ザ・コミュニスト

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近代科学の政治経済史(連載第55回)

2023-03-24 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙開発競争の終焉
 冷戦期における宇宙開発競争は、冷戦というある種の疑似的戦時下で、軍事目的を想定しつつ、東西陣営の体制が自国の優位性を誇るという体のものであったので、冷戦構造の動向に左右された。
 1970年代に米ソ間でいわゆる緊張緩和(いわゆる雪解け)が起こると、1975年には米ソ共同で宇宙船を飛行させるアポロ・ソユーズテスト計画が実施された。これは「雪解け」の象徴であるとともに、冷戦の終結へ向かう最初の芽となった。
 しかし、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻を機に、1980年代初頭にかけ、再び冷戦が再燃すると、アメリカはまさに宇宙空間を戦場化するスターウォーズ計画(正式名称・戦略防衛構想)を掲げたが、これは予算的にも技術的にも絵に描いた餅に終わった。
 一方、アメリカは1981年以降、再使用型宇宙往還機としてのスペースシャトルの開発に注力し、二度の搭乗員死亡事故を経験しながらも、数次にわたるスペースシャトルの往還を成功させた。
 このスペースシャトル計画は宇宙開発競争第二期における目玉であったが、1989年には米ソ両首脳による冷戦終結宣言がなされ、その二年後にソ連の解体という世界史上の激変が起きると、宇宙開発競争は失効し、東西の協調的な宇宙探査の仕組みが構築された。これが米露日欧加の五か国/地域共同運営による国際宇宙ステーション(ISS)である。
 居住可能な人工衛星である宇宙ステーションの構想と実用も元来はソ連が主導し、1971年のサリュート1号がその嚆矢となった(ただし、帰還中に3人の搭乗員が事故死)。その後も、この分野はソ連が先導し、国際宇宙ステーションでもソ連を継承したロシアが技術面で重要な役割を担ってきた。
 このような冷戦終結後の東西和解の状況は宇宙開発を再び非軍事的な学術的宇宙探査に戻す契機となり、国際宇宙ステーションも軍事施設ではなく、宇宙科学の研究スペースとしての機能を有している。
 もっとも、2022年のロシアのウクライナ侵攻を機に再び東西の対立緊張状況が生じる中、ロシアは国際宇宙ステーションからの撤退を表明した。この第二次冷戦の行方いかんでは、近年中国が宇宙開発に参入してきた状況と合わせ、再び宇宙開発競争時代が到来する可能性もある。

商業宇宙開発の始まり
 宇宙開発は必要な予算や技術から言っても、国家による直接投資によらなければ実行し難い分野であり、従来は本質的に国家プロジェクトであったが、2004年にスケールド・コンポジッツ社のスペースシップワンが民間企業初の有人宇宙飛行を成功させ、民間主導での宇宙開発の可能性が示された。
 そうした中、アメリカは2010年をもってスペースシャトル計画を終了し、低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託する方針を明らかにした。これは、国家主導での宇宙開発時代の終わりを象徴する方針転換であった。
 これに先立ち、NASAは2008年、ISSへの物資補給を民間企業に委ねる商業軌道輸送サービスに関する契約をスペースX社及びオービタル・サイエンシズ社と締結した。さらに、NASAはISSへの有人飛行を民間宇宙船に委ねる商業乗員輸送開発計画を開始し、2014年にスペースX社とボーイング社の宇宙船を選定した。
 このような宇宙開発の民営化は、商業宇宙開発という新たな事業の始まりを画している。技術面での民営化にとどまらず、宇宙旅行をビジネス化する試みとして、ヴァージン・グループ傘下のヴァージン・ギャラクティック社が2004年に設立され、宇宙旅行希望者の公募を開始するなど、宇宙空間が戦場ならぬ市場となる時代も到来した。
 ただし、こうした商業宇宙開発は技術的な面ではまだ発達途上にあり、如上の商業乗員輸送開発計画で選定された民間宇宙船(スペースX社のドラゴン2)が有人飛行に成功したのは2020年のことである。商業宇宙旅行も、現時点では巨額費用を負担できる富豪による短時間の宇宙体験にすぎない。
 商業宇宙開発は非軍事的な宇宙開発ではあるが、学術的な目的を離れたまさに開発プロジェクトであり、とりわけ娯楽観光目的での宇宙船の頻回な往還が実現すれば、環境面での負荷も懸念される。
 しかし、資本主義の進展に伴い、あらゆる科学技術が資本に商業利用されてきた歴史の中で、宇宙科学技術だけが例外ではいられないだろう。資本主義が存続する限り、商業宇宙開発を抑制することは至難である。特定の天体の個人や企業による私的所有という構想さえも出現するかもしれない。

