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近代革命の社会力学(連載第207回)

2021-03-05 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(6)最初期革命政権の展開
 1949年の人民共和国樹立は、中国における共和革命の性格を持った1911年辛亥革命から38年の年月を経ての二次革命という位置づけを持つことになるが、この間の革命的力動は、マルクス主義におけるブルジョワ革命からプロレタリア革命へという二段階革命理論と符合しているようにも見える。
 しかし、仔細に見ると、必ずしもそうではない。辛亥革命をある種のブルジョワ革命とみなすとしても、以前に辛亥革命の項でも見たとおり、革命後は帝政復活を狙った袁世凱による革命の横領過程を経て、軍閥支配の混乱へと向かい、ブルジョワ民主主義は未発達であった。
 軍閥支配に終止符を打った国民党でも、蒋介石という軍人が最高実力者として台頭してきたことで、孫文の三民主義は形骸化し、蒋介石国民党体制はある種の軍事政権の性格を強く帯びていた。こうしてブルジョワ民主主義は軍閥支配、国民党自身の軍閥化という状況の中、未発達なまま、帝国主義日本の侵略という外力の介入によっていっそう阻害されていった。
 とはいえ、経済的な土台の面に着目すれば、清末以来の民族資本の成長により、上海のような経済都市を中心として、資本主義の発達が見られたこともたしかであり、政治的な民主主義は未発達ながらも、辛亥革命後の約40年で資本主義化の道を歩んではいたと言える。
 そうした道をいったん向け変えることになるのが二次革命としての1949年大陸革命であるが、これとて、プロレタリア革命というよりは、共産党を核としながら、諸派が連合した人民民主主義革命の性格が強かった。
 毛沢東はそうした中国式人民民主主義を「新民主主義」とやや漠然ながら簡明に公式化し、革命の理念に据えた。そこでは、労働者階級を主体としながらも、農民や中小ブルジョワ階級も加わった連合体制を通じて、新たな民主主義を建設することが謳われた。
 そのため、最初期革命政権では急進的な社会主義政策は回避され、農地再配分の確立や中小企業の育成を通じた戦後復興が目指された。政治的にも、共産党一党支配でなく、建国直前に招集された諸派の政治協商会議が重視されていた。
 そうした連合体制の微妙さとともに、革命直後は台湾に敗走した国民党がなおも大陸内で諜報・破壊工作による政権転覆を画策していたこともあり、政情は安定しなかったうえに、アメリカが支援する国民党軍による大陸反攻も十分に想定され、将来復興した日本による再侵略の可能性さえも懸念される状況であった。
 そうしたことから、発足当初の毛沢東政権は体制保証をソ連に求め、向ソ一辺倒とも呼ばれる強固な親ソ同盟政策を選択した。その表れとして、1950年には中ソ友好同盟相互援助条約が締結された。これにより、ソ連‐中国というユーラシア大陸にまたがる広大な東側同盟ブロックが形成され、戦後秩序に新たなページが開かれることになった。
 こうして、1950年代初頭頃までの最初期革命政権は新民主主義革命の段階にあり、プロレタリア革命はそれ以降、共産党支配の確立後に改めて体制内で発動されるという展開が予定されていた。これが党内路線闘争の曲折を経て、60年代に文化大革命の動乱という悲劇的な形で表出することになるのである。


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