ザ・コミュニスト

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不具者の世界歴史・総目次

2017-07-12 | 〆不具者の世界歴史

本連載は終了致しました。下記総目次より(一部記事以外は系列ブログへのリンク)、全記事をご覧いただけます

 

序文 ページ1

Ⅰ 神秘化の時代

 先史人類と障碍者 ページ2
 神話の中の障碍者 ページ3
 醜女と醜男
 荘子の不具者観 ページ4 
 障碍者王ツタンカーメン ページ5 
 盲目の吟遊詩人たち
 ページ6

Ⅱ 悪魔化の時代

 教義宗教の障碍者観 ページ7
 英国王リチャード3世と身体障碍 ページ8
 宮廷道化師たち ページ9
 精神障碍という観念 ページ10
 心を病む君主たちの苦難 ページ11
 「乱心」の徳川プリンスたち ページ12
 高貴な醜形者たち ページ13

Ⅲ 見世物の時代

 芸人としての障碍者 ページ14
 中近世日本の盲人組織 ページ15
 マリア・アンナと家重 ページ16
 “シャムの双子”バンカー兄弟 ページ17
 “エレファント・マン”ジョゼフ・メリック ページ18

Ⅳ 「保護」の時代

 「障碍者」の概念形成 ページ19
 精神病院の発達 ページ20
 優生学の形成 ページ21
 ナチスの「不適格者」絶滅作戦 ページ22
 「先進」諸国の優生政策 ページ23
 社会主義体制と障碍者 ページ24

Ⅴ 参加の時代

 「保護」から「参加」へ ページ25
 障碍者スターダム ページ26
 精神障碍者と社会参加 ページ27
 遅れる障碍者の政治参加 ページ28
 新旧優生思想の交錯 ページ29
 映像全盛時代と醜形者 ページ30

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不具者の世界歴史(連載最終回)

2017-07-11 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

映像全盛時代と醜形者
 本連載では、「不具者」というそれ自体も決して穏当でない用語に、障碍者とともに、容姿に欠陥を持つ「醜形者」―この用語も現代的規準では差別語とみなされるおそれがあるが、誰にも理解できる穏当な用語に言い換えられないため、あえてこれを使用する―を含めて、世界歴史を俯瞰してきた。
 もっとも、ひとくちに醜形者といっても、顔面に痣や瘤のような目に見える病変を持つ者と、単に容姿が社会通念的な審美基準に照らして醜悪とまなざされる者とがある。前者はある種の身体障碍者―顔面障碍者―と解釈することもできるが、後者との差異はしばしば相対的であるので、ここでは両者まとめて醜形者として扱う。
 人類は、おそらく先史時代から容姿の美醜という漠然とした尺度で互いを評価し合う性向を有していると思われるが、現代の映像全盛時代には、人間の容姿に対する相互の視線がいっそう審美的となり、美容整形も盛んになる中、醜形者は不利な立場に追い込まれやすい。
 「人は見た目がすべて」といった価値尺度が公然と唱道されることも少なくない。このような容姿至上主義の価値観は、かの優生思想ともつながっている。要するに、容姿にも優れた健常者を優越的な人間と評価しつつ、その基準を満たさない者を劣等者として社会的に排除していこうとする衝動である。
 これに対しては、容姿の欠陥をむしろ逆手にとり、当事者から社会にカミングアウトしていこうとする運動も起きている。顔面障碍者の啓発運動としてのユニーク・フェイス運動や、より広く社会的少数者たる当事者を「本」に見立てて、その話を聴きたい一般市民に自身を「貸し出す」というヒューマンライブラリー運動などもそれに含まれる。
 また、肥満者や低身長者が芸能人として活動するケースも散見される。醜形者の芸能活動には、かつて障碍者がフリーク・ショウのような見世物で生活せざるを得なかった時代の既視感もあるが、より積極的に、映像全盛時代における醜形者の社会的認知の動きととらえることもできるだろう。
 こうして、醜形者にとっても現代は「参加」の時代なのかもしれない。とはいえ、容姿の美醜という漠然とした尺度にとらわれがちな人類の性向が根本的に変化したわけではない。障碍者を二級市民扱いする価値観とともに、醜形者を劣等者とみなす価値観が完全に克服された時、「不具者の世界歴史」も終焉するのであろう。(連載終了)

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不具者の世界歴史(連載第29回)

2017-07-10 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

新旧優生思想の交錯
 21世紀前半期の現代は、障碍者にとって「参加」の時代としてくくることができるのであるが、その渦中で、一度は否定されたかに見えた優生学の復権とも取れる矛盾した動向も見られる。
 そうした新優生学運動と言うべき思潮の象徴は、出生前診断とその結果に基づく胎児性障碍児の中絶慣行である。これは産科医療の技術進歩により胎児の健康状態を出生前にかなりの程度把握できるようなった科学の時代を反映した新しい動きである。
 すわなち旧優生学にあっては、出生した障碍者を断種して子孫を残せないようにする―極端には、ナチスのように障碍者を殺戮する―ことで優良遺伝子の保存を図るという事後的手段が採られたが、新優生学にあってはそもそも先天性障碍者が出生しないようにすることで障碍者の数を事前的にコントロールすることが目指されている。
 しかも、出生前診断の結果、中絶するかどうかは妊婦の自己決定に委ねられており、国家その他の第三者がこれを強制することはないという点では、強制性の強かった旧優生学に比べ、ソフト路線である。個人主義・自由主義と結びついたリベラル優生学とも言える。
 このような新優生思想をどう評価するかは、中絶そのものの是非という問題を含め、根本的な生命倫理問題となるため、ここでは云々しないが、出生前診断の精度が今後さらに進歩し、かつ出生前診断→中絶という流れが産科医療の現場で定着すれば、少なくとも先天性障碍者がほぼ存在しない社会というナチ的“理想”の実現もあり得ることになる。
 その点、2016年に日本の相模原市で発生した重度障碍者施設襲撃・大量殺傷事件は、重度障碍者を排除すべきとする優生思想に固執した犯人による思想的なテロ事件の性格を持つ、障碍者史上も世界的に前例を見ない事件として、内外に衝撃を与えた。
 自身が襲撃した施設の元職員でもあった犯人が抱いていたとされる思想傾向はナチスのそれに近いものであり、国の政策としては事実上放棄された旧優生思想も、個人のレベルでは決して根絶されたわけではないことを物語る事案でもあった。
 こうして、新旧優生思想は個人のレベルで交錯し合いながら、参加の時代という障碍者にとっては春の時代に投げかけられた暗雲として、なお影を落としていることも否めない。

