ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

晩期資本論(連載第56回)

2015-07-28 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(4)

 第二巻では、資本の回転が主要なテーマとして扱われていたが、そこでは主として産業資本のことが念頭に置かれていた。第三巻のマルクスは産業資本と商業資本の構造的な相違を踏まえて、改めて商業資本の回転について取り上げている。

産業資本の回転は、その生産期間と流通期間との統一であり、したがって全生産過程を包括している。これに反して、商人資本の回転は、事実上商品資本の運動が独立したものでしかないのだから、ただ、商品変態の第一段階W―Gを一つの特殊な資本の自己還流運動として表わしているだけである。

 簡単に言えば、「商人は、まず買い、自分の貨幣を商品に転化させ、次に売り、同じ商品を再び貨幣に転化させる。そしてこの同じことを絶えず繰り返す」。より詳しく商業資本の回転の特徴を見ると、次のようである。

商人の利潤は、彼が回転させる商品資本の量によってではなく、この回転の媒介のために彼が前貸しする貨幣資本の大きさによって規定されている。

 「商人資本は利潤または剰余価値の創造に直接に協力するのではなく、ただ、自分が総資本のなかで占める割合に応じて、産業資本が生産した利潤量から自分の配当を引きだすかぎりで、一般的利潤率の形成に規定的に参加するだけである」からして、常に所与の一般的利潤率のなかで利潤を上げることになる。
 従って、「商業部門の相違による回転期間の相違は、一定の商品資本の一回転であげられる利潤がこの商品資本を回転させる貨幣資本の回転数に反比例するということに現われる。少ない利潤で速い回収〔small profits and quick returns〕、これはことに小売商人にとっては彼が主義として守る原則として現われるのである

・・いろいろな商業部門での商人資本の回転数は、諸商品の商業価格に直接に影響する。

 その結果、「商業価格への商人資本の回転の影響が示す諸現象は、・・・・・・・・価格のまったく勝手な規定を、すなわち資本が一年間に一定量の利潤を上げようと決心するというただそれだけのことによる価格の規定を前提するように見える。ことに、こういう回転の影響によって、まるで流通過程そのものが、ある限界のなかでは生産過程にかかわりなしに、商品の価格を規定するかのように見える」という現象を生ずることにもなる。
 もちろん、このような価格の恣意的決定性は表面的なものにすぎず、生産過程への依存性を否定できないのではあるが、発達した資本主義のもとでの商業資本は貨幣資本を通じた市場支配力と独立性を有している。

・・・・・商人資本は、第一に、生産的資本のために段階W―Gを短縮する。第二に、近代的信用制度のもとでは、商人資本は社会の総貨幣資本の一大部分を支配しており、したがって、すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買入れを繰り返すことができる。

 いわゆる在庫をもって販売行為を繰り返すのは、商業資本の常道である。こうした無制限的な回転が可能となるのも、商業資本が独立しているせいである。それにより、恐慌の要因ともなるような「ある仮想的な需要がつくりだされる」。

・・・・その独立性のおかげで、商人資本はある範囲内では再生産過程の限界にはかかわりなく運動するのであり、したがってまた再生産過程をその限界を越えてまでも推進するのである。内的な依存性、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって回復されるような点まで行かせるのである。
 それだからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生ずるのである。

 銀行のような金融資本の問題は後に詳論されるが、独立性の強さという点ではすぐれて商業資本的な卸売業や銀行業の部面が恐慌の導火線となるという現代資本主義にも通ずる法則がここで提示されている。

☆小括☆
以上、十二では『資本論』第三巻第四篇のうち、第十六章「商品取引資本」、第十七章「商業利潤」、第十八章「商人資本の回転 価格」までを参照しつつ、商業資本と商業利潤の構造的な特徴を見た。ただし、第十九章「貨幣取引資本」は、現代では銀行業の一機能として吸収されていることから、続いて金融資本を扱う十三の導入部に組み入れることにする。

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晩期資本論(連載第55回)

2015-07-27 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(3)

 商業資本が隆盛な現代資本主義にあっては、商業資本の下に雇用される商業賃金労働者の割合が高まっている。かれらはマルクスの時代にはまだ少数派であったが、マルクスは時代先取り的に商業賃金労働者の問題にも考察を進めていた。

一面から見れば、このような商業労働者も他の労働者と同じに賃金労働者である。第一には、労働が商人の可変資本によって買われ、収入として支出される貨幣によって買われるのでなく、したがってまた、個人的サービスのためにはなく、ただそれに前貸しされる資本の自己増殖という目的だけのために買われるというかぎりで、彼は賃金労働者である。第二には、彼の労働力の価値、したがって彼の労賃が、他のすべての賃金労働者の場合と同じように、彼の独自な労働力の生産・再生産費によって規定されていて、彼の労働の生産物によって規定されてはいないというかぎりで、彼は賃金労働者である。

 つまり、不払い剰余労働を強いられる点では、産業労働者と商業労働者の違いはない。とはいえ、両者の間には、産業資本と商業資本の構造的な相違に照応する相違点が存する。すなわち―

商人は単なる流通担当者としては価値も剰余価値も生産しないのだから・・・・・・・・・、商人によって同じ諸機能に使用される商業労働者も商人のために直接に剰余価値をつくりだすことはできないのである。

 この相違点は前回見た「商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。」という定理に対応して、「労働者の不払労働が生産的資本のために直接に剰余価値をつくりだすのと同様に、商業賃金労働者の不払労働は商業資本のためにこの剰余価値の分けまえをつくりだす。」という形でまとめられる。その結果―

