ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

ソ連邦解体20周年

2011-12-26 | 時評

世界を二分した社会主義陣営の盟主・ソ連邦が解体して今日でちょうど20周年。

思えば、10周年の2001年には「資本主義の大勝利」の高揚感がまだ漂っていた。この年、米国ではブッシュ政権、日本では小泉政権というともに新自由主義のイデオロギーを携えた二つの政権が発足している。

一方、その前年、ソ連の鎧兜を脱ぎ捨て、再び資本主義の道を歩み始めたロシアでは、国家の強い指導の下に市場経済を安定軌道に乗せるべく、プーチン政権が発足していた。

それからさらに10年を経て、20周年となった今年、いくつかの興味深い新しい現象が観察された。

一つは、アメリカで「反格差デモ」のうねりが起きたこと。従来、アメリカ人は「格差」を等閑視していたはずだった。「格差」は個人の努力差であり、自由な競争の結果であり、旧ソ連が欠いていた社会の活力の源泉であるはずだった。

それがどうだろう。今や、多くのアメリカ人がそういう政治宣伝のまやかしに目覚め始めたのだ。アメリカでは経験したことのない社会民主主義への憧憬が生じている。それが街頭デモというアメリカ的形を取って噴出したのが今年であった。

一方のロシア。こちらでは、年末の下院選挙で大統領復帰を規定事実とするプーチン首相率いる巨大与党が後退し、代わって落ち目だったソ連時代の独裁政党・共産党が100に迫る議席を回復した。

社会主義と決別して豊かになったと宣伝されてきたロシアであるが、ここでも資本主義的格差と社会保障制度の劣化というおなじみの現象が早くも発現し始め、古い社会主義への郷愁が生じている。

さて、足元の日本である。こちらでは、大阪という商都の地方選挙で、ファッショ的な性格を濃厚に伴った過激な新自由主義勢力が躍進した。小泉新自由主義政権下で生じた社会のひずみ・歪みを正すどころか、当地ではなお新自由主義への固執が続いていることが明らかとなった出来事であった。

こうしてソ連邦解体20周年の記念すべき今年、G8とやらに名を連ねる米・露・日三国で三者三様の政治現象が見られたわけだが、共通しているのは、いずれも資本主義への本質的な懐疑・反省はまだ見られないということである。

新自由主義第二幕を夢見ているかに見える日本はもちろん、社会民主主義への憧憬や社会主義への郷愁が起きている米・露にあっても、「資本主義以外に道なし」というソ連邦解体後のイデオロギー的呪縛―これをソ連邦が解体した1991年にちなんで「91年の呪縛」と呼びたい―が依然解けていない。

しかし、世界が大不況と財政破綻危機を立て続けに経験し、自称先進諸国でも失業・貧困が定在化してきた今、ここで一度、資本主義を根本から問い直すべき好機である。この問いを考えるに当たって、特別に深遠な哲学を必要とするわけではない。さしあたり、次のように問うてみればよい。

一般個人であれ、法人であれ、はたまた国家・自治体であれ、すべての生活主体が頭金としての資本=キャピタルを持たなければ生活が成り立たないというカネに始まりカネに終わる経済システム=キャピタリズムが本当に唯一無二の合理的な制度なのだろうか?

この問いは、世界の主要資本主義諸国にとって、これから21世紀最初の四半世紀が終わる2025年までの大きな宿題である。

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良心的裁判役拒否(連載第16回)

2011-12-23 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第8章 合法的に拒否する方法(続き)

(3)心裡留保による辞退 
 
前回見た「精神上の重大な不利益」による辞退を下手に申し立てると、内心事情を詮索されて、それこそ「精神上の重大な不利益」をこうむりかねないという皮肉な事態を避けたければ、良心的拒否であることを内心に隠して(=心裡留保)、法律上認められた通常の辞退を申し立てる方法があります。
 このような方法は一見してフェアーでないようにも見えますが、辞退を申し立てるに際しての内心の動機は何でもよいので、完全に合法的な方法です。
 辞退の制度についてはすでに理論編でも先取り的に概要をお示ししましたが、ここではより細かく整理します。まず、もう一度辞退の制度をおさらいすると、辞退には(A)無理由辞退と(B)理由付き辞退の二種がありました。以下では、この分類に従って各々どのような場合が含まれるのかをまとめておきます。