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不具者の世界歴史(連載第28回)

2017-06-27 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

遅れる障碍者の政治参加
 障碍者の社会参加の時代にあっても、社会的領域別に見て最も参加が遅れているのは政治の世界であろう。障碍者の選挙権(投票権)は認められていても、投票のアクセシビリティーの保障はなお不十分である。まして、世界の政治指導者や一般議員の中にさえ、障碍者の姿を見ることは極めて稀である。
 その点、政治職の世襲制が常識であった前近代においては、本連載初期でもいくつか取り上げたように、障碍を持つ為政者が輩出される可能性がしばしばあったのであるが、表向きは非世襲的かつ能力主義的な選挙政治が定着してきた近現代においては、知力や身体能力において健常的な者でなければ政治職に就き難くなり、かえって障碍者が政治から排除されやすくなっているのは、皮肉である。
 そうした中にあって、身体障碍を持ちながら、第二次大戦前と戦後の北米アメリカとカナダでそれぞれ政治指導者となった二人の稀有な人物を取り上げておきたい。
 その一人は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ローズベルトである。彼は下半身麻痺により車椅子を常用していたが、先天性障碍ではなく、40歳近くなってから感染症のポリオを発症した後遺症とするのが通説である(異説もあるが、深入りしない)。
 いずれにせよ、彼は車椅子常用者として、ニューヨーク州知事を経て、合衆国大統領に選出され、今日まで米国史上唯一4期、通算12年にわたって大統領職を務めたのであった。その間、ニューディール政策や第二次世界大戦の指導など、歴史に残る業績を残した。
 とはいえ、ローズベルトは自身の障碍の治療を試みていたため、「障碍者政治家」として自己をアピールすることはしなかったし、それどころか車椅子を使用する姿や自身の障碍を極力見せないような演出をしていたため、大統領が障碍を持つことを知らないアメリカ国民もいたほどだった。
 ローズベルトの時代はまだ、障碍者にとって「参加」の時代にはほど遠かったのである。とはいえ、近代政治において、車椅子のアメリカ大統領の存在は障碍者の政治参加の先駆け的な意義を持っていると言えよう。
 ローズベルトの時代からおよそ半世紀を経た1993年、カナダに顔面麻痺と片耳の聴力喪失という障碍を持つジャン・クレティエン首相が登場した。彼の障碍は幼少期に患ったベル麻痺の後遺症であった。ローズベルトとは異なり、自身の障碍を隠さなかったクレティエンは若くして自由党連邦議員となり、数々の閣僚を経て、党首として93年の総選挙に圧勝して、首相の座に就いたのである。
 この時、従前の政権与党であった進歩保守党は選挙前の169議席から一挙にわずか2議席に激減するという歴史的惨敗を喫して世界的ニュースとなった。その敗因の一つに、進歩保守党が野党党首だったクレティエンの障碍を揶揄するような選挙広告を出した件があった。
 この差別的選挙広告はメディアや与党内部からも強い批判を浴びた。この一件は、それまで優勢が伝えられていた与党の支持率を激減させ、惨敗につながったのだった。一方、圧勝したクレティエンは3期10年に及ぶ長期政権を維持した。
 ここで取り上げた二人の政治指導者は、いずれも後天的な障碍者である。先天的な障碍を持つ政治指導者の事例は、より現在に近い同時代史の中に見出すことも難しい。それは、未来の新たな歴史の中に見出されることになるのであろうか。

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不具者の世界歴史(連載第27回)