彼ら(商業労働者)のための出費は、労賃の形でなされるとはいえ、生産的労働の買入れに投ぜられる可変資本とは異なっている。それは、直接には剰余価値を増加させることなしに、産業資本家の出費、前貸しされるべき資本の量を増加させる。なぜならば、この出費によって支払われる労働は、ただすでに創造されている価値の実現に用いられるだけだからである。この種の出費がどれでもそうであるように、この出費も利潤率を低下させる。なぜならば、前貸資本は増大するのに剰余価値は増大しないからである。

 利潤率低下を避けるために、分業が進展する。また、マルクスも例に挙げているように、歩合制のような賃金形態が現われる。また現代的な非正規労働者への置換も類例である。結局のところ―

彼が資本家に費やさせるものと彼が資本家の手に入れてやるものとは、違った大きさになる。彼が資本家の手に入れてやるというのは、彼が直接に剰余価値を創造することによってではないが、彼が一部分は不払いの労働をするかぎりで、剰余価値を実現するための費用の節減を助けるからである。

 ここでマルクスは、剰余価値の創造に直接関与しない商業労働における搾取を費用節減という節約説に立って説明している。剰余価値の創造そのものである生産労働との構造的な相違点を踏まえてのことではあるが、説明の統一性を欠いていることは否めない。これは電気やガスのような無形的なサービスの生産に従事する現代的なサービス生産労働(商業的生産労働)の場合、説明に困難を生じさせることになるだろう。

本来の商業労働者は、賃金労働者は、賃金労働者の比較的高給な部類に属する。すなわち、その労働は技能労働であって平均労働の上にある賃金労働者の部類に属する。とはいえ、その賃金は、資本主義的生産様式が進むにつれ、平均労働に比べてさえも下がってくる傾向がある。

 このような矛盾現象の要因として、マルクスは事務所内分業と国民教育の普及による商業労働者の競争激化を挙げている。いずれも、現代資本主義において起きている現象である。

資本家は、より多くの価値と利潤とを実現することになれば、このような労働者の数をふやす。この労働の増加は、つねに剰余価値の増加の結果であって、けっしてその原因ではないのである。

 商業労働は技術的には高度な技能労働ではあるが、「労働といっても、価値の計算とかその実現とか実現された貨幣の生産手段への再転化とかに伴う媒介的操作でしかない労働、したがってすでに生産されていてこれから実現されるべき価値の大きさによってその規模が定まるような労働、このような労働が、直接に生産的な労働のようにこれらの価値のそれぞれの大きさや数量の原因として作用するのでなく、その結果として作用するということは、当然のことである」。これは、生産労働と商業労働の構造的な相違を、改めて原因と結果の観点から説明し直したものである。

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近未来日本2050年(連載第13回)

2015-07-25 | 〆近未来日本2050年

三 思想/情報統制政策(続き)

新皇国思想
 戦前の軍国期には、明治憲法上神聖不可侵と規定されていた天皇がいっそう絶対化され、神権天皇制を「国体」として護持する思想統制が最大で死刑を科す治安維持法を通して厳格に行なわれたことから、「天皇制ファシズム」とも称される。しかし、本来ファシズムは世俗的政治思想であり、宗教性を帯びた天皇至上の「皇国思想」は言葉の真の意味でのファシズムとは言えない「擬似ファシズム」であった。
 それに対して、第一章でも想定したように、2050年時点の憲法上は天皇が明確に国家元首と位置づけられるが、天皇は明治憲法下のように神聖不可侵とはされず、世俗的な君主としての扱いにとどまり、天皇の政治的無権能と首相を行政長とする議院内閣制の仕組みも維持されるだろう。
 従って、軍国期のように天皇が大権をもって政治の前面に立つことはないが、国家元首として位置づけられることにより、単なる儀礼的な象徴天皇ではなくなり、名誉職大統領的な色彩が強まるとも想定した。その点では、議会制ファシズムにおける天皇の位置づけはいささか曖昧なものとなる。
 とはいえ、天皇制を公然否定することは国家尊厳法の反国家宣伝罪に該当する可能性があるため、事実上タブーとなる。また同法には天皇に対する名誉毀損を刑法上の名誉毀損罪より重く罰する特別規定が置かれる可能性もある。さらに教育現場では学校行事などの式典において、従来の国旗掲揚に加え、天皇の肖像写真(御真影)を掲示すべきことが通達されるようになるだろう。
 このように議会制ファシズム下における天皇は軍国期ほどに絶対的崇拝の対象として強制されないとしても、至上価値とされる国家の尊厳の中核を成す存在として敬重すべき対象とされているだろう。これを宗教色の強い軍国期の「皇国思想」と対比して、脱宗教化された「新皇国思想」と呼ぶ論者もいるが、世俗化されている分、本来のファシズムと重なるとも言われている。

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近未来日本2050年(連載第12回)