(A)無理由辞退
 〈a〉70歳以上の者
 〈b〉学校教育法上の学校の学生・生徒(常時通学を要する課程のみ)
 〈c〉地方公共団体の議員(会期中のみ)
 〈d〉裁判員経験者等
(B)理由付き辞退
 〈a〉健康・体調によるもの
   a1 重い疾病または傷病
   a2 妊娠中または出産直後
 〈b〉介護・養育・付添い等の必要によるもの
   b1 同居の親族の介護または養育の必要
   b2 別居の親族や同居人の介護または養育の必要 
   b3 配偶者、直系親族、兄弟姉妹、同居人が重い疾病または傷害の治療を受ける場合の入退院に付き添う必要
   b4 妻や子が出産する場合、入退院に付き添ったり、出産に立ち会ったりする必要
 〈c〉重要な用務によるもの
   c1 自ら処理しなければ事業に著しい損害が生ずるおそれのある重要な用務
   c2 父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務
 〈d〉不便・不利益によるもの
   d1 住所・居所が裁判所の管轄区域外の遠隔地で出頭が困難
   d2 裁判員の職務を行うこと等により、自己または第三者に重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由

 理論編でも述べたように、(A)の無理由辞退は一番簡単なので、該当者はこれを申し立てればよいわけですが、(B)の理由付き辞退は各理由の存在を申立者自身が証明する必要があります。
 立法者としては案外親切に細かな事情を配慮したつもりかもしれませんが、かえって申立者は家庭内事情まで裁判所に事細かく説明させられ、場合によっては医師の診断書など各種証明書の提出も求められることもあるでしょう。
 なお、d2は(1)で見た「精神上の重大な不利益」による辞退を含む政令条項に定められていますが、それ以外に「身体上の重大な不利益」と「経済上の重大な不利益」による辞退も認められています。
 これも漠然としていてわかりにくいのですが、a1のような重い疾病ではないものの、例えば人前で緊張すると腹痛を起こすなど、緊張性の身体症状が出やすいような場合が想定されそうです。
 一方、「経済上の不利益」もなかなか見当がつきにくいのですが、c1の不可代替的用務とまで言えないものの、自らが裁判役に就いていたら、著しい収入減が避けられないとか、第三者である取引先に重大な損失を及ぼしかねないといった場合が想定されているのでしょうか。
 いずれにせよ、こうした心裡留保の方法による場合は、内心事情の詮索は避けられる反面、所定の理由の存在を証明するためには、自身や第三者のプライバシーまで開示せざるを得ないことは覚悟する必要があります。

(4)「排除」を仕向ける方法
 
前回までに見てきた「辞退」という方法によっては裁判役を拒否し切れない事情がある場合に残された一種のウルトラ手法は、意図的に「排除」を仕向ける方法です。
 第2章のタイトルにも冠したように、裁判員制度は「強制と排除」の制度ですから、「排除」の規定も備えていたのでした。「排除」は裁判員を積極的にやってみたいと思う人にとっては由々しきことでしょうが、拒否したい者にとっては当局側から肘鉄を食らうことは好都合な面もあるわけです。
 中でも有用なのは、例の「不公平な裁判をするおそれがある」者を不適格者として排除する規定です。良心的拒否者は「人を裁くなかれ」という信条を持つのですから、裁判員選任手続の際、「私が裁判員になったら、どんな場合でも無罪の意見を述べます。」と宣言するとよいでしょう。
 「どんな場合でも無罪の意見を述べる」とは、要するに裁判員として公平な立場に立たないと宣言するに等しいことですから、間違いなく「不公平な裁判をするおそれがある」と認めてもらえるでしょう。しかも、この理由で排除されても、それ以上何らの制裁も科せられませんから無傷で済みます。
 ほとんど考えられないことではありますが、そのように宣言しても万が一裁判官が等閑に付してしまった場合は、どんな場合でも被告人を無罪にしてしまう裁判員の存在を許すことのできない検察側から敢然と忌避の申し立てがなされることは確実ですから、結果としてやはり排除されます。
 こうした方法はいささか脱法的だとお感じの向きもあるかもしれませんが、これも法律の規定に準拠した合法性の範囲内ですから、自信を持ってよいと思います。ただし、若干の「演技」が必要になるかもしれませんが・・・。