2017-06-26 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

精神障碍者と社会参加
 種々の障碍者の中にあっても、錯乱のイメージから社会的に危険視されやすく、ノーマライゼーションの潮流からも取り残されがちなのが精神障碍者であるが、この分野でも1950年代以降、徐々に社会復帰へ向けた施策が進んでいった。
 最も大きな契機となったのは、精神に直接作用する向精神薬の開発と実用であった。中でも、妄想に侵されやすい統合失調症に対する向精神薬の開発は、統合失調症患者の社会復帰を促進するのに大きく寄与した。
 同時に、60年代以降、精神医学というパラダイムそのものに疑問を投げかける急進的な思潮が精神医学界内部からも現れたことである。この反精神医学運動と呼ばれる思潮にも様々あるが、共通しているのは精神病という診断そのものを社会的な逸脱者に対するレッテル貼りととらえ、精神障碍者のノーマライズを打ち出そうとした点にある。
 このような社会復帰の流れは、先の向精神薬の開発・改良と軌を一にして、精神障碍者のノーマライゼーションとして先進諸国では定着していった。中でも、イタリアでは1978年の法律により、精神病院制度の廃止を決めた。この法律は緊急的な場合の強制治療の必要性を排除しないものの、基本的に精神病を理由とした入院治療を否定し、精神疾患は地域精神保健機関において通院の形で実施することを明記した世界史上画期的なものであった。
 他方、国際社会にあっても、1991年に国連総会で採択された「精神疾患を有する者の保護及び精神保健ケアの改善のための諸原則」では、第六原則で「精神疾患に侵された者のケア、支援、治療、リハビリテーションのための施設は、可能な限り、患者の住む地域社会に置かれるべきである。よって、精神保健施設への入院は、そうした地域社会の施設が不適切であるか、得られない場合に限って行われるべきである。」とし、第七原則では「精神疾患を有する者を虐待から守り、精神疾患であるというレッテルが人の権利を不当に制限する口実とされないように保障することは重要であるが、精神疾患を有する者が見捨てられることを防ぎ、ケアと治療の必要性、特に地域社会に統合された人々のケアと治療の必要性が満たされることを保障することも同様に重要である。」とし、反精神医学の問題意識を修正的に反映した文言が明記された。
 翌92年には世界保健機関(WHO)が毎年10月10日を「世界精神保健デー」と定めたが、上記国際原則はまだ条約化されておらず、なお精神病院に依存している諸国も多い。特に日本の精神病院大国ぶりは突出し、国際的な批判対象にさえなっている。とはいえ、日本でも政府が重い腰を上げ、2004年以降、数万人に及ぶ長期入院患者の「地域移行」が実行に移され始めている。
 ただし、「地域移行」というテーゼは「社会復帰」、さらには「社会参加」とはニュアンスに違いがあり、単に該当者を病院から地域に平行移動させるイメージがあり、積極性に欠けている。今後の展開が注視されるところである。
 全般に、精神障碍者の現況は、「社会参加」の前提としての「社会復帰」で止まっている観があるが、これを「社会参加」の域に進めるには、精神医学パラダイムそのものへの異議という反精神医学の問題意識に再度立ち返る必要があるかもしれない。

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不具者の世界歴史(連載第26回)

2017-06-14 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

障碍者スターダム
 ノーマライゼーションの思潮が生じた頃と機を同じくして、障碍者五輪=パラリンピックが誕生している。1960年、第一回大会とみなされるローマ・パラリンピックが開催されたのである。ただし、当初はパラリンピックと呼ばれず、障碍者競技会の先駆者であった英国のストーク・マンデビル病院の名にちなみ、国際ストーク・マンデビル競技大会と銘打たれていた。
 パラリンピックの名称で定着するのは、1988年ソウル大会以降のことであり、一般のオリンピックと同年・同一都市での連続開催方式も定着した。以来、パラリンピックは回を追うごとに盛況となり、商業的な面でも最も成功した障碍者競技大会となっていることは、周知のとおりである。
 こうしてパラリンピックの定着に至る過程では、リハビリテーション医学の発達に伴い、20世紀初頭頃より、リハビリ目的での障碍者競技が出現してきたことがあった。とりわけ大量の傷痍軍人を輩出した第一次世界大戦は、リハビリを兼ねた障碍者競技が発展する契機となった。これを土台として、傷痍軍人に限らず、障碍者全般を対象とする各種競技が発達していくことになる。
 それに加え、20世紀後半期以降、現在まで続く技術革新は、従来であれば想定できなかったスポーツへの身体障碍者のアクセシビリティーを高め、障碍者のスポーツ参加を飛躍的に促進した。これもまた、「参加」の時代を象徴する現象と言えるであろう。
 今や、有力なパラリンピック選手はスター的存在として、メディア上でも頻繁に取材・紹介され、一般にも知られるようになっている。障碍者スターダムの誕生である。もっとも、歴史を振り返れば、前近代から近世にかけても、障碍者芸人のようなある種のスターは存在してきたが、好奇心の対象としてのフリーク・ショウのスターではなく、社会の真っ当な関心を引く障碍者スターダムの出現は、パラリンピックの隆盛によるところが大きい。
 とはいえ、現行パラリンピックと一般オリンピックとは主催団体が異なり、あくまでも一般五輪の日程終了後に追加的な形で連続開催するという方式にとどまっており、両大会の間にはなお明確な一線が引かれている。
 このような分離開催方式は、ノーマライゼーションという観点からは、なお不充分さが残り、両大会の完全な統合化、さらに種目の性質によっては障碍者・非障碍者混合競技の創設なども将来的な課題として数えられるであろう。
 一方で、パラリンピック選手のように持てる身体能力を伸ばして社会的に活躍できるスター的障碍者とそれがかなわない重度障碍者の社会的格差という新たな問題も生じており、このような障碍者間格差は、後に言及する現代的な形態で再現前しつつある優生思想に何らかの刺激を与える可能性もある。
 障碍者スターダムという点では、芸術・芸能分野も活躍舞台となり得るが、現状、この分野での障碍者スターの姿はあまり見られない。ここには、かつての見世物的な障碍者芸能への否定的な意識が働いているかもしれない。
 しかし、絵画などアートの世界では障碍者アートが注目を集めたり、1987年創設の中国障碍者芸術団のように国際的に高い評価を受ける障碍者主体の総合芸術集団の活動など、旧式の見世物とは異なる障碍者固有の芸術活動も見られるようになっている。

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不具者の世界歴史(連載第25回)

