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近代革命の社会力学(連載第243回)

2021-06-02 | 〆近代革命の社会力学

三十五 第二次ボリビア社会主義革命

(5)革命中/後期:1952年~56年~64年
 MNR政権は一党支配体制を志向せず、定期的な大統領選挙は維持したが、革命後最初の大統領選となった1956年は対抗候補が極右系だったこともあり、MNR共同創設者でもあるシレス・スアソ副大統領が80パーセント以上の得票をもって圧勝した。これ以降、第二次革命は中期を迎えるが、この時期には二つの点で大きな環境変化が見られた。
 一つは、経済の悪化である。鉱山公社の非効率な運営により経済基盤の鉱業生産が落ち込んだほか、農地改革の混乱で暮らしに関わる食糧生産の停滞するなど、社会主義政策の限界が早くも見え始め、インフレーションも亢進していた。
 もう一つは、対米関係の改善に伴うアメリカによる経済援助の開始である。このことは体制を安定させるうえで有利とも思えるが、かつてMNRを親ナチスと疑ったアメリカがMNR政権に接近してきた理由は、冷戦が深化する中、ラテンアメリカ地域での覇権を確立するためであった。
 ことに1959年のキューバ革命が反米・親ソというアメリカにとって最も好ましからざる方向に進むと、アメリカはMNR政権のように、ソ連と一線を画して独自の社会改革に取り組むラテンアメリカの体制を支援する方針を強めた。
 このことは援助を通じてアメリカへの従属を結果する危険を伴ったが、シレス・スアソはパス・エステンソロよりも妥協的であり、アメリカの援助を受け入れたのである。結果、国家予算の30パーセントをアメリカの援助が占めるまでになった。
 他方、シレス・スアソは政権への反発を強めるボリビア労働者中央本部(COB)の力を削ぐためにも、軍の再建を急いだ。ここでもアメリカによる軍事訓練を受け入れたことで軍部が急速に復活し、政権にも発言力を持つようになった。
 そうした中、1960年の大統領選挙にはパス・エステンソロが再び立候補して当選、第二期政権を開始する。革命後期を成す第二期パス・エステンソロ政権の課題は鉱業の立て直しにあったが、自力再生を断念した政権は、アメリカ、旧西ドイツ、米州開発銀行の三者共同の援助計画を導入した。
 これにより、労働者自主管理型の鉱山公社は整理され、労働者解雇や賃下げなどのリストラが断行されたため、COBは強く反発し、MNRとの関係は決定的に決裂した。こうして、最大支持基盤を失いながらも、パス・エステンソロは連続再選を可能とする改憲を施したうえ、軍部と農民の支援のもと、1964年の大統領選で再選を果たした。
 この時の論功行賞としてレネ・バリエントス・オルトゥーニョ空軍司令官を副大統領に抜擢した。バリエントス将軍は、52年革命当時、アルゼンチンに亡命中だったパス・エステンソロを航空機で帰還させた功績もあるMNR支持派の軍人のはずだった。
 しかし、おそらくは以前からクーデターを構想していたバリエントスはたちまちにして寝返り、64年11月、陸軍と組んでクーデターを主導し、パス・エステンソロ政権を転覆、以後、軍事政権を樹立して、MNR体制を解体したのである。
 バリエントス政権は、69年にバリエントスが航空機事故で急死するまで、親米反共の軍事独裁政権として、革命派を弾圧した。なお、キューバ革命から離脱してボリビアでの再革命を助長するべく、ボリビア入りしたチェ・ゲバラを捕らえ、略式処刑したのも、バリエントス政権下の対ゲリラ掃討作戦の一環であった。
 こうして、1952年に始まった「長い革命」は終幕し、以後のボリビアは80年代まで軍事クーデターが頻発する不安定な時代に突入する。しかし、MNRは生き延び、軍事政権が終焉した後、今度は社会主義を清算する新自由主義政党に変節し、再びシレス・スアソ(82年‐85年)とパス・エステンソロ(85年‐89年)が相次いで大統領に返り咲くのである。
 このように、革命政党が革命の挫折後も存続し、同じ党名かつ同じ顔触れで、今度は自己否定的な革命清算施策を展開するのは極めて異例であり、MNRという政党の変幻自在ぶりを象徴している。しかし、ボリビアにおける社会主義的な志向性は残り、変節したMNRは、21世紀に入って新たな社会主義運動の潮流の中、政権、議席ともに失うことになる。


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