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近代革命の社会力学(連載第284回)

2021-08-26 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(6)シリアにおける革命の「矯正」
 1966年にバアス党創設者ミシェル・アフラクを追放するクーデターを主導したのは、サラーフ・ジャディードとハーフィズ・アル‐アサドの二人の軍人党員であった。この両人に共通する属性は職業軍人というほかに、シリアにおける少数宗派アラウィ派に属していたことである。
 実のところ、シリアのバアス党革命はバアス党という単一の政党主導で実行されたように見えながら、その裏では、シリアにおける複雑に入り組んだ宗教宗派の力学が働いていた。元来、シリアは中世以来、イスラーム教正統のスンナ派が優勢ながら、アラウィ派をはじめ、多岐に分かれたイスラーム少数派やキリスト教派も分布する複雑な社会であった。
 その点、フランスは委任統治領時代、それ以前のオスマン帝国時代に支配的だったスンナ派の影響力を削ぎ、植民統治を円滑にするべく、少数宗派を優遇する逆転政策を敷き、かれらに一定の自治を認めた。アラウィ派も、地中海沿岸地方にアラウィ国が安堵された。
 しかし、独立後は再びスンナ派優位が復活したため、少数宗派は反発し、その反発がバアス党や共産党などの革命政党への入党を促進していた。中でも、アラウィ派は、バアス党運動の創始者でもあったザキー・アル‐アルスーズィー自身アラウィ派であったこともあり、バアス党員となることが多かった。
 ジャディードとアサドもそうしたアラウィ派バアス党員として、軍内で台頭していた。66年クーデターがこの両人により主導され、成功したことで、シリアのバアス党体制はとみにアラウィ色を強めた。アフラク追放後、それまで党から排除されていたアル‐アルスーズィーが復権し、党のイデオローグに据えられたのも、そうしたアラウィ派支配の象徴であった。
 こうして、シリアにおけるバアス党革命はアラウィ革命へと転回し、以後のシリア体制はバアス党支配体制であると同時に、今日でも人口の1割程度にすぎないアラウィ派によるバアス党の枠組みを通じた少数支配という特異な性格を持つことになり、基本的にこれが今日まで連綿と継続している。
 アラウィ派支配の起点となった1966年クーデター以後の展開は、新体制の実力者となったジャディードとアサドの両人の人的関係を軸にしたものとなる。
 その点、当初は、アサドより年長で、バアス党シリア地域支部を掌握するジャディードが事実上の最高実力者として、階級闘争を促進する教条的な社会主義政策を主導した。
 一方、軍内では少数勢力の空軍に籍を置きつつ、30代ながら国防相となり軍を掌握したアサドは、かねてジャディードの教条性を懸念していたところ、1970年にヨルダンにおいてパレスチナ解放機構(PLO)の武装蜂起により内戦となった際、ジャディードがPLO支援を打ち出したことで、両人の亀裂が明瞭になった。
 アサドは1970年、クーデターを起こしてジャディードを拘束し、全権を掌握した。以後、ジャディードは1993年に病死するまで終身間獄中に置かれる一方、アサドは2000年に急死するまで権力を維持した。
 クーデター後、アサドは革命の「矯正」と銘打って、ジャディード支配の急進性を緩和する穏健化を図った。特にバアス党の世俗主義と社会主義を穏健的に修正し、スンナ派宗教界の懐柔に加え、経済自由化を通じてスンナ派ブルジョワ階級利益の拡大を保証したことは、アラウィ派による少数支配を強化するうえで巧妙な「矯正」であった。
 しかし、こうしたアサドの「穏健」とは主として政策面での穏健であり、クーデターの翌年に大統領に就任したアサドは次第に個人崇拝を強め、秘密警察網による監視と苛烈な人権抑圧を基調とする強権統治により終身間の独裁体制を固めたばかりか、同じく軍人だった実弟も政権有力者に加え(後に決裂)、最終的には子息バシャール(現大統領)への政権世襲まで実現した。
 結局、「矯正」後のシリア・バアス党政権は、アラウィ派支配というのみならず、アサド家の一族支配にさえ変質し、バアス党はそうした二重の意味での少数支配の政治的道具と化していくことになる。このような革命の変質は、隣国のイラクでも、別の形で同時代的に生じていた。


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