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良心的裁判役拒否(連載第15回)

2011-12-17 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第8章 合法的に拒否する方法

(1)良心的拒否の「拒否」
 裁判員制度の法案概要が政府の司法制度改革推進本部の検討会(前出)から示された際、当時の与党・自由民主党からも異論が起き、同党が政府に対し、思想信条を理由とする辞退を認めるよう求める事態となりました。
 これを受けて、所管官庁の法務省は法律でなく内閣の政令で思想信条を理由とする辞退を規定することを検討したとされますが、結局見送られ、後で見るような漠然とした「重大な不利益」を理由とする辞退の規定を置くことでお茶を濁しました。
 見送りの理由として「辞退を認めるかどうかの線引きが難しい」などと弁解されていましたが、むしろ政府当局は初めから良心的拒否を認めるつもりがなかったものと見るのが合理的でしょう。良心的拒否が「拒否」されたのです。
 ここには、戦後憲法の最大成果である思想・良心の自由に対する統治権力の無理解がさらけ出されているように見えます。
 ただ、当時の与党・自民党はせっかく正当な問題提起をしておきながら、なぜ最後までそれを貫かなかったのでしょうか。やや勘ぐってみると、当時いわゆる有事法制の整備が同時並行的に鋭意進められていたことと無関係ではないかもしれません。
 有事法制は兵役制度とは違いますが、有事―有り体に言えば「戦時」―には一般国民にも自衛隊の活動に協力する義務を負わせる制度です。やはり小泉政権下で成立した有事法制上、一般国民に課せられる協力義務は任意性が担保された罰則なしの「努力義務」の形をとることで、辛うじて憲法違反性を免れていますが、良心的拒否はここでも規定されていませんから、任意の「努力義務」といっても、実際上はなかなか「協力」を拒否し切れないように仕組まれているのです。
 そういう企てと平行的に進められていた裁判員制度において、正面から良心的拒否条項が設けられると、そのことは反射的に有事法制のほうにも響いてきて、そちらでも良心的拒否条項を設けるよう求める声が強まってくることは確実です。そうした事態を避けたかった与党・自民党は裁判員制度上の良心的拒否の問題でも強く押していかなかったのではないか━。
 これは証明されていないことですが、先の「努力義務」を規定した有事法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)は裁判員法のおよそ1ヶ月後に成立しており、如上のような推測も成り立つほど微妙な時期であったのです。
 それにしても、裁判員法と有事法が同時成立した2004年当時は、戦前宗教弾圧を受けた経験を持つ宗派団体を支持基盤とする公明党が連立政権に加わり、また同じく戦前は徹底した思想弾圧対象であった日本共産党も野党として現在より多くの議席を保持していたのに、良心的拒否の問題が国会内でも強力に提起されなかったのは不可解でした。それらの与野党もこぞって「日本型司法参加」のPRに呪縛されていたのでしょうか。
 ともあれ、裁判員法には明示的な良心的拒否条項は置かれなかったのですから、正面から合法的な形で良心的拒否を実践することはできないわけです。

