ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第16回)

2018-11-19 | 共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(5)基礎教育課程の科目編成
 通信教育を原則とする基礎教育課程に学年はなく、標準で1年を単位とする13か年一貫のステップがあるのみである。また自習を基本とするため、全員一律に適用されるカリキュラムも存在しない。ただし、基本となる七つの科目―基本七科―が存在する。
 基本七科の各内容については後に詳論するが、ここで項目のみ列挙すると、①言語表現②数的思考③科学基礎④歴史社会⑤生活技能⑥健康体育⑦社会道徳の七科目である。これら基本七科は、標準13か年にわたる基礎教育課程の中で、生徒の発達度に応じて段階的に割り振られていく。
 例えば、基礎教育課程の初等段階(おおむねステップ1乃至2)では、すべての知の基礎となる①言語表現と②数的思考が中心となる。③科学基礎は抽象的な思考力が発達し始める中等段階(おおむねステップ3以降)からスタートする。④歴史社会は社会的な関心が芽生える中等段階後期(おおむねステップ6以降)からスタートする。
 もちろん言語表現や数的思考は全課程を通じて、徐々にレベルアップさせながら通年的に提供されるし、⑤生活技能や⑥健康体育などの通学制で提供される実技科目や、通信制と通学制が組み合わされる⑦社会道徳についても同様である。
 なお、障碍者統合教育が実施される基礎教育課程では、障碍者にも基本七科が提供されるが、障碍の内容や発達度に応じて、適切に修正された内容となり、場合によっては、科学基礎や歴史社会のようなアカデミックな性格の強い基本科目が免除されることもある。
 他方、生活技能では、非障碍生徒も共通内容として障碍者の生活について学ぶが、実際の障碍者の生活設計にとって必要な補助具の使用法などについては、障碍者コースに特化した形で提供される。
 基礎教育課程には、以上のような教科科目のほかに、職業導入科目が組み込まれる。これは、教科科目とは全く別立てで、おおむね中等段階からはじめは職場見学の形でスタートし、高等段階(おおむねステップ10以降)に入ると、提携する指定職場でインターンとして実際に職業体験をする。
 職業導入科目は教科科目のような細分化された科目制を採らないが、工業、情報、事務、公務、農林、水産、福祉、教育、医療、研究といった代表的な職域ごとに、職業理解に関する通信教育と上述のような実地教育の組み合わせによって提供されることになる。

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世界共同体通覧―未来地政学(連載第1回)

2018-11-18 | 世界共同体通覧―未来地政学

まえがき

 本連載は、筆者が年来提唱している「世界共同体」が創設された未来の世界情勢を仮想的に記述しようとする試みである。その意味では、完全にフィクショナルなものである。
 世界共同体についてはすでに『共産論』でも詳論しているが(拙稿参照)、ここで簡単に振り返れば、それは地球規模での共産主義革命が達成された後に現われる地球全域を統合する新たな政治システムであり、それを構成するのは、領域圏と呼ばれる政治的単位である。
 領域圏は、現行の主権国家にほぼ匹敵する領域で構成された政治単位であるが、主権は有さず、世界共同体の枠内で一定の内政自主権を留保された存在である。多くの領域圏が現行の主権国家を継承するが、世界共同体はその統合性を高めるため、構成単位となる領域圏の数が限定される。
 そのため、現時点で200か国近くが分立し、分離独立運動の結果次第ではさらなる増殖も見込まれる主権国家とは異なり、領域圏は逆に整理統合されていく傾向を持つ。他方で、巨大すぎる超大国は複数の領域圏に分割される。ただ、整理統合といっても、単純に合併されるわけではなく、分割の場合も完全な分裂とはならない柔軟性が領域圏の特色である。
 
 こうした領域圏にはいくつかの型がある。以下、列挙してみよう。

○統合領域圏
 これは、現行の非連邦国家に近い型の領域圏である。しかしその内部構制は中央集権的ではなく、高度の地方自治が保障され、領域圏と地方自治体の関係性は対等的である。

○連合領域圏
 これは、現行の連邦国家に近い型の領域圏であり、連邦国家の州に近い複数の準領域圏の連合体として構成される。準領域圏は、それが属する連合領域圏以外の連合領域圏に招聘準領域圏としてオブザーバー参加することができる。

