ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第397回)

2022-03-18 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(8)アルバニア革命

〈8‐2〉学生・労働者蜂起から遅発の革命へ
 鎖国時代のアルバニアにおける情報統制は周辺の社会主義圏と比較しても各段に厳しく、通常のメディアを通じて西側の情報が伝えられることはなかった。ある程度統制が緩和されたアリア新指導部の時代になっても、周辺諸国での革命は一切報じられなかった。
 しかし、地殻変動的変化はベルリンの壁の打壊前年の1988年にはすでに起きており、西部の町カヴァヤを中心に、非合法な自主管理労働組合の結成や青年による反体制地下活動などが隆起していた。これらはアリア政権下の緩和政策の結果とも言える。
 もっとも、このような動向は直接に革命につながることはなく、1989年度中には大きな変化は起こらなったが、情報化社会の波は小さな鎖国でも押しのけることはもはやできず、1990年1月には、北西部のシュコドラでスターリン像を引き倒すという象徴的な抗議行動が発生したのを機に、抗議行動が拡散していった。
 同年7月には、数千人のアルバニア市民がイタリアをはじめとする外国公館に押し寄せ、出国を要求する事態となり、当局もこれを容認するほかはなかった。これにより、長年の鎖国体制に風穴が開いた。
 一方、首都ティラナではティラナ大学の学生がシュコドラ蜂起の直後から抗議行動を開始、同年12月にはハンガーストライキを実施したことを機に、抗議行動は全国に拡大した。そうした中、同月12日、労働党は一党支配の放棄と複数政党制に基づく総選挙の実施を約束するとともに、ネジミエ・ホジャ未亡人をはじめとする古参の党幹部連を解任した。
 これを受けて、同日には、かつて労働党政治局専属医師としてホジャの侍医も務めたこともあるサリ・ベリシャが率いる新党・民主党が結党されるなど、新党の結成が相次いだ。ベリシャはこれ以後、民主化運動の象徴となる。
 ここまでが革命第一段階であるが、続いて1991年2月、さらなる民主化を求める学生が再びハンストに出たのに対し、90年12月に結成されていた業種横断的な独立労組連合が呼応して蜂起、治安部隊と衝突しつつ、首都のホジャ像を引き倒す象徴的行動を起こした。これは革命第二段階を告げる転換点となった。
 同年3月には公約通り、複数政党制による制憲議会選挙が実施されたが、組織力で優位な労働党が過半数を征して勝利した。こうして選挙の洗礼を受けた労働党政権下で新憲法の制定がなされ、新設された大統領にはアリアが議会によって選出された。
 このように議会政党に衣替えして継続された労働党政権には選挙直後から労働者を中心に抗議行動が発生、91年5月には早期の再選挙を求める大規模なゼネストが発生し、社会機能は麻痺状態となった。そこで、同年6月、労働党はマルクス‐レーニン主義を放棄し、社会党に党名変更することで生き残りを図った。
 しかし、社会党政権が要求に応じて、翌1992年3月に実施された新憲法下最初の総選挙では、如上の民主党が社会党を破って過半数を征し、政権与党となるとともに、アリア大統領が4月に辞任することで、革命第二段階は完結、ひとまずアルバニア革命は収束した。
 こうして、アルバニアには周辺諸国より一足遅れで連続革命の波が及ぶとともに、およそ二年間のプロセスをかけて脱社会主義革命が完了した。代わって、民主党のベリシャが大統領、後に首相として新生アルバニアの指導者となるが、その政権下での新たな混乱については後述する。


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