(2)「精神上の重大な不利益」による辞退
 政府当局が良心的拒否条項の創設を見送るのと引き換えに設けたのは、「裁判員の職務を行い、又は裁判員候補者として・・・・裁判員等選任手続の期日に出頭することにより、自己又は第三者に身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」場合に裁判員任務(選任手続への出頭を含む)を辞退できるとする政令条項でした。
 国会で討議・制定する法律でなく、内閣が国会の関与なしにいつでも改廃できる政令で定めるという非民主性もさりながら、一般国民が文言を一読しても具体的にどんな場合が想定されているのか予測できないという点からも、人を食った非民主的な規定だと言えます。
 とはいえ、正面から良心的拒否条項が設けられなかった裁判員法上、さしあたって良心的拒否の仮託的根拠となりそうな規定は上記政令条項しかないのも事実ですから、何とかこれを使うことを検討してみましょう。その場合、注目されるのは「 精神上の重大な不利益」という部分です。
 それにしても漠然としていて戸惑いますが、「人を裁くなかれ」という信条を持つ人が裁判員の職務を行うことや裁判員候補者として選任手続に「出頭」させられることは精神的に苦痛であり、「精神上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」と認めてもらいたいものです。
 ただ、「不利益」という語は利益に関わる言葉であり、単に苦痛であるというだけでは内面的な葛藤にすぎず、利害に関わらないので「不利益」とは言えないのではないかという解釈も成り立ちます。加えて、そこに「重大な」とか「相当な(理由)」といった限定句もかぶさるのですから、厳格に解釈すると、例えば自分が所属する団体等がメンバーに裁判員に就くことを禁じており、それに違反すれば除名ないし破門のような不利益処分を科せられるおそれがあるというぐらいでなければ重大性と相当性の要件を満たさないのではないかとも言えそうです。
 この点、実施初年度(平成21年)の最高裁のデータによると、上記政令条項による辞退が認められたのは473人で、全辞退者の約7パーセントにすぎないことがこうした厳格解釈の可能性を示していますが、翌年(平成22年)のデータでは、一挙に1552人、割合にして27パーセントに急増しており、やや緩やかな運用に変わったことが窺えます。
 とにかく意図的に文言をあいまいにして裁判所の裁量を大きく取ろうとしている規定ですから、初めに述べたように、予測可能性に欠けるということがこの規定の問題性です。
 その結果、この規定に基づいて辞退を申し立てると、裁判所は該当性を判断するために申立者の思想や信仰の内容を相当踏み込んで問いただす必要があります。要するに、裁判官の質問攻めにあうということ。
 それに対して申立者が回答を拒んだり、思わず嘘をついてしまったりすると、最大で50万円または30万円という重い過料の制裁を科せられることになります(詳しくは裁判員法110条・111条参照)。 
 このようにして裁判員法は良心的拒否を正面から認めないばかりか、良心的拒否者の内心事情を重い制裁の下に探索しようとすらするわけです。

注 最高裁データは、精神上の不利益か経済上の不利益かの内訳を示さないので、良心的拒否型の辞退が認められた者の実数や割合は不明である。なお、令和4年度データによれば、上記条項による辞退が認められたのは889人である。

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「財務政権」と民主主義

2011-12-11 | 時評

欧州財政危機に際して、エコノミストを首班とする財政問題に特化した政権が、ギリシャやイタリアで発足している。

こうした政権の特徴は議会の外側で財政再建のための「痛みを伴う」施策―増税+社会保障・福祉削減―に集中するところにある。イタリアでは全閣僚が公選政治家ではない内閣が現れた。

経済危機に対処する「財務政権」は、政治的危機に際してしばしば出現する「軍事政権」とは異なり、文民政権の枠内におさまってはいるものの、緊急性を口実に民主主義を飛び越えようとする点では「軍事政権」と共通した要素を持つ。

今日の財務政権が依拠しているのは、民衆ではなく、市場であることは明らかである。そういう意味でも、これは通常の政権の枠内で財政再建に取り組むのとは異質的なレジームである。

現在世界が当面している晩期資本主義の段階では、こうした市場に基盤を持つ財務政権が新たなモードとなるかもしれない。幸い、日本では憲法上、総理大臣をはじめ、内閣閣僚の過半数を国会議員から任命しなければならないため、純粋の財務政権の存立可能性はない。