○合同領域圏
 これは、複数の領域圏(統合型が連合型かは問わない)が合同して結成する領域圏である。連合領域圏のように憲章(憲法)を共有する強いまとまりではなく、緩やかな合同にとどまるが、世界共同体総会(世界民衆会議)へは合同する各領域圏が毎年輪番で合同代議員を送る。

△招聘領域圏
 各領域圏は、単体で合同領域圏に招聘参加することができる。これはオブザーバー参加にとどまるので、合同代議員を世界共同体に送ることはできない。

 各領域圏は、それらを囲む周辺の大地域ごとに五つの汎域圏に包摂される。すべての領域圏がいずれか一つの汎域圏に包摂されるが、複数の汎域圏の境界上に存する領域圏は自身が包摂されていない他の汎域圏に招聘境界領域圏としてオブザーバー参加することができる。

 なお、本来、世界共同体の公用語は単一の世界共通語が指定されるため、各領域圏や汎域圏の公式名称も当該共通語をもって表記されるところ、当連載では現時点でのわかりやすさを考慮し、各領域圏及び汎域圏の名称は、英語式で表記する。 

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犯罪と非処罰[新版](連載第6回)

2018-11-16 | 犯罪と非処罰[新版]

4 法定原則

 「ベッカリーア三原則」の第一は罪刑法定主義であった。「犯罪→刑罰」図式の下ではまさに犯罪と刑罰との対応関係が法律で明確に定められていなければならないとする法定原則が、刑罰制度の恣意的な運用を防止する最低限の担保となる。
 このような法定原則は「非処罰」の構想の下でも基本的に妥当する。すなわち、犯罪と処遇との対応関係は法律で明確に定められなければならない。このことは法治主義の一般原則からしても当然であるし、「処遇」といえども義務付けを伴う以上、対象者の権利を制限する性質を免れないからでもある。例えば傷害罪であれば、「人の身体を傷害した者は、・・・・の処遇に付する。」といった具合にである。

 罪刑法定主義というとき、犯罪と刑罰との対応関係を定める法律は一般法(一般刑法)にとどまらず、特別法(特別刑法)を含んでいる。そのために、現代国家は一般刑法に加えて無数の特別刑法を抱えるようになっており、一国における刑罰条項の精確な総数を誰も数え上げることができないほどである。こうした刑罰の増殖・インフレ現象は一般市民に犯罪と刑罰との対応関係を見えにくくさせ、ひいては犯罪の防止にも逆効果となっている。
 そこで「非処罰」の下における法定原則では、犯罪と処遇との対応関係を何よりも一般法で定めることが目指される。このことは、特別法の存在を一切許容しないという趣旨ではなく、交通犯罪や薬物犯罪といった一般法では律し切れない特殊な犯罪への対応を定める特別法の存在は排除しない。しかし、それらは必要最小限にとどめられる。

 ところで、犯罪と処遇との対応関係は原則として一般法で定められなければならないというとき、そうした一般法は「犯罪→処遇」定式の全体を包括する統合法、すなわち「犯罪法典」として編纂されるのでなければならない。
 すなわち、犯罪法典は日本の現行刑事法体系で言えば、刑法、刑事訴訟法に刑事収容施設法、さらには更生保護法の一部までカバーするような広範な内容を持つことになるのである。
 このような統合法であることによって、一般市民も「犯罪→処遇」定式の手続き的な流れを一覧的に把握できるようになる。法定原則の究極的な意義は、このように犯罪と処遇との対応関係が動態的に事前告知されるところにこそあるのである。

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犯罪と非処罰[新版](連載第5回)

2018-11-15 | 犯罪と非処罰[新版]

4 責任能力概念の揚棄

 諸国の近代的刑罰制度においては、犯行当時心神喪失の状態にあった者は無罪とされることが多い。このような心神喪失者=無罪という定式は「犯罪→刑罰」図式の重大な例外をなすものであるが、この例外規定はまさしく「犯罪→刑罰」図式の所産である。
 なぜなら「社会無罪説」に立つこの図式にあっては、犯罪の責任主体をあげて個人とする以上、その肝心な個人が心神喪失状態にあり、責任主体としての適格性を欠いていたならば、そもそも刑罰を科し得ないことになるからである。