2015-07-24 | 〆近未来日本2050年

三 思想/情報統制政策

国家尊厳法
 ファシズムにおける思想面の特質として、国家を至上価値に置くことがあるが、この特質は議会制ファシズムにあっても発現する。2050年の日本では、昭和憲法が基本原理とした「個人の尊厳」は否定され、「国家の尊厳」に取って代わられているだろう。
 この憲法原理に基づき、国家尊厳法が制定されている。国家尊厳法は現行の国旗国歌法を拡大再編した思想統制法であり、名称のとおり、国家の尊厳を護持することを目的とする法律である。その柱は全国民の国家への忠誠義務であるが、訓示法の性格が強かった旧国旗国歌法とは異なり、国旗国歌を貶める行為を国旗国歌冒涜罪と規定し、最大5年の懲役刑が科せられるようになる。
 これにより、例えば国旗掲揚・国歌斉唱が義務付けられる学校行事で教職員が国旗敬礼や国歌斉唱を意識的に拒否することは犯罪行為となり、各地で反抗的な教職員の検挙が相次ぐ。また生徒が同様の行為をした場合も非行として法的に処理されるようになる。
 それだけにとどまらず、国家尊厳法には、「歴史認識」を含め、日本の国益を害するとみなされる表現活動全般を犯罪行為として最大で10年の懲役刑を科す反国家宣伝罪の罰則規定が設けられる。この規定は乱用防止を名目として、第三者の告発をもって訴追される親告罪とされる。
 しかし、それによってかえって市民間の相互監視的な雰囲気が強まる。「反日言論」の検索・告発を専門とする市民団体が各地で立ち上がり、告発を活発に行なうため、言論の萎縮が高度に進行する。特に告発されやすいテレビ番組では、国策批判的な内容の番組は民放を含め、ほぼ一掃される。
 こうした国家尊厳法の適正な執行を確保するためとして、検察庁に国事犯係検事が置かれるようになり、軍国期の「思想検事」の復刻との批判も一部に見られるが、そうした批判さえもまた「反日言論」とみなされかねない状況となり、口にする人は少ないだろう。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(29)

2015-07-19 | 〆リベラリストとの対話

27:共産主義的教育について⑤

リベラリスト:あなたは『共産論』の教育に関する章の最後に、「共産主義社会は人生やり直しをいつでも可能とする自由なライフ・リセット社会であり、これこそが「ポスト近代」社会の要件である。」とまとめています。名言だと思うのですが、これも我々リベラリストのお株を奪われた感があります。

コミュニスト:コミュニストならぬパクリストというわけですか・・・。しかし、こうした人生設計の自由は資本主義社会の下で得られるものでしょうか。

リベラリスト:たしかに、コミュニストさんもご指摘のように、資本主義社会ではライフ・サイクルによる制約がかなりあります。しかし、そうした制約は国によって相違もあり、おそらくあなたの日本社会は制約が強いのだと思います。しかし、グローバル化の時代にはライフ・サイクルにとらわれないより自由なライフ・コースが開拓されるでしょう。

コミュニスト:私はそれほど楽観的ではありません。たしかにライフ・サイクル的制約は国により異なりますが、この制約は文化的要因だけでは説明がつかず、人間を労働力として生産活動に動員することを中心に組み立てられた資本主義社会ならではの制約です。あえて言えば、人間は役畜と同じで、労働力としての適齢というものが決まっているのです。

リベラリスト:それはたしかに悲観的な見方ですね。しかし、特に若い世代には学校を修了した後、モラトリアム期間をしばらく保障するようなゆとりを持った社会を構築することは可能ではないでしょうか。

コミュニスト:それは結構なことですが、モラトリアム期間にも自ずと限界があるはずです。一方で、方向付けがないままの放任型モラトリアムでは社会的な「迷子」―いわゆるニート―を作ってしまう恐れもあります。

リベラリスト:その点ですが、あなたによると、共産主義社会では職業教育が重視され、義務教育に相当する一貫制基礎教育を修了すると、「原則として全員がひとまずは就職する体制」を作るとのですね。私にはこのほうがほよほど画一的な社会のように思えますが。

コミュニスト:人生設計の自由を抽象的にとらえると、「人生放任」の社会になって、先ほど述べたような「迷子」を増やすことになります。ですから、まずは全員をいったんは社会に送り出す。問題はその後の人生です。そこで、リセットができるかどうかなのです。

リベラリスト:あなたは労働に関する章で、「職業配分」という提案をしていましたね。これはやや統制的な印象を受けますが。

コミュニスト:「職業配分」は「労働統制」でも「労働市場」でもなく、教育ともリンクしたまさに人生リセットの具体的な支援制度なのです。

リベラリスト:教育に話を戻しますと、職業教育のような実践教育は資本主義とも矛盾しませんし、大いにやるべきだと思います。

コミュニスト:「やるべき」といっても、資本主義的教育は選別的ですから、職業教育コースと教養教育コースに早期選別されていくのが一般です。しょせんは、階級別教育システムなのです。

リベラリスト:そうした教育制度の不平等を正すべきだという一点では、意見の一致があります。

コミュニスト:「正すべき」といっても、資本主義社会では正しようがないというのが、私の意見です。本気で正したければ、社会のあり方を土台ごと入れ替える必要があるのです。ですから、はじめに戻って、私はリベラリストさんのお株を奪ったのではなく、リベラリストさんのお株を正しい土壌に植え替えようとしているだけなのです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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晩期資本論(連載第54回)

2015-07-15 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(2)

商人資本そのものは剰余価値を生まないのだから、平均利潤の形でその手に落ちる剰余価値は、明らかに生産的資本全体が生みだした剰余価値の一部分である。だが、いま問題なのは、どのようにして商人資本は、生産的資本が生みだした剰余価値または利潤のうちから自分のものになる部分を自分に引き寄せるのか?ということである。

 マルクスが挙げている簡単な具体例で言えば、3000ポンド(スターリング;以下省略)を取引資本とする商品取引業者が、この資金で30000エレのリンネルを1エレ当たり2シリングでリンネル製造業者から買ってこれを販売するとして、年間平均利潤率が10パーセントで、すべての経費を差し引いて10パーセントの年間利潤を上げるとすると、年末時点で3000ポンドは3300ポンドに転化することになる。この利潤はいったい何に由来するのか、というのがここでの問題である。

・・・彼(商品取引業者)は彼の利潤を流通のなかで流通によってあげるのであり、ただ彼の購買価格を越える彼の販売価格の超過分によってあげるのではあるが。しかし、それにもかかわらず、彼はそれらの商品を価値よりも高く、または生産価格よりも高く、売るのではない。というのは、彼がそれらの商品を価値よりも安く、または生産価格よりも安く、産業資本家から買ったからにほかならないのである。