とはいえ、9月に成立した野田内閣は、もともと政権与党内で「本命」視されていなかった前財務大臣の首相昇格という形で発足しており、政権の後ろ盾が財務省であることが公然の秘密となっている。財務政権ならぬ「財務省政権」。そのために、すでに消費増税をライフワークと決めたかに見える野田内閣には、一種財務政権的性格が見られるのである。

すでに一代前の管内閣で現れていたことであるが、選挙公約を事実上破棄する「税と社会保障の一体改革」なるスローガン―これが野田内閣で「社会保障と税の一体改革」にひっくり返されてもその内実は変わらない―も、そこに透かし見える真の狙いは、「増税と社会保障削減の一体改悪」ではないか。

日本のように財務省に権力が集中しがちな行政国家構造では、通常の政権の枠組みを利用しつつ、一種の財務政権が作られることもあり得るのだ。注視が必要であろう。

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良心的裁判役拒否(連載第14回)

2011-12-09 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎(続き)

(3)選択的拒否と全般的拒否
 良心的拒否が正面から認められるようになると、実際に拒否が認められる範囲はどこまでかという問題が生じてきます。とりわけ、ある特定の場合にだけ義務の遂行を拒否する「選択的拒否」の可否が問題となります。
 例えば、兵役の例では、侵略戦争への従軍は拒否する(他の戦争ならこの限りでない)とか、裁判役で言えば、今回与えられた事件での裁判員任務は拒否する(別事件ならこの限りでない)といったことが許されるかどうかです。
 このように特定の場合にだけ義務の遂行を拒否するという態度は、およそあらゆる場合に義務の遂行を拒否する「全般的拒否」よりも現実的で穏健なものと言えなくありません。そこで、このような選択的拒否をこそ保障すべきではないかとの考え方もあり得るところです。
 ところが、事はそう簡単ではないようです。このような選択的拒否で問題なのは、選択の基準が明確に立てられないことです。例えば、イラク戦争は侵略的だが、アフガニスタン戦争はそうではないと言い切れるでしょうか。こういう議論をしていると終わらなくなってしまう恐れもあります。
 まして裁判役の場合、A事件と別のB事件との違いをどこに見出したらよいでしょうか。一応、死刑相当事件とか冤罪事件といった線引きも考えられなくはありませんが、死刑相当か、また冤罪かといったことは、審理してみないとわからないことであって、事前にはっきりと識別できるものではありません。
 もっとも、死刑相当事件の場合、最高刑が死刑に係る事件かどうかで一応区別できますが、最高刑が死刑に係る事件だからといって死刑以外に選択肢が全くないわけではない以上(例外中の例外として、刑法81条の外患誘致罪は法定刑が死刑のみ)、この区別も相対的なものにすぎません。
 となると、選択的拒否を認めることは、拒否者による恣意的な対象選択を許す結果となりかねないため、むしろおよそ兵役なり裁判役なりをすべて拒否するという「全般的拒否」だけが認められるということになります。
 実際上、このような全般的拒否者であって初めて、その人の信念なり信仰なりが法的保護に値するほど強いものであることが確証され、その信条に反する義務の遂行を強制することの違法性も露わになると言えるでしょう。

