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近代革命の社会力学(連載第159回)

2020-10-21 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ三 イラン・ギーラーン革命

(2)民族主義運動と共産党の連合
 前回概観したように、イランのギーラーン革命は、民族主義勢力と共産党の連合によって成立したのであるが、このような不安定な連合が形成されるに当たっては、かなり錯綜した力学が働いている。
 まず、民族主義勢力の中心にあったジャンギャリー運動は先行する立憲革命に発祥し、ギーラーン人商人に出自したミールザー・クーチェク・ハーンによって率いられていた。ミールザーはカリスマ性のある指導者で、革命的な求心力を持っていた。
 これに目を付けたのが、ロシアのボリシェヴィキであった。革命ロシアにとっても、帝政ロシアがいったんは手を付けていたイランを押さえ、ここに衛星国家を樹立することは革命防衛上も有利だったからである。そこで、ボリシェヴィキは、ジャンギャリーを支援することとした。
 他方、武力を欠くジャンギャリー側にとっても、ロシア赤軍の支援を得られるメリットは大きかったから、ここに両者の利害は一致し、1920年5月以降、両者共同での軍事行動が開始された。この作戦は成功裏に運び、まずはギーラーン駐留英軍を駆逐したのに続き、6月にはギーラーンの首府ラシュトを制圧し、革命政府の樹立が宣言された。
 これとは別筋の流れとして、イラン共産党の創立と台頭があった。イラン共産党は、ギーラーン革命前夜の1920年6月、アルメニア系イラン人であるアヴェティス・スルタン‐ザーデらを中心に結党された新政党であり、当然ながらボリシェヴィキの強い影響下にあり、ロシア共産党の衛星政党的な立場であった。
 ギーラーン革命最初の革命政府は、ジャンギャリー運動と共産党の連立政権の形態で成立した。実際、首相に相当する人民委員会議議長(兼軍事委員)にミールザーが就き、閣僚級の陸海軍総司令官に共産党からエフサーノッラー・ハーン・ドゥーストダールが就くという形で、両者は相乗りしている。
 この連立政府はボリシェヴィキの支援の下に成立したこともあり、「ソヴィエト社会主義共和国」を名乗り、政府機構も、ボリシェヴィキ流に人民委員会議という合議体構制を採っていた。
 とはいえ、ジャンギャリー運動の理念は列強支配を排する民族独立にあり、その支持基盤はミールザー自身も出自した商業ブルジョワ階級であり、労働者階級や農民階級ではなかった。政策的にも、農地分配のような革命的土地改革には否定的であった。
 他方、イラン共産党はボリシェヴィキにならった労農階級政党であったが、党内部に分裂を抱えていた。当初の指導者スルタン‐ザーデはミールザーの民族主義勢力との連合に否定的であったが、彼の党内政敵であったヘイダル・ハーン・アム‐ウーグリーは民族主義勢力との連合を重視し、対立していた。
 これに伴い、ジャンギャリー運動内部にも、反共的なミールザー派に対し、共産党との合流を志向する左派が形成され、共産党をはさんで股裂きの状態となっており、こちらにも亀裂が生じてかけていた。


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