 商人は一見すると、商品の価値を吊り上げて儲けているように見えるが、そうした詐欺的販売行為は一部に過ぎず、正常な販売においては、商人は価値よりも安く購入して、価値どおりに販売しているというわけである。

つまり、生産価格または産業資本家自身が売る場合の価格は、商品の現実の生産価格よりも小さいのである。あるいは、諸商品の総体を見れば、産業資本家階級がそれを売る価格は、その価値よりも小さいのである。

 ここで、マルクスは本来の生産価格と現実の生産価格という二種の生産価格概念を持ち出しているため、わかりにくくなっている。ここでの「現実の」生産価格とは、「商品の費用(商品に含まれている不変資本価値・プラス・可変資本価値)・プラス・それにたいする平均利潤に等しい商品価格」と言い換えられる。

平均利潤率には、総利潤のうち商業資本の手に落ちる部分がすでに算入されている。それゆえ、総商品資本の現実の価値または生産価格はk+p+h(このhは商業利潤)に等しいのである。

 そうであれば、ここでの「総商品資本の現実の価値」は生産価格と呼ぶべきではなく、端的に商品価格もしくは商業価格と呼ぶほうがよいであろう。しかし、マルクスには「生産価格」という名辞へのこだわりがあるようで、やや紛らわしいが、産業利潤と商業利潤とを次のように対照・総括している。

われわれは以上に述べたようないっそう詳しい意味で生産価格という表現を保持しておこうと思う。そうすれば、産業資本家の利潤は商品の費用価格を越える生産価格の超過分に等しいということも、この産業利潤とは違って、商業利潤は、商人にとっての商品の購買価格であるところの生産価格を越える販売価格の超過分に等しいということも、しかし商品の現実の価格は、商品の生産価格・プラス・商業利潤に等しいということも、明らかである。

 このように生産価格概念にマルクスがこだわるのは、商業資本も産業資本を含む総資本の中で生産物=商品から生じる利潤の分配に参加的に与るという草刈場的な仕組みを表現したいからかもしれない。要するに―

・・・・商人資本は、剰余価値の生産には参加しないにもかかわらず、(それが総資本の中に占める割合に比例して)剰余価値の平均利潤への平均化には参加する。それゆえ、一般的利潤率は、すでに、商人資本に帰属すべき剰余価値からの控除分、つまり産業資本の利潤からの控除分を含んでいるのである。

 ある意味では、商業資本は産業資本に寄生して、そこから利潤を吸い上げるような存在である。そのため、「産業資本家にたいする商人資本の割合が大きければ大きいほど、産業利潤の率はそれだけ小さく、逆ならば逆である」し、元来労働の搾取度を常に過少に表わしている利潤率の「割合は、いま商人資本の手にはいる分けまえを計算に入れることによって平均利潤率そのものがさらに小さいものとして・・・・・・・・現われるかぎりでは、さらにいっそうかたよってくる」という形で、資本主義経済の桎梏ともなる面を有していることになる。

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晩期資本論(連載第53回)

2015-07-14 | 〆晩期資本論

十二 商業資本と商業利潤(1)

 『資本論』前半の叙述では、主として製造業を想定した産業資本を念頭に置いた議論が展開されていた。しかし『資本論』冒頭の一句にあったように、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」のであった。とすると、資本主義経済にあって商業資本は欠かせない要素のはずである。『資本論』後半では、こうした商業資本の特徴とそれに特有の利潤構造が分析される。

商人資本または商業資本は、商品取引資本と貨幣取引資本という二つの形態または亜種に分かれる。この二つのものを、資本の核心的構造の分析に必要なかぎりで、これからもう少し詳しく特徴づけるとしよう。しかも、そうすることがますます必要だというのは、近代経済学が、その最良の代表者たちにあってさえも、商業資本を直接に産業資本と混同していて、商業資本を特徴づける特性を事実上まったく見落としているからである。

 この口上でマルクスが挙げている二つの商業資本形態の形態はそれぞれ小売商と銀行を想定すればよいが、さしあたりは、前者の商品取引資本が考察の対象となる。後半で述べられている近代経済学における混同は、現代ではむしろ「脱工業化」「情報化」等の標語により、依然として経済の土台である産業資本の存在意義を軽視し、かえって「産業資本を直接に商業資本と混同」する傾向に転化していると言える。

・・・社会の総資本を見れば、その一部分は、・・・・・・・いつでも商品として市場にあって貨幣に移行しようとしている。また、他の一部分は貨幣として市場にあって商品に移行しようとしている。それは、絶えずこの移行運動をしており、絶えずこの形態的な変態をしている。流通過程にある資本のこの機能が一般に特殊な資本の特殊な機能として独立化され、分業によって一つの特別な種類の資本家に割り当てられた機能として固定するかぎりで、商品資本は商品取引資本または商業資本となるのである。

 まとめれば、「・・・商品取引資本は、この絶えず市場にあり変態の過程にあってつねに流通部面に包み込まれている流通資本の一部分が転化した形態にほかならないのである」。だとすると―

・・・流通過程では価値は、したがってまた剰余価値も、生産されはしない。ただ同じ価値量の形態変化が行なわれるだけである。じっさい、商品の変態のほかにはなにも行なわれないのであり、この変態そのものは価値創造や価値変化とはなんの関係もないのである。

 すなわち、「商品資本は価値も剰余価値も創造しない」。商業資本の特性とは、このような消極的な点にこそある。実際、例えば小売商は生産者の生産した商品を消費者に売るだけで、自らは生産しないのであるから、これはごく当然のことである。しかし商業資本は単に商品を右から左へ流しているだけではない。