(4)人を裁くなかれ
 良心に従い裁判役を全般的に拒否するというときに判断の規準となる規範は、「人を裁くなかれ」というものでしょう。
 この規範はキリスト者にとってはなじみの深いものと思われます。というのも、イエスの教えの中心はまさに「人を裁くなかれ」にあったと言って過言ではないからです。
 当時のユダヤ教では石打ちの刑(死刑)に相当する大罪とされた姦淫の罪を犯した女が連れてこられたとき、イエスが「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と呼びかけたところ、誰も投げる者なく、イエスは女に二度と罪を犯さないよう諭して帰らせたという『新約聖書』のエピソードはよく知られています。
 こうしたイエスの教えは「人はみな罪人である」といういわゆる原罪論と、それを基礎とした隣人愛の思想に由来するものでした。従って、キリスト者であれば、この教えに従って、裁判役を全般的に拒否することは困難ではないでしょう。
 しかし、「人を裁くなかれ」という規範は決してキリスト者だけの専売特許ではなく、非宗教的な信条としても十分に成り立つものと思われます。「原罪」という考え方に立つかどうかを問わず、隣人に対して法壇の高みから人を裁く資格があるほど崇高な人間は存在するのでしょうか。
 たしかに自分であれば絶対に犯すことはないだろうと思われるような犯罪を犯す人は存在するわけですが、しかしもし自分がその人と同じ境遇にいて、同じ状況に立たされたら絶対に同じことをしなかったと断言できるかどうか・・・。
 それを考えると、人を裁く資格が自分にあると確信できる人はほとんど存在しないのではないかとさえ思えてきます。このことは「人を裁く」ことを仕事としている職業裁判官についても言えることですから、この議論を延長していくと、司法制度ないし刑罰制度の存立可能性如何という問題に到達しますが、ここでは深入りしません。
 ともあれ、裁判員制度では「裁く」という要素が一段と強く現れるのは、理論編でも見たように、この制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに立って重大犯罪に厳罰で対応するというコンセプトを強く帯びているからです。
 元来、事実認定・法令の適用・量刑と三段階ある刑事裁判作用のうち、刑罰の種類と量を決める量刑には「裁く」という要素が濃厚なのですが、裁判員制度の圧倒的な重点は、重大犯罪において一般国民が「健在な社会常識」なるものをもとに刑罰を下すという量刑の点にあるのですから、強烈に「裁く」制度なのです。
 これに対して、陪審制における陪審員の役割は基本的に否認事件での事実認定、それも細かな認定より有罪・無罪の結論を出すことにありますから、「裁く」という要素はゼロではないとしても、裁判員制度に比べればはるかに希薄であることはたしかであり、「人を裁くなかれ」という信条とも比較的両立しやすいと思われるのです。

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良心的裁判役拒否(連載第13回)

2011-12-03 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第7章 良心的拒否の基礎(続き)