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近代科学の政治経済史(連載第54回)

2023-03-21 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙開発競争の展開①
 ロケットによる宇宙探査で先行したのは、ナチス科学者を大量に引き抜いたアメリカではなく、ほぼ独自に研究開発を進めていたソ連であった。ソ連は1957年10月、人工衛星スプートニク1号を搭載したロケットの打ち上げに成功した。
 これを契機として、以後、ソ連・アメリカを軸とする抜きつ抜かれつの国策的な宇宙開発競争の時代が始まったと理解されている。ちなみに、この「宇宙開発」という術語はほぼ日本特有のもので、英語では「宇宙探査(space exploration)」とするのが通例である。
 しかし、スプートニク以後の宇宙をめぐる冷戦下の東西体制間競争は、単に学術的な関心からの「宇宙探査」という以上に、想定上の戦場を宇宙空間まで拡大するという軍事目的を視野に収めた「宇宙開発」と表現するほうが実態に合っているだろう。
 そうした宇宙開発競争の時代を大きく区分すれば、1957年のスプートニクの成功に始まり、1969年のアメリカによる有人宇宙船による月面着陸の成功という画期を境に、第一期と第二期に分けることができる。
 月面着陸以前の第一期は、ソ連が先行していた。その契機は如上スプートニクの打ち上げ成功であったが、これは「スプートニク計画」と銘打たれたソ連の開発研究政策の成果でもあった。
 この計画の技術的なベースとなったのはR-7と呼ばれるロケットで、これは当初、世界初の大陸間弾道ミサイルとして開発された兵器そのものであった。その開発初期には連行されたドイツ人科学者も関与したが、戦前からソ連の有力なロケット工学者であったセルゲイ・コロリョフが中心的な開発者となった。
 R-7は核弾頭も搭載できるミサイル兵器であると同時に、人工衛星を搭載すれば宇宙ロケットともなる軍民両用の便利な飛翔体であったので、人工衛星スプートニクの打ち上げに利用されたのであった。
 スプートニクの成功に続き、ソ連は有人宇宙飛行の実現に取り組んだ結果、まずは動物を宇宙船に搭乗させる実験を繰り返し、1960年のスプートニク5号で二匹の犬を宇宙へ送り帰還させることに成功した。
 これを受け、1961年には空軍士官ユーリー・ガガーリンが搭乗する宇宙船ボストーク1号の打ち上げと世界初の有人宇宙飛行を無事に成功させた。さらに、1965年には複数人が搭乗可能なボスホート2号の乗員が初の宇宙遊泳を成功させた。
 この時期のソ連はその全史の中でも最盛期に当たり、安定した体制の下、政治と科学を一体化し、国家総力を挙げた科学研究開発を推進した結果が宇宙開発での立て続く成功を導いたと言える。一方で、そうした国費の偏重的投入はソ連の衰退の始まりでもあった。

