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近代革命の社会力学(連載第103回)

2020-05-11 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(4)地方蜂起から密約革命へ
 文人・知識人主体の革命組織である中国同盟会が武装蜂起の度重なる失敗を越えて共和革命に成功するに当たっては、清朝末期に台頭してきた二つの新しい人的要素の加勢が鍵となった。すなわち、民族資本家と中国初の近代的軍隊である新軍である。
 民族資本家は、19世紀末以降、主として漢民族の中から台頭してきた近代的な資本家層であり、紡績や製塩、海運などの分野を中心に短期間で財閥を築き上げた。かれらは本業のほかに、ナショナリズムの思想から、外国資本に握られた利権の回復を進めるいわゆる利権回収運動にも乗り出し、かなりの成果を上げていった。
 同時に、民族資本家層は旧来の豪商財閥であった山西商人などとは異なり、近代的な工業を基盤とする資本家層として、開明的な思想に目覚め、保守的ながらも議会制度を通じた参政意志を持った。江蘇省の紡績資本家・張謇はその代表格であり、彼は共和革命のプロセスにも深く関与し、後に清朝最後の宣統帝の退位詔書起草者ともなった。
 もう一つの新軍は、清末、清朝自身による近代化改革の過程で創設された西洋式軍隊組織であった。そうした経緯から、当然にも新軍の役割は清朝の防衛にあり、当面は革命の鎮圧に投入されることを予定していた。とはいえ、統一された国軍組織とは言い難く、指導的将官個人の手に委ねられた軍閥組織の色彩が強かった点に限界があった。
 一方、清末には物価高騰と増税が重なり、農民や都市細民の生活は圧迫され、庶民層は打ちこわしや減税を求める暴動など旧来の一揆的手法で抗議運動を活発化させていた。かれらはまだ近代的な革命意識に目覚めていなかったとはいえ、下からの革命の機運を高めることに寄与した。
 そうした中、最末期の清朝が犯した二つの失策が、革命の時期を想定以上に早めることとなった。一つは、鉄道国有化政策である。一見すると社会主義的にも見えるこの政策の真意は、西欧列強借款団に対する担保として差し出すための措置であり、言わば身売りに等しいものであった。
 この措置は利権回収運動を進めていた民族資本家層を憤激させ、とりわけ鉄道国有化反対運動の拠点となっていた四川省では、1911年9月の暴動に発展した。これが革命の導火線となり、湖北省の新軍が反旗を翻して決起し、清朝からの離脱を宣言したのを皮切りに、他省にもドミノ倒し的な決起と離脱宣言が相次いだ。
 もう一つの失策は、そうした各地の革命的蜂起を受けて、新軍軍閥であった袁世凱を内閣総理大臣に任命したことである。内閣総理大臣は清末の近代化改革で新設された政府首班である。清朝は新軍中最強を誇る北洋軍閥総帥の袁に全権を与えることで革命の早期鎮圧を期待したが、彼は野心に満ちたマキャベリストであった。
 革命に利用価値を見出した袁世凱は、革命を鎮圧すると見せて、裏では革命派と通じ、清朝の廃止と共和制移行を手助けするのと引き換えに、自身を共和国元首である大総統に就けることを密約させたのであった。
 かくして、密約に基づき、1912年2月、清朝第12代の幼帝・宣統帝が退位し、清朝は終焉した。通常ここまでの過程を「第一革命」と呼び、袁世凱が独裁化していく中で、反袁派が起こした二つの政変を第二、第三の革命ととらえるが、共和革命そのものと言えるのは、第一革命のみである。
 この革命の特徴は、如上のように、まずは地方における革命的蜂起に始まり、最終的に体制派軍閥との取引で全土革命が実現したという特異なプロセスである。しかし、袁世凱のマキャベリズムに頼ったことは、間もなく革命の挫折という代償を支払わされる結果となる。


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