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近代革命の社会力学(連載第287回)

2021-08-31 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(2)文化大革命の開始時と経緯
 本連載では文革の前半期を主に取り上げると述べたが、文革は体制内の権力闘争という色彩も濃厚であったことから、革命事象としての文革に関しては曖昧な点があり、その正確な開始及び終了の時点についても、不確定さが残る。
 特に開始時に関して、1960年代後半に開始されたということは明確であるが、その正確な開始時は曖昧である。後に毛沢東自身があるインタビューで答えたところによれば、修正主義実権派の排除を決意したのは1965年12月であったとしている。
 しかし、これは毛の内心的な開始時点であり、「文化大革命」という語が中共内で公式に登場したのは、1966年8月の「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」と題する党中央委員会の決議においてであった。
 しかし、文革のより明確な性格が示されたのは、1969年の第9回党大会における当時毛の最側近だった林彪の政治報告においてである。そこでは、文化大革命が実権派から権力を奪い返すための新たな階級闘争であることが宣言されており、言わば実権派に対する宣戦布告と言えるものであった。
 こうした経緯に鑑みると、文化大革命の公式の開始時は文化大革命党決定が出された1966年8月とみなすことが最も明確かもしれないが、もう少し遡ると、1965年秋に、ある新作京劇をめぐる論争が過熱し、政治問題に発展したことがあった。
 この京劇は歴史家・政治家でもあった呉晗が1961年に発表した『海瑞罷官』という時代劇作品であるが、その解釈をめぐり論争が生じた。1965年11月に、後に文革の四大中心人物(いわゆる四人組)となる姚文元が、同作品が題材とした冤罪救済や民衆への土地返還が反革命分子の救済や人民公社制の否認を暗示すると論難する論文を発表し、論争に火をつけた。
 毛が実権派排除を決意したとする時期は65年12月とされるので、毛自身が姚論文に触発された可能性は充分にある。その結果、1966年5月には党中央委員会通知の形で、呉作品を擁護した者への批判攻撃と新しい文化革命組織の結成を指示し、ひいては党組織の実権派を資本階級にある者として攻撃するよう指示する趣旨の通達が発せられた。
 このように文学論争を端緒とする文化闘争の開始時が1966年にあり、しかも文化革命の語が公式に登場、同年8月には如上の党による「文化大革命」決定へと急進していく経緯に鑑みると、文革の端緒は1966年に見定めるのが妥当であろう。
 ちなみに、文革の終了時についても、1977年8月の第11回党大会における終結宣言を公式終了時とするのが明確ではあるが、中共の党史書では「四人組」が検挙された76年10月とされるなど、曖昧な点が残る。こうした終結経緯についても、後に再言する。


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