宇宙開発競争の展開②
 一方、宇宙開発競争第一期のアメリカは精彩を欠いていた。実際、1950年代半ばにはアメリカでも人工衛星打ち上げ計画が始動していたが、予算の問題からいったんは凍結され、進捗していなかった。
 実はそうした経緯を知ったソ連のコロリョフが自国の人工衛星打ち上げ計画を強く説いたことがスプートニクの成功につながったのであった。アメリカ側もソ連のスプートニクの成功に刺激され、その直後、1957年12月に初の人工衛星打ち上げを企画したが、無残な失敗に終わった。
「ヴァンガード計画」と銘打たれたアメリカによる一連の人工衛星打ち上げは以後、失敗の連続であり、この分野におけるアメリカの技術的な遅れが露呈された。冷戦時代における体制間競争でアメリカが最も屈辱を味わったのが、この時期である。
 「ヴァンガード計画」は海軍主導であったが、1958年2月には陸軍主導でエクスプローラー1号の打ち上げに成功したものの、スプートニクの二番煎じの観は否めなかった。焦慮したアメリカは1958年7月、宇宙開発研究の拠点として国家航空宇宙機構(NASA)を立ち上げた。
 この組織は連邦政府直轄機関であり、軍とは切り離された文民型の研究開発機関とした点でも画期的であり、兵器開発も担当する国営企業体である設計局(OKB)主導かつ徹底した秘密主義に基づいていたソ連の研究開発態勢とは好対照を成した。
 NASAにとって最初の重要な課題はソ連に先駆けて有人宇宙飛行を成功させることであり、そのためにいくつかの計画が立ち上がったが、結局のところ、ソ連に先を越される結果に終わった。
 そうした中、NASAは「アポロ計画」と銘打って、月への有人飛行を実現させるという壮大な計画に進んだ。これは当初SFまがいの遠大な企画とみなされ、進捗しなかったが、1961年に時のケネディ大統領が議会演説で「今後十年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という目標を明示したことで、にわかに現実の国策として定着する。
 こうした政治の後押しを受けつつ、1967年の記念すべきアポロ1号の火災死亡事故という犠牲を乗り越え、1969年11月、アポロ11号が有人での月面着陸を成功させた。ケネディー演説の目標十年より早い成功である。
 この成功は宇宙開発競争の主導権をアメリカが奪う契機となり、以後、国力の衰退とともに宇宙開発でも次第に精彩を欠いていくソ連を後目に、アメリカ主導による宇宙開発競争第二期が始まる。

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近代科学の政治経済史(連載第53回)

2023-03-15 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

冷戦と宇宙探査前夜
 観念的な宇宙探求が無人/有人での宇宙飛行を通じた現実的な宇宙探査に進展するのは、第二次大戦後を経た1950年代後半期のことである。その点、前回見たように、ロケット技術で先行していたナチスドイツは宇宙探査に進む前に敗戦・崩壊したため、ドイツはこの分野では脱落した。
 代わって、ナチスの科学者を引き抜いた戦勝国側、中でも米・ソ・仏三国がナチスのロケット技術を再利用する形で、宇宙探査に乗り出していく。これが後の宇宙開発競争時代の序章となる。
 その点、アメリカは要領の良いことに、大戦末期からドイツ人の優秀な科学者を大量に引き抜くペーパークリック作戦なるヘッドハント作戦を軍主導で実施し、戦後まで継続した。
 1600人以上の科学者を引き抜いたこの作戦を通じてフォン・ブラウンを中心としたドイツ人ロケット工学者の引き抜きをソ連に先んじて成功させたことは、後に国家航空宇宙機構(NASA)を立ち上げるアメリカが宇宙探査で世界をリードする上での知的な原始資本となった。
 アメリカがとりわけロケット工学分野でのヘッドハントに執心したのは、航空工学分野ではすでに世界をリードしていたアメリカも宇宙工学分野では未開拓の段階にあったことが意識されていたためと考えられる。
 他方、ソ連はフォン・ブラウンらの獲得では出し抜かれたものの、ある程度のドイツ人技術者を連行して協力させた。ただし、元来ソ連にはツィオルコフスキーの先駆的なロケット理論が存在し、これをベースとする独自の研究開発に進むが、そこには航空戦力でアメリカに出遅れていたソ連が宇宙空間に到達する新型兵器で対抗しようとする戦略的な意図も秘められていた。
 一方、フランスもV2ロケットに強い関心を示し、ドイツ人技術者を招いて同型ロケットの改良に取り組んだが、軍事色が強く、フランスが宇宙探査を本格化させるのは米ソに対して一歩遅れ、1960年代以降のことである。
 このように、宇宙探査にはその前夜から新型兵器の開発という軍需目的と学術目的とが混淆・交錯していたのであり、東西冷戦の始まりという大状況下で軍事・学術を含む東西の総力戦的な体制間競争が展開されていく中、宇宙探査が主要な競争分野に入ってきたことを示していた。

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近代科学の政治経済史(連載第52回)

