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近代革命の社会力学(連載第279回)

2021-08-13 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(1)概観
 1950年代末から60年代にかけてのアラブ連続社会主義革命の中で、60年代のシリアとイラクで見られたアラブ社会主義復興党(バアス党)による革命は、連続革命の一環ではありながらも、その主流から離れた独自の力学と展開を見せた。そのため、以前に予告していたように、この両国におけるバアス党革命については、派生章を別途立てて取り上げることにする。
 バアス党革命において革命主体となったバアス党は、シリアの哲学者・社会思想家であるミシェル・アフラクがその理論的支柱となって、盟友であるサラーフッディーン・アル‐ビータールとともに、1940年代に旗揚げしたアラブ民族主義政党である。
 アフラクはフランス植民地支配下のシリア中産階級に生まれた知識人であり、当時のフランス植民地知識人の常道として、フランス留学を経験したが、その間に共産主義に感化され、帰国後は共産党活動家となる。しかし、フランス共産党が植民地主義を容認していることに失望し、共産党を離れ、独自の思想運動を開始した。
 その結果編み出されたのが、アラブ復興運動であった。これはイスラーム復興運動と紛らわしいが、それとは明確に区別されており、イスラームを含むアラブ文明の復興という大きな構図から、西欧の植民地支配を脱し、統一的なアラブ国家を建設するという壮大な目標を描く民族主義運動であった。
 この運動ではイスラームはアラブ文明の要素として否定されないが、近代化かつ社会主義を志向する点で、イスラーム的伝統への回帰を訴えるイスラーム復興主義とは対立関係に立つことになる。一方で、共産党の公式路線であるマルクス‐レーニン主義も否定され、共産党とも緊張関係に立つ。
 こうした理念・路線に基づき、まずはシリアで1947年に結党されたのが、バアス党であった。ただ、アラブ統一国家構想を持つため、シリア一国の政党運動に終始せず、1950年代以降、隣国のイラクとレバノン、さらにヨルダンやイエメンなどにも党地域支部という形で、国境を越えて拡大されていったことが大きな特徴である。
 その点、エジプトでは50年代に先行する形で、ナーセルが指導する革命が成功し、ナーセル流のアラブ民族主義が展開されたため、バアス党は浸透の余地を十分持たず、これ以降、ナセリズムの名で呼ばれるナーセル流民族主義とバアス党流の民族主義(バアシズム)が汎アラブ民族主義における二大潮流となる。
 両派の間に径庭はないが、ナセリズムは創始者ナーセルが職業軍人出自であったこともあり、思想的には練られておらず、漠然としたスローガンに近く、政党化も十分にはなされなかったのに対し、バアシズムは思想家が創始者であるため、よりイデオロギー性が強く、バアス党も共産党類似の集権的な党組織を持つに至った。
 とはいえ、政治的なインパクトという点では、バアシズムは限局的であり、バアス党による直接的な革命が成功を収めたのは、シリアとイラクにとどまった。これはバアス党が当初より知識人中心の政党であり、大衆政党としては成功しなかったにもかかわらず、シリアとイラクでは党が軍部内に強く浸透したことから、軍事クーデターの形でバアス党系将校が革命に成功したという経緯がある。
 このように、バアス党は文民知識人によって創設されながら、シリアとイラクで軍内党派の形態で台頭していき、最終的に創設者アフラクもアル‐ビータールも、軍人主導のバアス党政権によって排除され、アフラクはイラクへ亡命・客死、アル‐ビータールもフランス亡命中に暗殺という数奇な最期を遂げた。
 シリアとイラクのバアス党政権は、1970年代以降、シリアではハーフィズ・アサド、イラクではサダム・フセインという互いに反目し合う独裁者による個人崇拝政治に変節したうえ、イラク政権は2003年のイラク戦争に敗れ崩壊、一方のシリア政権は異例の親子世襲体制の下、2010年代の連続民主化革命の潮流に吞まれ、現在進行中の凄惨な内戦に直面しているところである。


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