商人資本が流通期間の短縮に役だつかぎりでは、それは、間接には、産業資本家の生産する剰余価値を殖やすことを助けることができる。商人資本が市場の拡張を助け資本家たちのあいだの分業を媒介し、したがって資本がより大きな規模で仕事をすることを可能にするかぎりでは、その機能は産業資本の生産性とその蓄積とを促進する。商人資本が流通期間を短縮するかぎりでは、それは前貸資本にたいする剰余価値の割合、つまり利潤率を高くする。商人資本が資本のよりわずかな部分を貨幣資本として流通部面に閉じ込めておくかぎりでは、それは、資本のうちの直接に生産に充用される部分を増大させる。

 現代資本主義ではこうした媒介・促進的意義を担う商業資本が隆盛であり、しばしば産業資本をしのぐ規模にまで発達しているために、「脱工業化」などと誇張されるが、商業資本は産業資本に対しては不可欠だが補助的な役割を果たしているにすぎず、自動車(新車)のように産業資本が自ら販売部門を擁して商業資本を兼併する形態もなお残されている。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(28)

2015-07-12 | 〆リベラリストとの対話

26:共産主義的教育について④

リベラリスト:今回は、「大学の解体」をめぐって対論してみたいと思います。「大学の解体」とは言い換えれば、「高等教育の機会均等」ではなく、高等教育そのものを抹消しようという企てですね。

コミュニスト:非常に単純化すれば、そうなりますね。「機会均等」という標語はすべてそうなのですが、空論に終わることがほとんどです。なぜなら、「機会」は均等だが、「結果」の均等は問わないというのが「機会均等」論ですから、鰻の匂いだけは全員均等に嗅がせてやるが、実際に食べられる者は限られるという議論なのです。

リベラリスト:そうでしょうか。鰻を食べるために必要な努力をする限り、鰻を食べるという結果もついてくるというのが、機会均等論の真意です。あなたの議論は、鰻などどうせ食べさせてくれないのだから、鰻そのものを死滅させてしまえと言うに等しいものです。

コミュニスト:しかし、現実に大学という鰻を食するための努力をすることができる環境とそうでない環境は階層的に決定されています。いくら奨学金等の支援策をもってしても、これは埋め切れない階級格差です。かといって、大学全入を認めれば、今度は大卒学歴の価値下落を生じ、学位は紙切れと化します。

リベラリスト:そこで、あなたによれば、「知識階級制の牙城」である大学は解体されなければならないわけですが、解体といっても単純に潰すのではなく、一方では生涯教育機関としての「多目的大学校」、他方では研究専業の「学術研究センター」に分割されるとのことです。この区別は、実は新たな知識階級制を生みだす元となりませんか。

コミュニスト:少し誤解があるようです。大学を単純に多目的大学校と学術研究センターとに分割するのではなく、両者は全く別物です。前者は教育機関ですが、後者は研究機関であり、研究機関としては、数ある就職先の一つに過ぎません。

リベラリスト:しかし、学術研究センターは独自に研究生を選抜養成すると説明されています。これは、一種の学生のエリート選抜ではありませんか。

コミュニスト:学術研究センターの研究生は学生ではなく、センターの職員です。ですから、これは大学への入学とは根本的に異なり、研究所への就職ととらえればよいのです。共産主義社会では研究職も特別なエリートではなく、数ある就職コースの一つです。

リベラリスト:学術研究センターは研究者を教育の負担から解放するメリットはありますが、一切教育しない研究専業機関というものが学術のあり方として健全かどうかという問題もあります。

コミュニスト:学術の社会還元ということなら、学術研究センターは現行大学以上に一般向け学術講演会などを主催する余裕が増えますし、センターの研究員が多目的大学校の講師として講義するといった形で、多目的大学校との連携も取れますから、ご懸念には及ばないものと考えます。

リベラリスト:なるほど。何となく分かってきました。とはいえ、私自身は高等教育の意義をなお信じています。あなたのように、教育は基礎教育で完結し、あとは就職後の生涯教育に委ねればよいということでは、市民社会の知的レベルを維持できるかどうか、不安を拭えません。

コミュニスト:共産主義社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるという趣旨のことを書きましたが、まさに共産主義社会は経験主義的社会なのです。そこで求められる知は高等教育を通じて上から知識体系として与えられるものではなく、日常の生活経験から得られる経験知です。

リベラリスト:経験知の大切さは理解します。ただ、経験に偏るあまりに、理性を信頼する近代的な合理主義の成果面まで失われないかという疑念は残ります。お節介になりますが、「共産主義的高等教育」というものがあり得ないのかどうかも一度検討されてみてはどうでしょうか。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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近未来日本2050年(連載第11回)

2015-07-11 | 〆近未来日本2050年

二 国防治安国家体制Ⅲ

厳罰化政策
 ファシズムの司法政策面の特質として、治安秩序確保を目的とした厳罰化政策がある。厳罰化政策はすでに現時点で先行的に発現しているが、2050年にはいっそう明瞭に打ち出されているだろう。
 その象徴となるのが、死刑制度の強化である。刑法に「加重殺人罪」の規定が新設され、被害者が複数の場合や犯行態様が残酷な場合の法定刑は死刑又は無期懲役刑のみとされることから、殺人罪での死刑判決が急増するだろう。
 さらに死刑執行を確保するため、死刑執行促進法が制定され、かねてより刑事訴訟法に定められた判決確定から六か月以内の死刑執行義務が厳格化される。また被害者側に法務大臣に対する早期死刑執行の申し立ての権利が付与される。その結果、死刑執行がほぼ毎月行なわれるようになるだろう。
 2050年になると、死刑制度を存置する国はいっそう減少し、国際社会からの死刑廃止圧力も高まるが、日本はイスラーム圏や中国とともに、強硬な死刑存置同盟を形成している。
 他方、懲役刑でも重罪での無期懲役刑や最長50年まで延長された長期の有期懲役刑が増加し、刑務所人口の超過密化やそれに伴う処遇環境の悪化による獄死者の増加などの問題も生じているだろう。また殺人罪などの重罪では少年法の適用が全面的に排除され、少年受刑者も増加する。
 2009年から施行の裁判員制度は存続しているものの、裁判員公募・選抜制に転換され、死刑を含む厳罰主義に同意できる者限定で、現行の六人制から二人制に縮小される。こうした裁判員裁判を担当する裁判部署は「国民裁判部」と称されている。
 こうした厳罰化政策には知識層からの批判もあるが、ごく少数にとどまり、「国民感情に答える司法」というスローガンの下、一般社会ではむしろ好意的に受け止められているだろう。