2023-03-10 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

ドイツ宇宙旅行協会とロケット開発
 以前の稿でも触れたように、ナチスドイツはロケット開発の先駆者となったが、その契機は前回も見た宇宙旅行協会(以下、協会)の設立であった。1927年設立当初の協会は民間のロケット愛好家の任意団体にすぎなかったが、ここには後にV2ロケット開発に携わるフォン・ブラウンら有力な科学者も参加していた。
 そうしたことから、協会は単なる愛好者団体を超えて、民間でのロケット開発プロジェクトに進むことになったが、資金不足は否定のしようがなかったところ、1930年にドイツ軍の協力を仰ぐことに成功したことが転機となる。その結果、弾薬集積所跡地を借り、ロケット発射試験場を開設することができた。
 このベルリンロケット発射場は史上初のロケット発射場となり、1933年にかけて液体燃料ロケットの発射実験が多数回にわたり行われ、最大で1000メートル以上の打ち上げに成功した。
 この間、ドイツの軍備制限を規定していたベルサイユ条約がロケット開発の制限を想定していなかった抜け穴に着眼した陸軍兵器局が協会にロケット打ち上げ契約を持ちかけたが、これを巡る内部対立から協会は分裂した。
 結局、1933年に協会は事実上活動停止状態となったが、軍との協力に積極的だったフォン・ブラウンが陸軍兵器局に引き抜かれたことで、ドイツのロケット開発が陸軍主導で行われる契機となる。
 時はちょうどナチスの政権掌握と一致しており、ロケット開発は軍備増強を推進するナチスの政策にもマッチしていた。フォン・ブラウンは自身もナチ党員となり、1937年以降はペーネミュンデ陸軍兵器実験場の技術責任者としてドイツの新鋭兵器開発をリードした。
 ペーネミュンデ陸軍兵器実験場はロケット開発に特化した施設ではないが、航空兵器開発を専門とし、中でも最大プロジェクトであったロケット開発にはフォン・ブラウン他、多くの協会員が参画した。
 その結果完成されたのが、世界初の液体燃料ミサイルであるV2ロケットである。1940年には開発計画を察知したイギリス軍によってペーネミュンデ陸軍兵器実験場が爆撃を受けるという妨害も入ったが、1942年に三度目の発射実験で史上初めて宇宙空間まで到達する飛翔体となった。
 このように、ドイツのロケット開発は民間主導で始まり、ナチスの台頭を経て軍需分野に移行して、第二次大戦ではロケットが新型兵器として実戦投入されたのであった。これは厳密な意味での宇宙開発からは逸れたロケットの活用であったが、ナチスが存続していれば、先駆的な宇宙開発へ進んだ可能性はあったであろう。
 戦後、敗戦国ドイツのロケット技術に目を付けたアメリカとソ連、さらにはフランスもドイツ人科学者を免責して引き抜き、それぞれのロケット開発に協力させたことが戦後の宇宙開発競争の引き金ともなったのは皮肉である。

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近代科学の政治経済史(連載第51回)

2023-03-06 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙飛行の空想と理論
 ケプラー、ニュートンを経て天文学は天体観測を中心とした天文学から物理学の一環としての天体物理学へと昇華されたが、そこから宇宙空間に無人もしくは有人の飛翔体を飛ばして宇宙を探査する段階へ進むにはなお歳月を要した。
 最初の手がかりとして、天体望遠鏡の発達がある。ここでもケプラーとニュートンの寄与は大きく、ケプラーがそれ以前の低倍率のガリレオ式望遠鏡を革新する望遠鏡の原理を発明すれば、ニュートンは鏡を組み合わせた反射式望遠鏡を発明し、天体観測の精度を向上させた。
 こうして高倍率の望遠鏡で天体をより視覚的に観測できるようになると、宇宙空間への実地探査という着想も生まれる。しかし、飛行機さえも空想の域を出なかった時代、宇宙飛行は科学ではなく、文学的空想であった。
 その点、17世紀フランスの作家シラノ・ド・ベルジュラックは『月世界旅行記』でロケットによる月面探査という空想を文学として描き、サイエンスフィクションの先駆けを成したが、19世紀には同じくフランスのSF作家ジュール・ヴェルヌが『月世界旅行』で同様のモチーフをより疑似科学的に描いた。
 1902年にはヴェルヌ作品にも触発され、月旅行を映像化したサイレント映画としてフランスのジョルジュ・メリエス監督による『月世界旅行』が公開され、話題作となり、宇宙飛行がより視覚的なイメージでとらえられる契機となった。
 しかし、科学的な宇宙飛行理論に関しては、帝政ロシアの物理学者コンスタンチン・ツィオルコフスキーが1897年にロケット推進原理に関する数理的な公式(ツィオルコフスキーの公式)を発表したのが嚆矢である。
 ツィオルコフスキーは引き続いて、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型ロケットの設計や宇宙ステーションの構想などを科学的な予想理論の形で提起するが、そのあまりに先駆的過ぎた理論は海外ではもちろん、ロシア国内ですらソヴィエト時代まで顧みられることはなかった。
 他方、有人飛行機が発明されたアメリカでは、1919年に工学者・発明家ロバート・ゴダードがツィオルコフスキーとは別個に、液体燃料ロケットによる月旅行の可能性を科学的に構想した。彼は理論予想にとどまらず、1926年には実際に初の液体燃料ロケットを発明し、その打ち上げに成功した。
 もっとも、これは飛翔時間約2.5秒、飛翔距離約56メートル、高さにして約12.6メートル程度という完全にモデル実験的な「打ち上げ」であったが、液体燃料ロケットを飛翔させることが原理的に可能であることを初めて示したのである。
 一方、ドイツでも工学者ヘルマン・オーベルトが1923年に論文『惑星間宇宙へのロケット』を発表したことを機に、1927年には様々な人士を擁するドイツ宇宙旅行協会が設立され、ドイツがロケット技術で先行する契機となった。