(2)良心的拒否の法的根拠
 ソローの時代には、まだアメリカでも良心的拒否という実践は認知されていなかったため、「脱税」をした彼は逮捕されました。しかし、その後、国民国家の整備・強化に伴い、国家が国民に課す義務と個人の信条とが衝突する場面は増えていきます。兵役制度はその代表的なものでした。そこで、良心的拒否を法的に認知しようという動きも生じてきます。今日、徴兵制度を残す民主的な諸国の多くで導入されている良心的兵役拒否条項はその表われです。
 この点、徴兵制度を持つドイツでは、憲法で「何人も、その良心に反して、武器をもってする戦争服務を強制されない。」(4条3項)と定め、良心的兵役拒否を憲法上の基本権として保障するに至っています。
 こうした限りで、良心的拒否はれっきとした法的根拠を持つようになってきたわけですが、良心的拒否のより一般的な法的根拠は思想良心の自由を保障する憲法条項です。
 ドイツ憲法上、その良心的兵役拒否を保障するのと同じ条文の第1項に「信仰、良心の自由・・・・は、これを侵してはならない。」と定められているのは、そのことを端的に示しています。徴兵制度が廃止されたため、良心的兵役拒否が問題とならない日本でも、憲法19条に「思想及び良心は、これを侵してはならない。」という簡明な規定が置かれています。これは兵役の義務を定めていた明治憲法には全く見られなかった、戦後憲法の最大成果の一つです。
 ただ、これだけの規定では法律上の義務の遂行を拒否するという実践の直接的な根拠としては弱く、ただ単に権力側からする攻撃的な思想弾圧のようなものを受けないことの保障にすぎないという矮小的な解釈も成り立ってしまう恐れもあります。
 そこで、こうした場合に登場願うのが、国際人権規約です。正式には「市民的及び政治的権利に関する国際規約」と題する国際条約の第18条は、その第1項で「すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。」と定めるのに続き、第2項で「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」と定めています。
 この規定は兵役など特定の役務に限らず、また法律上の強制に限らず、事実上の強制をも含むと解し得る広い文言の下に、自己の信条に明確に反するばかりか、反するおそれのある一切の強制に従わない権利を保障するもので、まさに良心的拒否の一般的な根拠にふさわしい条項となっています。
 日本はこの条項を含む人権規約を1979年に批准しており、しかも人権規約は国内法なくして直接に国内でも適用されるため、私どもは人権規約条項を日本国内の裁判所でも活用していくことができる立場にあるわけです。
 こうして、一見して心もとない良心的拒否にも、れっきとした法的根拠があることに自信を持つことができる時代に私どもは生きているのです。
 ところで、良心的拒否が正面から認められる場合に、制度上いわゆる代替的義務が課せられることがあります。例えば、良心的兵役拒否者に対して、福祉施設等での社会奉仕活動を義務づけるようなものが典型的です。
 これは良心的拒否が一定の思想・信仰を持つ者に対する特権となってしまうことを防ぐためのバランス措置としての意味を持ち、ドイツ憲法ではこれについても明文の限定を置く周到ぶりです。
 こうした代替的義務の制度は公平性を確保するための方策として一定の合理性が認められるものの、そうした方策を必ず導入しなけければならないというものではなく、あくまでも政策的な問題です。そして、代替的義務を導入する場合も、その義務の内容がまたしても各自の思想良心の自由を侵害する不正なものであってはならないことはもちろん、拒否の対象となる義務と実質上同種のものであってもなりません。
 この点、ドイツ憲法はこうした代替的義務についても「・・・良心の決定の自由を侵してはならず、かつ軍及び連邦国境警察の部隊と何ら関わらない代役の可能性を与えなければならない。」(12a条2項)と丁寧に定めています。
 この点、良心的裁判役拒否の場合はそもそも代替的義務の制度を導入すべきではないでしょう。なぜなら、このような課役は第1章で見たとおり、それ自体違憲の疑いが強いのであり、百歩譲って合憲だとしても、兵役制度ほど集団的に徴用される制度ではないため、公平性確保の必要性はそう高くないと考えられるからです。

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良心的裁判役拒否(連載第12回)