2017-06-13 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

「保護」から「参加」へ
 障碍者を「保護」するため、施設で隔離・管理するという施策は今日でも大なり小なり継続されているが、そうした中で、別の視座が開かれてきた。それは、障碍者を一般社会に受け入れようという潮流である。その端緒は1960年代以降に現れたノーマライゼーションの思潮と実践である。
 この思潮の発祥地は北欧、特にデンマークであった。これは、障碍者を社会から隔離するのではなく、かれらが一般社会で健常者とも対等に暮らしていけるよう社会の側を改良する必要があるという社会改良主義的な発想に基づいており、北欧で有力な社会民主主義とも合致する考え方であった。
 この思潮は欧米諸国を中心に拡散され、その最初の国際的集約として、1975年、国際連合(国連)における「障碍者の権利宣言」に結実した。これは従来、先行する国際人権条約上明確でなかった障碍者の基本的人権を改めて確認する意義を持つ国際宣言であった。
 十三項目の宣言文の中でも、「障碍者は、その家族または里親とともに生活し、すべての社会的・創造的活動またはレクリエーション活動に参加する権利を有する。障害者の居所に関しては、障碍者の状態によって必要とされ、または、かれらがその状態に由来する改善のため必要とされる場合以外、差別的な扱いを受けない。もし、障碍者が施設に入所する絶対の必要性がある場合でも、そこにおける環境や生活状態は、同年齢の人の普通の生活に可能限り似通ったものであるべきである。」とする第九宣言には、ノーマライゼーションの思想が盛り込まれていると言える。
 同時に、この宣言文においては、「障碍者がすべての社会的・創造的活動またはレクリエーション活動に参加する権利」として、「参加」に言及されていることが注目される。これは、障碍者が「保護」されるばかりでなく、より積極的に社会に「参加」できることの保障を求めるものである。
 この「宣言」を起点として、1981年は「国際障碍者年」に指定され、83年‐92年期を「国連・障害者の十年」と位置づけ、初めて障碍者の権利向上が国際的な共通課題として明示された。
 ところで、「参加」の権利を明言した「宣言」には、ノーマライゼーション=対等化からさらに進んで、障碍者を積極的に社会に迎え入れるインクルージョン=包摂化の思想が現れていた。しかし、インクルージョンを空理念に終わらせないためには、社会の側でも様々な障壁を除去していく必要がある。
 その最初の一歩は段差解消に代表されるようなバリアフリー化であるが、それにとどまらず、様々な道具・設備の規格を障碍の有無を問わず広く普遍的に使い勝手のよいものにしていくユニバーサル・デザインの理念と実践も現れた。これには、20世紀末から21世紀にかけて進展した情報技術革新が反映されている。
 そうした新展開を踏まえつ、2006年には国連障害者権利条約が採択された。これは障碍者の基本的権利を網羅的に保障するとともに、いまだ「宣言」にとどまっていたものを法的効力を持つ条約に高めた意義を持つ。
 そこでは、物理的なバリアフリーを越えて、障碍者が様々なサービスを享受するうえでの可能性・容易性を広げるアクセシビリティーの権利が明示されていることも大きな前進点である。21世紀前半期は、この条約を踏まえた障碍者の社会参加の時代に入ったと言えるであろう。

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不具者の世界歴史(連載第24回)

2017-06-12 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

社会主義体制と障碍者
 優生政策が、ナチスのみならず、「先進」資本主義諸国にも広がった背景には、健常な労働力確保という共通目的が存在した。では、労働者階級の国を公称した社会主義国家ソ連では、さぞ優生政策が実行されたかと思いきや、事情は異なっていた。
 その背景には、ソ連特有の教条的な生物学説の影響があった。その主唱者トロフィム・ルイセンコの名を取りルイセンコ学説と呼ばれるその説は、メンデル以来の遺伝学や自然選択理論を真っ向から否定し、環境因子による形質変化とその遺伝を主張するものであった。
 ルイセンコ学説は弁証法的唯物論を標榜してはいたが、実質的に見て、後天的に獲得された形質が遺伝するとしたラマルク学説の焼き直しに近いものであった。それでも、遺伝より環境に優位性を置くルイセンコ学説はスターリン治下で正統学説とみなされ、これに反対する科学者は弾圧された。
 このルイセンコ学説は謬論ではあったが、優生学が依拠したメンデル遺伝学や進化論に対立したがゆえに、優生思想がソ連で流布されることを防ぐ役割は果たしたようである。そのため、ナチスのそれとしばしば対比されるスターリン時代の大虐殺は優生学的な観点からのものではなく、あくまでも政治的な粛清の性格の強いものであった。
 こうしてソ連社会主義体制下で優生政策が展開されなかったことは、ソ連時代の障碍者政策が充実していたことを意味していない。実際、ソ連の障碍者政策は全然進歩的ではなかった。それを象徴するのが1980年モスクワ五輪当時のパラリンピック開催拒否宣言である。
 その際、ソ連当局が放った言葉「ソ連に不具者は存在しない」は、滑稽な弁明であると同時に、ソ連における障碍者の地位を物語っていた。実際のところ、国を挙げてエリート五輪選手の養成に注力していたソ連では、対照的にパラリンピック選手の養成は手付かずだったのだった。
 ソ連時代の障碍者政策の詳細については未解明の点も残されているが、労働能力に欠ける障碍者は二級市民扱いであり、放置または隔離されていたとされる。ただし、視覚障碍者に関しては、都市ごとにコロニーが提供され、優遇されていたというが、障碍者を集住させるコロニーという発想も隔離保護政策の一種である。
 かくして、優生政策を追求することのなかった社会主義体制も、「保護」の名による障碍者統制という点では、特に進歩的と言えるところは何もなかったのである。ソ連より発展度の低い社会主義諸国では、なおさらのことであったろう。