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近未来日本2050年(連載第10回)

2015-07-11 | 〆近未来日本2050年

二 国防治安国家体制Ⅱ(続き)

警察支配社会
 ファシズムの特徴として、警察の支配力が強化されることがあるが、このことは議会制ファシズムにあっても変わらない。2050年の日本では「高度安全社会」をスローガンに、警察制度が拡大改組されているだろう。
 具体的には、戦後民主主義の象徴でもあった国家公安委員会・警察庁の二元的な警察行政は一元的な国家公安省へ改組され、国家公安大臣が警察権を掌握する。また都道府県警察は一都道州制移行に伴い廃止され、国家公安省が管轄する国家警察に一本化される。ただし、特例として東京都は独自警察(警視庁)を維持する。
 また現行の機動隊は全国規模の国家警備隊として統合独立し、国家公安省の下で一元的な集団警備力として運用されるようになる。国家警備隊は、有事には海上保安庁とともに防衛軍の指揮下に編入される。
 国家警察に一本化されるに伴い、地域警察と政治警察(公安警備警察)の役割分担も相対化し、地域警察でも犯罪防止活動に合わせて、政治的な監視が行なわれるようになるだろう。 
 そうした相対化の象徴として、不審者通報制度が徹底される。ここでは、不審者の定義が大幅に拡大され、挙動不審者のみならず、外見不審者から思想不審者まで含むとされるため、不審者通報が殺到するようになる。これに対して、警察では事件・事故通報の110番とは別に、不審者通報専用ホットラインを設置して対応している。
 また監視カメラの設置管理を警察が一元的に行なうようになり、国家公安省主導での「監視カメラ3000万台計画」―2050年時点での人口約9500万比でほぼ3人に1台―の下、24時間体制の監視カメラ運用センターが稼動している。
 さらに、警察官職務執行法が改正され、罰則付きの職務質問応諾義務が課せられる。職務質問を拒否した場合、一年以下の懲役刑が科せられる。これに合わせて、外出時における顔写真付きマイナンバーカードの常時携帯・呈示義務も課せられ、違反に対しては反則金が課せられるだろう。
 また学校の安全確保を名目とする学校警察制度が創設され、大学を除くすべての国公立学校に警察官が常駐するようになる。国公立大学にあっても、所轄警察署との連絡官を常置する義務を課せられる。
 こうした警察支配社会に対しては批判もなくはないが、それは一部知識人層に限られ、知識人にあっても、思想不審者通報を恐れ、発言を控える傾向が広く定着しているため、検証に付されることはほとんどないだろう。

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近未来日本2050年(連載第9回)

2015-07-10 | 〆近未来日本2050年

二 国防治安国家体制Ⅱ

諜報機関体系
 ファッショ的な国防治安国家体制の政策的な特質として、諜報機関体系が高度に整備されることがある。この点、日本の「戦後民主主義」の「弱点」として、本格的な諜報機関の欠如が一部論者から指摘されていたが、この「弱点」は2050年には一掃されているだろう。
 すなわち、現行制度上における公安調査庁と内閣情報調査室とが統合され、内閣府の下に国家情報調査庁が設置されている。この機関は契約諜報員を含め総人員5万人とも言われる内外総合諜報機関として機能しており、対内的には市民運動や労働運動、さらには外国人居住者の監視と情報収集に当たり、対外的には海外支局を通じて対外工作活動も展開している。
 この機関はまた、現行の破壊活動防止法を改正再編したテロリズム防止法の所管官庁でもあり、同法に基づく社会諸団体への潜入・監視や同法違反に問われた団体の強制解散などの権限を有している。
 この国家情報調査庁は基本的に文民機関であるのに対し、防衛軍系の諜報機関としては、自衛隊時代から引き継いだ防衛省情報本部がある。この機関は要員数においてかつては日本最大の情報機関と謳われたが、現在ではトップの座を国家情報調査庁に譲っている。とはいえ、海外の軍事情報の収集に関しては、専門機関として位置づけられている。
 もう一つ、防衛軍系の諜報組織として、防衛軍情報保安隊がある。これも形の上では軍事情報の保全を目的としていた旧自衛隊情報保全隊を継承する組織であるが、その権限は大幅に拡大され、防衛軍法上刑事罰をもって禁止される反軍活動の取締り権限を持ち、司法警察としても機能している。
 反軍活動とは、防衛軍の活動に敵対し、その任務遂行を妨害する活動とされるが、反戦平和運動もこれに該当するとの解釈から、情報保安隊は平和団体の監視や取締りも行なっており、特に沖縄の反基地闘争を徹底的に弾圧し、押さえ込んでいる。そうした活動のゆえに、情報保安隊は「現代の憲兵隊」と渾名され、怖れられているのである。
 同隊によって検挙された者は文民であっても軍事裁判所に起訴され、審理される。ただし、文民被告人の審理は分離され、軍判士二名と文民判事一名の混合審理となるが、基本的に軍主導の裁判となることに変わりはない。
 他方、警察系の諜報組織としては、従来からの公安警備警察があるが、議会制ファシズムにおける警察政策については、より広い角度から次回あらためて概観する。