2011-12-02 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎

(1)良心的拒否とは?
 良心的拒否という実践は、「良心的兵役拒否」という形で、従来圧倒的に軍事的な兵役との関わりでなされてきたため、戦後は兵役制度を廃止した日本ではまだなじみの薄い実践だと思います。
 ちなみに、憲法上「臣民の義務」として兵役が明確に定められていた戦前は、一方で思想良心の自由を認めない全体主義的な国家体制であったため、兵役拒否は理由のいかんを問わず許されませんでした。
 良心的拒否とは、自己の良心に照らして不正と判断される法律上の義務の遂行を拒否する実践ですから、それは思想良心の自由に基礎を置く実践であり、従って思想良心の自由のないところでは全く成り立たない実践です。
 ところで、単なる「拒否」でなく「良心的」と限定するのは、単に面倒だからとか、何となく嫌だからという「回避」の心情ではなしに、法律上課せられる義務の内容を自身の信条に照らして吟味するというプロセスを経て拒否することが求められるからです。
 その際、規準となる自己の信条は宗教的なものである場合と、非宗教的なものである場合とがあります。どちらであるか、あるいはどちらでもあるかは、各自の信条の持ち方によって異なります。信仰者であれば、自己の信ずる宗教の教義を踏まえた信条を持っていることが多いでしょう。
 この点、良心的拒否を立法上認めてきたアメリカでは、合法的な良心的拒否の範囲を宗教的な信条に基づく場合に限るのが伝統であったのですが、その後、非宗教的な信条に基づく場合にまで拡大するようになりました。
 罰則をもって担保されるような法律上の義務の遂行を拒否するほどの信条を持つ人が信仰者に多いことは歴史上も認められる事実ですが、だからといって良心的拒否を信仰者に限って容認するという方法をとると、信仰者に一種の免除特権を認めるに等しくなり、それも問題です。宗教的かどうかを問うことなく、とにかく各自の信条による吟味を経ているなら「良心的拒否」として認めるのが適切だと言えます。
 ただ、「信条」といっても、およそいかなる信条でも許されるというわけではありません。極端な例ではありますが、「自分は殺人を肯定する」という信条に基づいて裁判役を拒否するというようなことは、いくらそれもその人なりの確信であるからとはいえ、法律上の義務の遂行を拒否することを正当化できるような信条とはとうてい評価できません。
 「良心的拒否」であって単なる「確信的拒否」ではないことには意味があるわけです。従って、「良心的拒否」の規準となる「信条」とは、少なくとも他者を侵害するような内容のものではないことが条件となるでしょう。
 この点、良心的拒否の歴史的先駆者として知られてきた19世紀アメリカの作家、H・D・ソロー(1817-1862)は、黒人奴隷制を維持し、西部領土の拡張を狙ってメキシコ侵略戦争を続ける当時のアメリカ政府に抗議するため、6年間にわたり納税を拒否して逮捕されるという大胆な行動を示しました。そのソローが自らの体験をもとに書いたのが、『市民的不服従』という有名な論文です。
 ソローはここで、「良心的拒否」(conscientious objection)でなく、「市民的不服従」(civil disobedience)という語をタイトルに冠していますが、彼の行動の本質は、奴隷制や侵略戦争を不正とみなす彼の信条に基づいて奴隷制や侵略戦争への協力の意味を持つ政府への納税義務の遂行を個人的に拒否したという点で、まさに良心的拒否にほかなりませんから、論文の論旨はここでの議論にも基本的に妥当します。
 その論文の中で、彼は「不正な法律は存在する。われわれはそれに従うことに満足していればいいのか、あるいはそれを改める努力をしながら、成功するまでは従っているのがいいのか、それともすぐに背くのがいいのか」と問うたうえで、次のような規準を提出しています(以上及び以下、富田彬訳によるが、一部訳文変更)。

「もし、その不正が、政府という機械に必然的な摩擦の一部分なら、放っておくがいい。ひょっとしてその摩擦はだんだんすりへらされるだろうから。もしその不正がただそれ自身を動かすためのバネか滑車かかクランクをもっているのなら、その不正を正すことが角を矯めて牛を殺す結果にならないかどうかを考えてみるのもよかろう。しかしその不正が、あなたがたをして他者に対して不正を働かせるような性質のものであるなら、私はそんな法律は破ってしまいなさいと言いたい。あなたがたの生命をその機械の運転を止める反対摩擦としなさい。私の為さねばならないことは、ともかく私の非難する悪事には力を貸さないということである。」

 ここで重要なのは、破るべき法律の持つ「不正」の内容を「あなたがたをして他者に対して不正を働かしめるような性質のもの」と限定していることです。つまり良心的拒否の対象となる「不正な」法律上の義務とは、他者に対して及んでいくような不正を内容とする義務だということになります。
 その例としては、まさに兵役のように武器を取って他者を直接に殺傷するような義務や、ここでの主題である裁判役のように裁判権力を行使して他者の生命・自由を剥奪する命令を下すような義務が挙げられるでしょう。
 ソロー自身が実行した納税拒否はやや微妙ですが、政府への納税を通じて、他者を差別する黒人奴隷制や侵略戦争のような不正に間接的に協力させられるという限りにおいては、やはり一個の不正な義務付けとみなすこともできるでしょう。
 前章(1)で裁判員制度の不正な問題点を整理・列挙した際に、良心的拒否を根拠づける中核的要素は他者たる被告人に及んでいくような不正であると前もって指摘しておいたのも、このことに関わっています。

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