 そうすると、この場合、個人も無罪かつ社会も無罪ということになり、犯罪の責任主体は誰一人いなくなってしまう。このような“野放し”に対しては世論の反発が巻き起こるため、無罪となった心神喪失者に対しては、強制的な入院を含む精神医療を受けさせつつ、行政的または司法的な観察下に置く制度で補充されることが多い。
 このような補充的処分は過去の犯罪行為に対する反作用としての刑罰ではなく、過去の犯罪行為を前提としながらも将来の再犯の危険を除去するための保安処分の性格を持つものであって、その恣意的な運用の恐れが指摘され、批判も根強い。
 しかし、このような制度は「犯罪→刑罰」図式を維持しながら、個人が犯罪の責任主体たり得ない場合には社会が一定の責任を負担しようとする意図を含んでいる点では、「社会有罪説」に歩を進めようとする萌芽とみることもできる。

 それにしても、保安処分の目的は保安=社会防衛というところに力点が置かれるため、犯罪を犯した者の矯正・更生の目的は二次的なものに後退しやすい。そのことから、恣意的な運用の恐れも生じてくるわけである。
 こうしたジレンマを克服するためには、ここでも発想の転換が必要となる。すなわち、あの心神喪失者=無罪という定式を見直すことである。
 この定式の論理的前提となっているのは、「責任能力」という概念である。「責任能力」とは刑事責任を負い得る能力、すなわち事理弁識能力及び行動制御能力を指し(とりわけ前者)、心神喪失とはそうした能力を欠いた無能力の状態とみなされている。
 ここで事理弁識能力とは要するに理性の働きのことであるから、「責任能力」概念は理性/狂気というデカルトに始まる近代合理主義の二分法的思考の所産の一つであることは明白である。しかし理性の喪失=狂気=無能力という発想は、精神疾患者に対する差別的視線に根差している。それは精神疾患者を無能力者と決めつけているのである。
 だからといって、精神疾患者にも常に「責任能力」を認めて、当然に処罰の対象とするのは、あの「犯罪→刑罰」図式をいっそう徹底していく必罰主義的な反動である。この点では、「心神喪失者」を罪に問わないという取扱いは差別的であると同時に「病者を鞭打たない」という人道主義的な配慮の一面をも含んでいることは見落とせない。

 「非処罰」の構想にあっては、「責任能力」概念を全否定するのでなく、これを弁証法的に揚棄することによって犯行当時精神疾患に犯されていた者に対しても、それ相応の処遇を与えることが目指されるのである。
 その点、「犯罪→処遇」定式の下では、犯罪を犯した個人の責任は将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任であった。このように考えるならば、犯行当時精神疾患に侵されていた者であっても、自らの疾患を治療・克服し更生を果たすべき責任を負うことは十分に可能である。
 ただし、精神疾患者に対する処遇は医学的な診断に基づく適切な精神医療を組み込んだ治療的な処遇でなければならないが、これは社会防衛目的が優先される保安処分とも異なり、矯正と更生を目指す処遇という点では、一般的な処遇と共通の目的を有する。この点において、「責任能力」概念は否定されるのでなく揚棄され、処遇内容の問題に収斂されると言える。

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共産教育論(連載第15回)

2018-11-13 | 共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(4)教員の役割及び養成
 前回見たように、基礎教育課程が原則的に通信教育として提供されると、教員の役割も既成の学校教員のそれとは大きく異なることになり、教壇に立って大勢の生徒に向かって説諭する御馴染みの教員の姿は見られなくなる。
 それに代わって、教員は基本的には生徒たちが自分のペースで標準13か年の各ステップを進んでいく上での学習アドバイザーという性格が強くなるだろう。実際、基礎教育課程の教員は、基礎教育センターに常駐して、生徒からの質問・相談に電子メールや遠隔チャット、または面談の方式で答えることが主要な役割となる。
 このような教員像は、個別学習塾の指導員に類似していると言える。実際、基礎教育課程の教員は、全員が科目ごとの専従制を採り、既成の小学校教員のように、単独で全科目を指導するという包括担当制を採らない。包括担当制は、通信制での個別学習の指導には適さないからである。
 一方で、基礎教育課程の教員は、学習塾の指導員とは異なり、あくまでも正式な義務教育課程の教員であるから、個別の教科指導にとどまらず、各生徒の適性や興味関心に応じた将来の進路も考慮した上での総合的な教育を使命とする。
 そのため、教員は担当する生徒と定期的に面談し、学習状況に加え、日常の生活状況も把握し、必要に応じて保護者とも面談する。また、保護者からの教育上の相談にも応じる場合もある。
 さらに、障碍者統合教育を実施する関係上、すべての教員は障碍児教育に関する知見も有し、障碍の内容や程度に応じた個別指導を行なう力量を要する。障碍生徒の状態によっては、家庭教師のような訪問指導も行なうこともある。
 このような教員像からすれば、その免許や養成のあり方も自ずと既存のものとは異なるものとならざるを得ない。まず、教員は基礎教育課の各科目ごとに専門教員免許が付与される一方、障碍者教育を包括した統合的免許として付与される。
 また、教員の質の均一化を図り、地域による教育レベルの格差が生じないよう、教員免許試験は全土一律なものとされる。ただし、採用に関しては各教育区ごとに行なわれるので、身分としては教育区の所在する地域圏(郡)の公務員である。
 こうした基礎教育課程の教員養成は、後に述べる高度専門職学院の一環である教育学院で一元的に実施される。すなわち、教員となるには、教育学院の基礎教育課程教員養成科を修了したうえ、上述の統一免許試験に合格する必要がある。