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ギリシャ危機‐反資本連帯の芽

2015-07-06 | 時評

ギリシャの国民投票で反緊縮が多数を占め、緊縮継続拒否の国民的意思が明瞭に示された。反緊縮を掲げる左派政権(ツィプラス首相)が一月に成立した以上、かなりの程度予測された結果であった。民主主義を共通価値として標榜するEUがこの結果を公然無視することはできないだろう。

とはいえ、すでに分析されているように、緊縮でも反緊縮でもギリシャ経済の苦境に変わりなく、進むも退くも地獄道である。ギリシャをめぐっては、2011年の債務危機表面化以来、本欄で「がんばれギリシャ!」の記事を三度掲載してきたが、ここまでくると、ギリシャ一国のがんばりだけでは不足である。

ギリシャ危機が象徴しているのは、ギリシャ一国の問題ではなく、資本主義の矛盾そのものである。緊縮は一般労働者大衆の生活を犠牲にする資本主義の生き残り策であり、日本でも社会保障費削減という形ですでに断行されている。他方、反緊縮は国家財政の破綻につながり、結果としてやはり一般労働者大衆の生活は圧迫される。

ギリシャ危機はこのような矛盾の大元を懐疑する最良の契機である。ギリシャを核に、反資本主義の旗を。ただし、国家的同盟ではなく、民際的連帯の形で。

資本主義者の中には、かつてギリシャ内戦が東西冷戦の導火線となった過去を想起する者もいるようだが、ギリシャ危機を「新冷戦」の開始に利用しようとする同盟策動は許すべきでない。そのためにも、民際的連帯が必要なのである。それは精神的な連帯にとどまらず、マイクロクレジットのような庶民金融事業を通じた物質的な支援も含むものでありたい。

[追記]
国民投票結果にもかかわらず、ツィプラス首相はEUが求めた緊縮策を受諾した。権力維持を最優先する政党政治家の本質が早くも露呈した。これにより当座を弥縫的に救えたとしても、市場原理・緊縮財政に邁進するEUに抵抗する大きな潮流を作るチャンスを失したことになる。こうした悪しき現実適応主義は欧州左派の総崩れを招くだろう。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(27)

2015-07-05 | 〆リベラリストとの対話

25:共産主義的教育について③

リベラリスト:あなたの教育論でもう一つ気になる点は、「子どもたちは社会が育てる」という標語です。私はこの標語の具体的な意味が今ひとつ飲み込めていないのですが、これは共同保育のような制度を想定しているのでしょうか。

コミュニスト:このテーゼは、主語が「子どもたち」と複数形になっていることからわかるように、個々の子どもではなく、集合としての子どもたちは社会が責任をもって育成するといった趣意です。言い換えれば、日々の育児は親権者が担いますが、それは個々の子どもの言わば製造元として、社会から委託されての任務なのです。

リベラリスト:となると、そのことは資本主義社会でも幼児教育や義務教育の制度を通じて実現されているのではないでしょうか。

コミュニスト:とは限りません。たしかに、大半の資本主義国で教育は制度化されていますが、子どもの教育は基本的に親任せにするのが資本主義です。ですから、子どもの将来はほぼ出自した経済階層によって決まってしまいます。共産主義社会には経済階層は存在しないとはいえ、親の育児能力の格差までは是正し切れないので、そうしたばらつきを均すためにも、子どもたちの育成は社会が第一次的に責めを負うのです。

リベラリスト:それならば、やはり共同保育や寄宿制のような制度があってしかるべきですが、『共産論』ではそうした具体的な提案がありませんね。

コミュニスト:実は、執筆に際して、義務教育に相当する13年一貫制の基礎教育課程を寄宿制とすべきかどうか迷ったのですが、全面寄宿制の設備的限界や濃密過ぎる人間関係がもたらす弊害などを考慮し、提案しなかったのです。

リベラリスト:そうなると、「子どもたちは社会が育てる」という標語は、かなり内容希薄になりますね。

コミュニスト:そうでもありません。例えば、義務保育制とか地域少年団などの提案は資本主義社会では見られない独自のものです。

リベラリスト:そうした子どもの政策的集団化は、旧ソ連におけるピオネールのような全体主義的制度を想起させます。

コミュニスト:決してそうではありません。真の共産主義社会は全体主義とは無縁です。義務保育制や地域少年団は、子どもの社会性を涵養することを目的とした中立的集団教育の手法であり、政治的な底意を隠した選抜的集団教育ではありませんので、ご安心ください。

リベラリスト:個々の子どもがそうした制度に参加しない自由は留保されるのでしょうか。

コミュニスト:疾病その他の正当な理由に基づき参加しない自由は留保されますし、参加できない原因を除去するための努力もなされます。

リベラリスト:それにしても、日々の養育は親権者が行なうことに変わりないなら、やはり虐待や養育放棄などの問題は完全には克服できないでしょうね。

コミュニスト:先ほど述べたように、親による日々の養育は、社会からの委託に基づくものですから、親の養育態度に対する社会的な監督はより厳正になります。といっても、警察的監視の強化ではなく、むしろ保健所や児童福祉機関を通じた育児の手引きや援助などを通じたサポーティブな監督が強化されるでしょう。

リベラリスト:とはいえ、共産主義的教育はやはり統制的な印象を否めず、自由度に欠ける印象を受けますね。

コミュニスト:「自由」の名のもとに、児童虐待や教育格差が放置される社会よりも、社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の責任を社会が最後まで負う社会のほうが、子どもたちにとっては得るところがずっと大きいはずです。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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晩期資本論(連載第52回)