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不具者の世界歴史(連載第23回)

2017-05-31 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

「先進」諸国の優生政策
 非人道的なT4作戦の記憶のせいで、優生思想・優生政策と言えばナチスの代名詞のごとくであるが、実際のところ、決してそうではなく、それは同時代の世界各国、中でも先進国を標榜する諸国にも広がっていた。とりわけ、障碍者に強制不妊手術を施す断種政策の隆盛である。
 実は、ナチス優生政策の出発点も政権発足初期の1933年に制定した遺伝病根絶法に基づく断種政策から始まっている。その対象者は狭義の遺伝病患者に限らず、遺伝性のない精神障碍者や性犯罪者にまで及び、これによって断種された者はナチス政権の全期間で数十万人と推計される。
 こうした断種政策を世界で初めて導入したのは1907年、米国のインディアナ州であった。その後、カリフォルニア州など大規模州にも広がり、同州では最も多くの断種が施行された。カリフォリニア州断種法も対象者に性病患者や性犯罪者を含んでいた。
 断種政策に着手したのは米独ばかりではない。今日知られているだけでも、スウェーデンをはじめとする北欧諸国からスイス、カナダ、オーストラリア、日本などがある。中でも、福祉国家のモデルとされてきたスウェーデンの事例は衝撃を与えた。
 スウェーデンでは福祉国家の土台作りに寄与したと評される1930年代の社会民主党政権が断種政策を開始した。ナチスの断種法制定の翌年のことである。当初の対象者は精神障碍者・知的障碍者など「精神的無能力者」に限定されていたが、間もなく一定の身体障碍者や少数民族などにまで拡大されていった。
 他方で、手術には原則として本人の同意を要する形に改正されたが、その同意はしばしば形式的であり、事実上は強制であった。この断種政策により、1930年代から70年代まで40年にわたって6万件以上施術され、断種がスウェーデン福祉国家の隠し玉だったことが発覚したのである。すなわち、この時期のスウェーデン福祉国家とは健常者のための福祉国家であったことになる。
 一方、日本の場合、優生思想は早くから流入していたが、政策化されたのは戦時下の1940年、国民優生法の制定を初とする。これはナチス断種法を取り急ぎ模倣したものであったが、これが戦後の48年、より本格的な優生保護法に置き換えられた。1996年に母体保護法に置き換えられたこの法律下での不妊手術は、2023年に国会が公表した調査報告書によると、少なくとも約2万5千件に上る。
 日本の特異性として、断種対象にハンセン病患者が追加されたことがある。ハンセン病はらい菌によって引き起こされる末梢神経症状と皮膚症状を主とする感染症であって、遺伝性はない。にもかかわらず、日本ではハンセン病に関する特異な謬論に基づき、強制隔離政策が90年代まで続けられたばかりか、優生保護法による断種対象にまでされたのである。
 さらに、遺伝性のない精神障碍者や知的障碍者も断種対象に加えられた。同時に、精神障碍者に関しては、戦後の経済成長政策を妨げる「生産阻害因子」として、措置入院制度をも活用した精神障碍者の精神病院収容政策が推進された結果、以前にも述べた「精神病院大国」が現出することとなった。
 この収容政策は、断種対象とならなかった精神障碍者にあっても、精神病院への無期限的入院(いわゆる社会的入院)により社会との接点が絶たれ、生殖の機会が奪われることにより、結果的な断種となることから、緩慢な断種政策とみなすこともできるだろう。

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不具者の世界歴史(連載第22回)

