、例示の不適切さはともかくとしても、国民が知らない間に改憲するという手法なら、日本ではすでに行われてきている。いわゆる「解釈改憲」という特異な手法で、特に憲法9条はこのやり方によって自衛隊の存在そのものの容認から始まり、海外派遣、イラク戦争をはじめとする米軍への軍事協力となし崩しに容認され、さらに今や集団的自衛権についても解禁されようとしようとしている。

これらは、まさに(一部の国民しか)知らない間に、司法府ではなく行政府の解釈を通じて実質上の改憲を進めていくという―麻生氏の理解によれば―「ナチス的手口」に当たることになるだろう。

ただ、ここで不可解なのは、自民党が宿願とする改憲は、こうした「解釈改憲」ではなく、まさに憲法96条の改憲手続を通じた正面からの憲法改正、しかもかれらの理解によれば占領下で強いられた屈辱的な「押し付け憲法」である現行憲法の実質的な廃棄とかれらの言う「自主憲法」の制定なのであるから、これは国民が知らない間にできることではなく、最終的には国民投票という「喧騒」を経て決着することである。

現行憲法は麻生氏の期待に反し、「ナチス的手口」を許さないようにできているのである。麻生氏は立法府のベテランとして当然そのことを承知しているはずであるのに、なぜあえて「ナチス的手口」を教唆したのだろうか。

穿った見方をすれば、麻生氏は実際にナチと同様、国家緊急事態を発動しつつ、憲法の改憲手続を踏まない非立憲的な手法で実質上の憲法廃棄を実現しようと秘かに考えているのではないか━。

そうだとすると、これは単に「手口」の問題を超えて、価値観においても民主主義の否定というナチス的なものへの親近を示すことになり、大問題である。

これが穿ち過ぎで、結局は麻生氏のいつもの品の悪いジョークだったとしても、現職の、しかも副首相格の閣僚が改憲の手法に関してナチスを例に引くことは、誤解という以上の不信と衝撃を内外に与え、日本の国際的信用と尊敬という愛国者麻生氏も重視するであろう国益を損なう不当な言動であることに変わりはない。

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