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近代革命の社会力学(連載補遺35)

2022-10-19 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ四 モンゴル再独立‐社会主義革命

(4)社会主義体制の樹立とソ連衛星国家体制の確立
 1921年モンゴル再独立革命で成立した言わば第二次ボグド・ハーン体制は、先述したとおり、立憲君主制の形態を取ってはいたが、実態として、これは将来の社会主義体制樹立へ向けた過渡期の体制にすぎなかった。
 一方、再独立革命は当初ほぼマイナーな存在にすぎなかった平民青年層が主体となった人民党がソ連の地政学的戦略に基づく軍事的支援によって短期間で実行したものであったため、新たな人民党主導政権ではソ連の影響力が必然的に増大した。実際、政権はソ連の顧問団によって半ば統制されていた。
 この後、1924年のボグド・ハーンの死までの間は、人民党内部での権力闘争が続く。特に党の前身組織である領事の丘グループと東フレーグループの対立が、前者の指導者で臨時政府首相となったドグソミーン・ボドーの推進した衣装や髪型などの習俗近代化キャンペーンをめぐり激化し、最終的に1922年には、東フレーグループによってボドーとその支持者らが粛清・処刑された。
 こうした党内権力闘争は内戦危機に転じることもあり得たところ、体制固めの転機が1924年のボグド・ハーンの死によってもたらされた。チベット仏教の慣習では活仏の死後は新たな活仏を民間から「発見」して推戴するが、人民党政権は新たな活仏の捜索をせず、君主制の廃止を宣言した。
 そのうえで、ソ連に範を取った社会主義憲法を制定し、人民党から改称された人民革命党が他名称共産党として独裁するモンゴル人民共和国の樹立を宣言した。これによって、再独立革命は短期間で社会主義革命に進展したことになる。
 とはいえ、1911年の最初の独立革命からも十数年、モンゴル社会はいまだ近代化の途上にあり、牧畜以外にめぼしい産業も存在しない中での社会主義革命は時期尚早であったが、その分、新体制はソ連に対して徹底的に追随する衛星国家となることで維持されていく。
 とりわけ、ソ連の独裁者として台頭したスターリンの政策に歩調を合わせ、1928年からは農業集団化に相当する牧畜集団化を強行したため、1932年には反発した遊牧民層による大規模な蜂起が発生した。
 半年に及んだこの蜂起は反仏教政策によって抑圧されていたラマ僧が先導したもので、経済的のみならず、宗教的な要素も伴う複合的な反社会主義民衆蜂起であったが、当局はここでもソ連の支援を得て蜂起を武力鎮圧した。
 この大騒乱の後、政策修正が行われる中で1930年代後半以降に最高実力者として台頭してくるのが、軍人出身のホルローギーン・チョイバルサンであった。彼は1952年の死まで、ソ連と緊密に連携して衛星国家体制を確立するとともに、独裁首相としてスターリン主義の恐怖政治を敷いたことから、「モンゴルのスターリン」の異名を取った。
 こうしたモンゴルの衛星国家体制は、第二次大戦後の中・東欧諸国で相次いで樹立された同様の体制の先駆け的なモデルともなった。それゆえに、この人民革命党支配体制もまた、20世紀末の連続脱社会主義革命の潮流の中で体制崩壊を迎えることになる。


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