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共産教育論(連載第14回)

2018-11-12 | 共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(3)原則的通信教育
 共産教育における義務的な基礎教育課程は、既存の教育システムとは相当に異なるが、中でも最も大きな特色は原則的に通信制を採るということである。すなわち、通信制では提供できない一部科目を除いて、基本的には遠隔通信教材を用いて実施される。
 そのため、既存の教育システムにおける学校という形態を採らない。もっとも、13か年一貫制のシステム全体を機能的な意味で一つの「学校」とみなすことはできるが、校舎という物的な施設を伴う学校制度ではない。
 具体的に言えば、生徒は専用インターネットを通じて予め配信された通信教材を用いて、自宅または指定自習室を利用して、自分のペースで学んでいく。教材のあり方については後に述べるが、各科目ごとに既成の知識を満載した教科書ではなく、一定の基礎知識を前提に自ら内発的に問いと立てて探求する作業を繰り返していく方式である。
 もっとも、基礎教育課程の初等段階(既存義務教育制度のおおむね小学校1、2年相当)では、まだ自ら問いを立てることが困難であるため、言語や数を中心とした基礎的な知識の習得も実施されるが、それも自ら問いを立てるための前提知識の習得という意義を持つ。
そのため、通信教育で提供される科目では、教師が一方的に開設する抗議スタイルの受身的「授業」は一切排除される。ただし、基礎教育の初等段階では、アニメーションを活用した解説型の映像教材が多用されるが、13か年のステップを進むにつれ、解説型映像教材の割合は低下し、完全自習型の教材が中心を占めるようになっていく。
 通信教育に必要なインターネット回線及び端末は専用のものが無償かつ安全にすべての子どもに提供される。この専用インターネット回線は、基礎教育の教材開発を専門とする機構が直営する専用プロバイダーを通じて提供され、予めセットされた厳重なフィルター機能により教材及び教科関連の優良サイト以外へのアクセスは遮断される。
 また、前回見たように、基礎教育課程は障碍者統合教育を基本とするため、障碍を持つ生徒向けには、その障碍の特性に合わせた障碍者支援機能が備わった専用端末や専用教材が提供されることになる。
 こうした遠隔通信教育を有効に実施するため、基礎教育の提供主体となる地域圏の各地区―教育区―ごとに基礎教育センター(以下、「センター」と略す)が設置され、そこに教員を配し、指定自習室や図書室、通学で提供される一部科目用の教室や室内運動場も附置する。この施設は外見上は既存の校舎に類似するが、学校というよりは教育サポート施設である。
 生徒は、自身の趣向や家庭事情に応じて、自宅学習か指定自習室での学習かを随時選択できる。教員への質問や相談は随時電子メールや遠隔チャットで受け付けるほか、事前予約すれば、センターで教員と面談し、個別に質問や相談をすることもできる。
 なお、通信制では提供できない科目として、健康体育や生活技術といった実技科目のほか、職場見学やインターン方式を採る職業導入教育、反差別教育の一環としての障碍者コースとの交流教室などがあるが、これらについては各該当項目で改めて触れる。

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犯罪と非処罰[新版](連載第4回)

2018-11-11 | 犯罪と非処罰[新版]