2017-05-30 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

ナチスの「不適格者」絶滅作戦
 19世紀末の英国で形成された優生学がナチスの絶滅作戦にまで飛躍するには、一定の時間的経過が必要だったが、その間、最初に優生学が政策化されたのは米国であった。米国ではゴルトンが存命していた19世紀末には早くも優生学の政策化が推進されている。
 手始めに、知的障碍者・精神障碍者の結婚を制限する婚姻制限政策が州レベルで立法化された。同時に、障碍者への強制不妊手術を正当化する断種法の制定も相次いだ。もっとも、遅れて欧州や日本にも広がる断種政策については次回にまわす。
 米国優生学の特徴は、人種差別と結びつけられたことであった。米国有数の優生学者であったチャールズ・ダベンポートが設立した優生記録所が米国における優生学研究の拠点となり、彼の著書・論文が多大な権威を持った。
 「人種改良学」という彼の著書名にも採用された概念が、ダベンポート優生学をまさしく象徴している。これは、公民権改革前で人種差別が常態だった米国ではたちまち「通説」となった。20世紀の二つの大戦間期の米国では、ダベンポート理論に沿って、移民制限や人種隔離のような人種差別的政策が連邦レベルでも追求されたのである。
 この理論がドイツに輸入され、ダベンポートもコネクションを持っていたナチスの政策に強い影響を及ぼしたと考えられている。実際、ナチスのアーリア人種優越政策は人種改良学的な観点に立脚していた。ホロコーストは、その極限に行き着く政策であった。ただ、ここではナチス大虐殺のもう一本の柱であった障碍者絶滅作戦に焦点を当てたい。優生学との関わりでは、こちらのほうが「本筋」だったからである。
 実は、ドイツでもナチスが政権を掌握する以前から優生学が風靡し、すでに障碍者への断種や絶滅を主張する医学者らの主張が現れていた。一方で、1918年ドイツ革命後のワイマール共和体制はリベラルで社会民主主義的な観点から障碍者福祉・教育の充実を指向したが、「大きな政府」による財政難という難題にも直面していた。
 そうしたワイマール共和体制の限界を突く形で登場したナチスが1939年に開始した障碍者絶滅作戦(T4作戦)は、改めて優生政策を極大化させ、「小さな政府」を目指す最終解決策でもあった。この政策には医師その他の専門家も参画し、極めて体系化されていたが、根拠法律を持たない社会実験的な性格の秘密作戦であった。
 絶滅対象は精神障碍者・知的障碍者が主であるが、より広い「不適格者」の概念の下、反社会分子や浮浪者、同性愛者なども含む雑多なものであった。手段は「安楽死」と呼ばれたが、その実態はホロコーストと同様のガス殺が主であり、「安楽死」はカムフラージュの標榜に過ぎなかった。
 他方、視覚障碍者のように障碍を持ちながらも労働可能な者は対象から除外されたばかりか優遇され、ナチスを支持した障碍者団体も少なくなかったのである。また、ナチス政権のプロパガンダ政策で絶大な影響力を持った宣伝大臣ゲッベルスは、先天的に左右の足の長さが異なる軽度の身体障碍者でもあった。
 「民族社会主義労働者党」を標榜し、右翼労働者政党でもあったナチスの優生政策では「労働可能性」が指標であり、障碍者全般ではなく、労働できない障碍者等が保護に値しない不適格者とみなされたのであり、保護と絶滅は両立していたのである。 
 T4作戦は41年までの二年足らずで公式には終了したが、その間の犠牲者だけでも7万人余りと推計されている。ただ、公式に作戦が中止された後も現場レベルでの非公式の絶滅が収容所や病院単位で継続されたため、実際の犠牲者数はさらに多いとも指摘されている。

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不具者の世界歴史(連載第21回)

2017-05-29 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

優生学の形成
 障碍者を保護する時代の到来は、その反面で、管理統制を越えて障碍者を淘汰絶滅する思想を生み出した。この相反する二つの思潮は相即不離の関係にあって、保護の時代と絶滅の時代とは重なっている。すなわち、保護に値する障碍者と値しない障碍者の選別が行なわれるのである。
 こうした選別政策の理論的支柱となったのが、19世紀末に現れた優生学思想である。これは、英国の数学・統計学者フランシス・ゴルトンによって創始・提唱された疑似科学的な「理論」である。ゴルトンは進化論の祖チャールズ・ダーウィンの従弟に当たり、その理論の影響を受けていた。
 しかし、彼は従兄とは異なり、生物学を系統的に研究したことはなく、ダーウィンの理論を自己流に解釈して優生思想を創案した。その理論は極めて素朴と言うべきもので、それは彼が優生思想を確立する以前に出した主著の一つ『遺伝的天才』の中で、すでに先行して以下のように記述されている。

人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にもかかわらず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代にわたって賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出し得ることは疑いない。

 裏を返せば、障碍という能力制限的特質も遺伝によってもたらされるものであるから、そうした負の遺伝要素についてはこれを淘汰することで人類社会は改善されていくということになり、実際、ゴルトンは後にこうした意味で、優れた遺伝子を保存し、劣った遺伝子を淘汰する優生思想へと到達したのである。彼によれば、弱者保護政策は弱者を人類社会から廃絶すべきはずの自然選択と齟齬を来たすのである。
 ここには、同時代に高まりを見せていた人道思想や社会主義思想への反対という保守的な政治思潮との共振を読み取ることもできる。ただ、科学者であったゴルトンは、それを社会思想ではなく、当時を風靡していた進化論と遺伝学を組み合わせた科学理論の体裁を取って主張したところに利点があった。
 実際のところ、ゴルトンの自然選択説はダーウィン理論のあまりに形式的・皮相的な二次加工であって、同時代的にも批判者はあったが、その単純さゆえに科学的素人にもわかりやす過ぎるという危険性を内包していた。
 そのためか、ゴルトン自身は弱者淘汰のための政策的手段、中でも絶滅のような強権的手段は何ら提示しなかったにもかかわらず、優生学は科学的究明よりも政策的手段の開発へと突き進んでいくのである。ゴルトンは1911年に世を去ったが、その後の優生学は彼の想定をもはるかに越えて政治思想化していった。

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不具者の世界歴史(連載第20回)