2015-07-01 | 〆晩期資本論

十一 利潤率の低下(4)

 マルクスは、前回取り上げた総論的考察に続き、利潤率の傾向的低下法則が内在矛盾的に資本主義を崩壊に導く要因を改めて「生産の拡大と価値増殖との衝突」と「人口の過剰に伴う資本の過剰」の二つに分けて具体的に考察している。このうち、前者は前回やそれ以前にも指摘されていたことの総括でもある。やや長いが、以下がそのまとめの叙述となる。なお、文中「生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段」とは、共産主義経済の特質を対照的に示唆している。

資本主義的生産の真の制約は、資本そのものである。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、動機と目的として現われるということである。生産はただ資本のための生産だということ、そしてそれとは反対に生産手段が生産者たちの社会のために生活過程を絶えず拡大形成して行くための単なる手段なのではないということである。生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制約のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制約は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段―社会的生産力の無条件的発展―は、既存資本の増殖という制約された目的と絶えず衝突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。

 とはいえ、資本主義がこうした内在的矛盾を抱えながらも、崩壊することなく自己を保存していく可能性もまたあるのではないか―。マルクスはその疑問に対して、前回見た大衆の消費力の限界とともに「資本の過剰」(資本の過剰生産)という要因を提出する。

利潤率の低下につれて、労働の生産的充用のために個々の資本家の手になければならない資本の最小限は増大する。・・・・・・それと同時に集積も増大する。なぜならば、ある限界を越えれば、利潤率の低い大資本のほうが利潤率の高い小資本よりも急速に蓄積を進めるからである。この増大する蓄積は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率の新たな低下をひき起こす。これによって、分散した小資本の大群は冒険の道に追い込まれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追いこまれる。

 こうした「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本―新たに形成される資本の若枝はつねにこれである―の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している」。無数の「新たに形成される資本の若枝」、すなわち新興小資本が分散する晩期資本主義では、こうした資本過多が最高点に達しているとも言える。

・・・労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、その人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば(相対的剰余労働時間の拡張は、労働にたいする需要が強くて賃金の上昇傾向が強いような場合にはどのみち不可能であろうが)、つまり、増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれよりも少なく剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の絶対的過剰生産が生ずるわけであろう。

 これが資本の過剰である。結果、「・・・・・一般的利潤率のひどい突然の低下が起きるであろうが、しかし今度は、この低下をひき起こす資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値の増大(賃金の上昇による)と、これに対応する必要労働にたいする剰余労働の割合の減少とによるものであろう」。しかし、このような規定は、「人口の過剰に伴う」という与件と矛盾するのではなかろうか。

このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。労働の生産力を高くし、商品生産物の量をふやし、市場を拡大し、資本の蓄積を量から見ても価値から見ても促進し、利潤率を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしているのであって、この労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または少なくとも与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。

 つまり、ここで言う人口過剰というのは、あくまでも「相対的」な過剰であり、一方の資本の過剰のほうは「絶対的」であるから、要するに人口の相対的過剰と資本の絶対的過剰の組み合わせである。言い換えれば―

人口中の労働能力のある部分を就業させるには多すぎる生産手段が生産されるのではない。逆である。第一には、人口中の大きすぎる部分が事実上労働能力のない部分として生産されるのであって、この部分は、その境遇のために他人の労働の搾取に依存するか、またはあるみじめな生産様式のなかでしか労働として通用しないような労働に依存するよりほかはないのである。第二には、労働能力人口の全体が最も生産的な事情のもとで労働するには、つまり労働時間中に充用される不変資本の量と効果とによって彼らの絶対的労働時間が短縮されるには、十分でない生産手段が生産されるのである。

 それにしても、この状態からいかにして資本主義は崩壊へと向かうのか。これについて、マルクスが特に注視するのは、「資本の遊休化」という現象である。この現象は、最初は資本間の熾烈な競争、それも損失の押し付け合いという消極的な競争をひき起こす。しかし、問題はそうした資本間の内戦的衝突からの回復過程にこそある。

・・とにかく均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復するであろう。この遊休や破滅はある程度までは資本の物質的な実体にも及ぶであろう。すなわち、生産手段の一部分は、固定資本であろうと流動資本であろうと、機能しなくなり、資本として作用しなくなるであろう。すでに開始された生産経営の一部分も休止されるであろう。この面から見れば、時間はすべての生産手段(土地を除いて)を侵して悪くするのではあるが、この場合には機能の停止のためにもっとずっとひどく生産手段の現実の破壊が起きるであろう。

 均衡の回復過程でも資本の遊休、破壊に見舞われる―。そうした悪循環サイクルを繰り返していく過程で、資本主義経済は次第にその体力を弱めていくことになる。晩期資本主義において、こうした資本の過剰生産がどの程度生じているかについては、慎重な検証を要するが、生産力のグローバルな拡大と失業者の増大が共存する世界経済の状況を見ると、資本の過剰化の過程にあると言えるのではないか。破局を回避する手段は、労働者数の削減と生産性の引き上げであるが―

労働者の絶対数を減らすような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で行なうことを実際に可能とするような生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。なぜならば、それは人口の多数を無用にしてしまうだろうからである。

☆小括☆
以上、十一では『資本論』第三巻第三篇「利潤率の傾向的低下の法則」に沿って、マルクス理論において資本主義の崩壊を導くとされる一般法則を見た。この箇所は従来、恐慌原因論と結びつけて論じられることが多かったが、ここでのマルクス自身は恐慌を主題として論じているわけではないので、恐慌論については割愛した。

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