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近代革命の社会力学(連載第95回)

2020-04-20 | 〆近代革命の社会力学

十四 ポルトガル共和革命:1910年10月革命

(1)概観
 欧州では、1871年のパリ・コミューン革命が無残な失敗に終わって以降、革命運動は20世紀にかけていったん冬の時代を迎えていた。その間、欧州各国では君主制の枠内で程度の差はあれ、立憲主義が浸透していき、立憲君主制(または立憲帝政)が標準モデルとして定着していく。
 その反面で、君主制を廃する共和革命にまで進む例は、パリ・コミューン以前に共和革命を経験していたフランスを除けば、なかった。そうした中、20世紀最初の10年は、立憲主義が脆弱な欧州の主要国のいくつかで共和革命が連続する潮流を見ることになる。その先駆けとなったのが、南欧ポルトガルにおける1910年10月の革命であった。
 ポルトガルでは、第一次欧州連続革命を契機に勃発した自由主義派と絶対主義派の内戦における自由主義派の勝利を経て、ドイツのザクセン-コーブルク-ゴータ家から婿を迎えたブラガンサ朝が継続し、19世紀後半には限定的な立憲君主制が現れていたが、低下した王権の下で大臣が独裁権を振るうような事態も起きていた。
 そうした中、1889年にはブラガンサ王家分家が独立して統治していたブラジル帝国で共和革命があり、廃皇帝ペドロ2世が亡命してくる一幕もあった。この海を越えた親戚国での革命はその時点で直接に影響することはなかったが、19世紀後半期に隆起していた共和主義運動に刺激を与えたことは間違いない。
 そのブラジル共和革命の年に即位したカルロス1世は共和主義者を弾圧し、親政を試みたが、放漫ゆえ財政破綻をきたし、社会経済を混乱させた挙句、1908年に王太子と共に共和主義テロリストによって暗殺された。これが革命への序曲となり、二年後の共和革命につながる。
 しかし、ポルトガル共和革命は民主主義確立への道とはならず、革命後、軍部の台頭を許すこととなり、最終的には1930年代に共和制の下でのファシズムの成立を誘発する。
 この体制が1970年代の民主化革命で改めて打倒されるまで延々と続いたため、ポルトガルは第二次世界大戦をはさみ、現時点で世界最長のファシスト独裁体制に囚われてしまうのであった。
 類似した経過をたどったのが、ポルトガルに遅れて1930年代に共和革命を経験した隣国スペインであるが、こうした共和革命→ファシズムという流れは、第一次世界大戦を経て確立された集権的な国民国家という20世紀的な新たな国家形態を極限まで体現したモデルでもあった。


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