2017-05-16 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

精神病院の発達
 障碍者を「保護」するという啓蒙的な試みの裏には、社会的異分子である障碍者を「管理」するというもう一つのコンセプトが横たわってもいた。そのことが最も如実に表れたのは、精神病院のシステムであった。
 精神障碍者は外見上健常者と差異はなく、通常は身体障碍を伴わないので、特別な処置・介助を必要としない。そのため、「保護」しやすい。一方で、精神病は当初不治の病とみなされていたため、危険分子の恒久的収容先として精神病院は都合の良い所でもあった。
 精神疾患の中でも代表的な統合失調症は19世紀半ばにフランスの精神医学者ベネディクト・モレルによって初めて近代医学的に記述されたが、有効な治療法はまだなく、薬物療法が始まるのは1930年代を待つ必要があった。そのため、精神病院は病院というよりは保護施設に近いものであった。
 精神病院に近い制度は、革命前のフランスでルイ14世によって設立されたビセートル病院や、マッドハウス(madhouse)という粗野な名称で呼ばれた英国の収容施設などがあるが、近代的な意味での世界初の精神病院はイタリアが発祥地とされる。
 特にフランス革命直前期に設立された聖ボニファチオ病院である。そこは従来の監獄に近い収容環境ではなく、開放的処遇や作業療法などの近代的な療養体制が構築された「病院」であった。フランス革命後には、近代的精神医学の祖の一人フィリップ・ピネル医師により、ビセートル病院閉鎖病棟の廃止が主導された。
 こうした欧州大陸主導の精神病院制度は間もなく英米にも伝わる一方、管理の視点も強化されていく。例えば、英国では1845年に精神異常法が制定され、精神異常と認定された者を強制収容する法的根拠となった。また1900年のイタリアでは自傷他害・公序良俗を乱す危険のある精神障碍者の強制入院を定めた法律が制定される。これは近代的な措置入院制度の先駆けであった。
 しかし、精神障碍者管理の体系を最も発達させたのは、欧米以上に近代日本であった。日本では明治維新当初、「癲狂院」の名の下に精神病院の設立が相次いだが、病棟不足から1900年には精神障碍者を自宅内に幽閉する私宅監置を制度化し、対象者を警察の管理下に置くこととした。この制度は1950年の廃止まで続いたのである。
 日本ではその後、私立精神病院の設立が続き、世界でも最も多くの精神科病床と無期限的入院患者を擁する「精神病院大国」となっていくが、これは治安管理政策とも結びついた日本式社会統制の方法であった。対照的に、近代的精神病院を発祥させたイタリアは、1978年に精神病院制度を廃止する急進的政策に踏み出していく。

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不具者の世界歴史(連載第19回)

2017-05-15 | 〆不具者の世界歴史

Ⅳ 保護の時代

「障碍者」の概念形成
 今日では常識となっている「障碍者」という認識概念は、さほど古いものでない。長い間悪魔化されていた障碍者に正しい理解がなされる契機は、西洋啓蒙思想がもたらしたものだが、それに先駆けて、フランスのモラリスト、モンテーニュが進歩的な障碍者観を示していた。
 彼は親によって見世物にされた障碍児を見て思索したことを、主著『エセー』にわざわざ一章を割いて述べている。「奇形児」と題されたその章で、モンテーニュは次のように述べる。

我々が奇形と呼ぶものも神から見れば奇形ではない。神は、自らがお創りになった広大な宇宙の中に様々な形態をお入れになり、それらを一様に眺めておられる。

我々は、慣例に反して生じるものを〈反自然〉と呼ぶ。しかし、何一つとして自然に従っていないものはないのだ。普遍的かつ自然に与えられている理性が、新奇なものに対して我々が抱く誤りと驚きとを我々から追い払ってくれますように。

 16世紀人であったモンテーニュは科学的思考をまだ知らなかったが、ここでは神への信仰を媒介に、障碍者も神の多様な被造物の一つであり、それもまた「自然」であることを強調する。これは、障碍者を反自然的として悪魔化しようとする当時の蒙昧な思考へのアンチテーゼでもある。
 このような思考によれば、心身の機能に制約・欠如がある者も「自然」な人間存在として公平に扱うことができるようになる。しかし、それを「障碍者」として認識するには、近代科学を土台とする近代医学の発達を必要とした。
 医学は正常と異常を鑑別し、記述する。それに伴い、健常者/障碍者という対概念も形成されていった。これを近代統計学が後押しし、その発達は障碍者の細分類や人口統計の基礎を提供するようになっていった。
 障碍者は悪魔として排斥されたり、好奇なショウで使役される存在から、発見・保護される存在となる。ただし、そこでの「保護」のありようは病院や福祉施設への収容と特殊教育である。
 その点では、「新大陸」アメリカがリードしており、ここでは19世紀の比較的早い段階から、後にヘレン・ケラーも学ぶ視覚障碍者の学習施設パーキンス盲学校や、知的障碍者学校など、特殊教育が民間篤志家の努力で発達していった。

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不具者の世界歴史(連載第18回)