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近代科学の政治経済史(連載第50回)

2023-03-03 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ

天体の観測に始まる宇宙探求は近代科学が創始される以前から主に占星術と結びついて発展したが、同時に近代科学の出発点とも言えるものである。実際、近代科学への道を拓いた画期的な理論の一つである地動説は太陽の観測に由来する理論であるし、地動説を提唱したコペルニクスやガリレイをはじめ、近代科学黎明期の科学者の多くは天文学者でもあった。当初は純粋に宇宙への科学的関心に根ざした宇宙探求も、20世紀後半以降は軍事目的からの国家間競争を助長する宇宙開発へと転化していき、さらに21世紀になると、宇宙旅行や宇宙間移住まで視野に収めた商業目的の宇宙開発も立ち現れる。かくして、宇宙科学は政治経済が絡む生臭い領域となってきている。


科学的宇宙探求の始まり
 広い意味での宇宙科学の中でも最も歴史の古い分野は宇宙空間に存在する天体の観測を中心とする天文学であり、それは自然科学全体の中でも最も古い学術分野に属している。エジプトをはじめ、古代文明圏のほとんどすべてが何らかの形で天文学を発達させている。
 しかし、それらの古代天文学はいまだ科学の体を成しておらず、天文学と占星術の区別はほぼなかった。しかも、占星術はしばしば権力者が政策決定の基準とすることすらあったため、前近代的な占星術はそれ自体政治性を帯びていた。
 占星術を離れた科学的な天文学が現れるのは、ようやく西欧ルネサンス時代のことである。コペルニクスやガリレイはそうした科学的天文学の始祖でもあるが、惑星の運動全般をより理論的に法則化したのはヨハネス・ケプラーであった。
 彼が発見した楕円軌道の法則・面積速度一定の法則・調和の法則の三法則に整理される「ケプラーの法則」は地動説を数学的にも証明する法則として現在まで確立されており、おそらく史上最初の科学的な法則理論でもあった。
 彼の理論の画期性は、コペルニクスやガリレイでさえ円運動と誤認していた惑星の運動軌道について、正しくは楕円運動と定式化した第一法則にある。とはいえ、ケプラーも神秘的思想と絶縁していたわけではなく、ピタゴラス学派や新プラトン主義の哲学を信奉していた。
 ケプラーの立てた法則をより物理学的に純化し科学理論として凝縮させたのがアイザック・ニュートンであり、彼の恒久的な業績である万有引力の法則は、ケプラーの法則が成立する根拠を万有引力として説明し直したものとも言える。
 ニュートン以前、天体を含む物体の運動は何らかの流体や媒質の作用によって媒介されるとするルネ・デカルトの渦動説がとりわけ大陸ヨーロッパで有力であったため、ニュートンの万有引力論が当初「オカルト的」という批判を浴びることになったのは皮肉なことである。
 もっとも、ニュートン自身、オカルト的な研究も並行的に行っており、万有引力についてもその根本原因については何らかの非物質や神の介在を思念していたと言われ、ニュートンでさえ、純粋の科学的思考によっていたわけではなかった。
 とはいえ、主としてケプラーとニュートンによって拓かれた科学的天文学はその後の宇宙科学の理論的な土台として恒久的な意義を持つことになるが、それは政治過程に組み込まれていた古代占星術とは異なり、政治から切り離された純粋科学としてスタートした。

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