2017-05-03 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

“エレファント・マン”ジョゼフ・メリック
 フリーク・ショウの祖国と目される英国のヴィクトリア朝時代、数奇な運命をたどった一人の障碍者が現れた。20世紀の映画『エレファント・マン』の題材ともなったエレファント・マンことジョゼフ・メリックである。
 メリックは1862年、英国中部のレスターで、労働者階級から衣料品店主となった下層中産階級の父のもとに生まれた。メリックが11歳の頃に他界する生母は軽度の身体障碍者であったが、働ける状態であった。
 出生時には特に異常のなかったメリックは2歳が近づいた頃から顔面に腫脹が発生、手足も肥大化し、全身のバランスを失するような姿態に変形していった。当時の医学水準では彼の病気を正確に診断することはできなかったが、今日では原因不明の過誤腫症候群として位置づけられるプロテウス症候群とする説が有力化している。
 いずれにせよ、当時の英国庶民階級が難病医療を受けることは至難であり、メリックも症状を放置したまま成長する。公立学校を終えると、当時の庶民階級子弟の例にならい働き始めるが、すでに人間の容貌とは思えないほどに腫脹が進行しており、生業としていた行商人の仕事も客が寄りつかず、ほぼ不可能な状態であった。
 簡易宿泊所や親類の家を渡り歩いた末、彼は自らレスター市に保護申請し、救貧院に入所が認められた。救貧院とは近世の英国に見られた就労困難者を収容する保護施設であり、対象者は多種多様であったが、当時は就労機会のほとんどなかった障碍者が多く、事実上の障碍者施設であった。
 だが、その劣悪極まる居住・衛生環境に耐えられなくなったメリックは著名なフリーク・ショウの興行師に自らコンタクトを取り、その紹介で別の巡回興行師のマネージメントの下、フリーク・ショウの芸人となったのである。腫脹で異常肥大したメリックの容姿から、「半人半象」を意味するエレファント・マンの芸名はこの時に誕生した。
 しかし、芸人エレファント・マンの生活も長くは続かなかった。英国では数百年の長い歴史を持つフリーク・ショウであったが、時代は19世紀末、人道主義的思潮もあって、フリーク・ショウを取り締まる動きが出てきたのだ。そのあおりで、メリックの所属するショウにも閉鎖命令が下され、彼はオーストリア人興行師に売られたが、欧州でも振るわず、解雇されてしまう。
 こうして失業者として英国に戻ったメリックは、芸能活動中に彼を診察したことがあり、数少ない友人ともなる外科医フレデリック・トレヴェスの計らいでロンドン病院に入院することができた。以後、ここが彼の終の棲家となる。
 無一文の彼の入院費用をまかなうための寄付金を募るロンドン病院理事長の新聞投稿がきっかけで、英国上流階級からの支援が得られるようになった。多くの貴族や著名人の面会者が彼のもとを訪問した記録が残るが、その中には時のエドワード王太子妃アレクサンドラ(後のエドワード7世妃)すらいた。
 実際、この時期の彼は上流階級の仲間入りを果たしたかのように、病院を住処としつつも、観劇や田園での避暑なども楽しんている。上流階級による慈善活動が社会慣習化し始めた時代の風潮もメリックに味方していた。
 メリックの生涯で、この頃が最も幸せな時期であったろうが、これも長くは続かなかった。1890年4月、彼が病室で死亡しているのを回診の医師が発見した。検視の結果、腫脹で肥大化した頭部を抱えるようにして就寝する習慣ゆえの頚椎脱臼による事故死と判定された。
 こうしてあっけなく終わったメリックの27年の短い生涯は、不具者の世界歴史が見世物の時代から保護の時代へと大きく動く転換期に当たっていた。彼の短くも数奇な人生は、それ自体が一個の歴史である。

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不具者の世界歴史(連載第17回)

2017-05-02 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

“シャムの双子”バンカー兄弟
 啓蒙の18世紀に続く19世紀は、資本主義の発展とも相まって、障碍者や動物を使った反啓蒙的とも言える見世物フリーク・ショウのビジネス化が急速に進む。中でも、資本主義が隆盛化した英米である。そうした中、障碍者の中には芸人として成功を収める者も出てきた。
 例えば、結合双生児チャンとエンのバンカー兄弟である。兄弟は1811年、中国系タイ人として漁師の家に生まれた。兄弟は腹部付近で正面並列に近い形で結合していたおかげで、かなりの運動能力を保持していた。
 そのことに目を付けたタイ在住のスコットランド人商人によってスカウトされた兄弟は、18歳の頃から欧米でフリーク・ショウの芸人として活動を始めた。この時、「シャム(タイ)の双子」という芸名を名乗ったことから、結合双生児の不適切な俗称「シャム双生児」が誕生した。
 兄弟は10年ほど活動した後、1839年以降は米国のノースカロライナ州に移住して奴隷付きのプランテーションを購入、米国市民権も取得した。芸人から奴隷農場主となった。そのうえで、バンカー姓を名乗って、二人それぞれが米国人姉妹と結婚、家庭生活を営み、それぞれ10人以上の子をもうける大家族を築いた。
 幸せな大家族の運命に影が差したのは、バンカー兄弟の成長した息子たちも従軍した南北戦争である。かれらが暮らすノースカロライナは南部連合軍側であったから、戦争での敗北は一家の暮らしを直撃した。
 そのため、バンカー兄弟は再び芸能活動に復帰しなければならなかったが、二番煎じは以前ほどの成功をもたらさなかったようである。とはいえ、兄弟はその尊敬される人柄と大家族のおかげで、それなりに安定した晩年を送ることができた。
 しかし、チャンのほうが次第に健康を害したうえ酒に溺れるようになったあおりで、結合したエンにも影響が及ぶ中、1874年、先に病死したチャンの数時間後にエンも他界し、兄弟はほぼ同時に62年の生涯を終えたのであった。
 こうして、結合双生児という重度障碍をもって生まれながら芸人として成功し、米国に移住して農場主となったバンカー兄弟は19世紀米国的な意味で社会的成功者と言えるであろう。これもまた、「アメリカン・ドリーム」の一つのあり方だったのかもしれない。
 ちなみに、バンカー兄弟の子孫は兄弟の没後も今日に至るまで繁栄しており、職業軍人や学者、実業家、政治家、作曲家など多彩な分野で活躍していることも特筆すべきことである。
 バンカー兄弟と同時代、あるいはそれ以降に活動したフリーク・ショウの障碍者の芸人は多く、「親指トム将軍」の芸名で活動した小人症のチャールズ・ストラットンとその妻となる同じく小人症のラヴィニア・ウォレン、小頭症のエルサルバドル人姉妹マキシモとバルトラ、20世紀に入っても英国人の結合双生児デイジーとヴァイオレットのヒルトン姉妹などがある。
 フリーク・ショウは英国では一足早く取り締まりが始まるが、米国のフリーク・ショウに対しては、ブンカー兄弟没後の19世紀末から人道的な批判も出されるようになるものの、州レベルで法的な規制が始まるのはおおむね1930年代以降のことであった。

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