3 復讐心/報復感情について

 「犯罪→処罰」図式を転換するに当たり、最も障害となるのは、復讐心/報復感情の問題かもしれない。特に殺人のように取り返しのつかない被害を惹起する犯罪に対して、加害者を処罰せず、刑罰以外の処分に付するのでは、復讐心や報復感情を満足させられないのではないかという懸念がある。
 ここで復讐心と報復感情とを連記したが、厳密には両者は別のものである。復讐心は通常、被害者本人やその近親者が加害者に対して(時として、その親族に対しても)抱く仕返しの心情であるのに対して、報復感情は社会大衆が犯罪の加害者に対して向ける第三者的な加罰感情である。
 その点、「犯罪→処罰」図式は、被害者らの復讐心とは一線を画しつつも、それを社会大衆の報復感情の中に取り込み、代表させるような形で刑罰に反映させようとする応報主義のイデオロギーを前提としている。これは、社会心理的にも巧妙な策であり、世界中で成功を収めていると言える。

 報復感情が民族や文化を越えた普遍的なものだとすれば、それは正義という人類の共通感覚に由来するものかもしれない。中でも給付と対価の関係性のような交換的正義と呼ばれるものである。これによれば、他人に害を加えたなら、加害者にも交換的に罰が加えられることが正義であるとされる。
 このような正義の感覚は、人類が先史時代から物を交換し合うという習性を身につけてきたことに淵源があるのであろう。とすると、人類が交換行為を続ける限り、言わば罪と罰の交換関係である刑罰制度からも離脱することは難しいかもしれない。言い換えれば、我々が交換経済―その権化が貨幣経済―そのものと縁を切らない限り、「犯罪→非処罰」を実現することは難しいかもしれないということである。
 そのため、「犯罪→非処罰」図式を完遂するには、貨幣経済が除去された共産主義社会の実現を要するという考えに行き着く。原理的には交換行為をしない共産主義社会における主要な正義は交換的正義ではなく、各人にその価値に応じた配分をなすべきとする配分的正義が軸となる。
 そうなれば、犯罪行為者に対しても、応報的な刑罰ではなく、その行動科学的な特性や社会的な要因を考慮した最適の矯正・更生処遇を与えることこそ正義であるという認識が共有されるようになるに違いない。

 とはいえ、被害者及びその近親者の復讐心に関しては、それを抑制することはたとえ配分的正義を軸とする共産主義社会にあっても不可能ではないかという疑念は残るかもしれない。
 ただ、復讐心の発生源もやはり、やられたらやり返さなければ不公平だという感覚に由来しており、これも広い意味では例の交換的正義の感覚と同種のものである。しかし、復讐心はより当事者性が強いため、それが充足されないことへの不満は大きなものとなり、新たな復讐犯罪を招きかねないという懸念があるかもしれない。
 この深刻な課題に対して、宗教的な博愛精神や慈悲の心によって復讐心を抑制するといった宗教的なアプローチも可能だが、これは信仰を持たない者には有効でない。より普遍的なアプローチは、やはり行動科学的なものとなるであろう。
 被害者側の心理や行動を主題的に研究する被害者学は現代の刑罰政策においても興隆し、発展しつつあるが、「犯罪→非処罰」図式の下でその発展がさらに促進されれば、被害者やその近親者の復讐心を軽減・緩和するための心理的・社会的な援助の技術と制度とが確立されるだろう。

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犯罪と非処罰[新版](連載第3回)

2018-11-10 | 犯罪と非処罰[新版]

2 社会は犯罪に対して責任を負わねばならない

 犯罪という負の社会現象に対して、社会はどのような責任を負うべきか━。実のところ、「犯罪→刑罰」図式の下ではこうした問い自体が無意味なものとなる。なぜなら、この図式の下で犯罪に対して責任を負うべきは犯罪者個人であることに疑いはないからである。すなわち、社会は常に無罪である。言わば「社会無罪説」である。
 教育刑論はこうした「社会無罪説」をいくぶんか修正しようと努めてきた。教育刑論は犯罪の究極的要因をその時代の社会構造や社会環境に求めつつ、そうした個人にとって抗い難い社会的諸条件に制約されて犯罪に走った者に対しては矯正と更生のための手段として刑罰を科する一方で、犯罪の温床を作った社会の歪みを是正することにも目配りをする。
 このような教育刑論の方向性は科学的であるが、教育刑論といえども依然として「犯罪→刑罰」図式に係留されている限り、「犯罪者に甘い」「犯罪を社会のせいにするな」等々の論難に抗し切れないであろう。

 ここでも根本的な発想の転換を必要とする。すなわち、犯罪という反社会的な事象に対して社会は有罪である(社会有罪説)。それにしても、社会はいかなる意味で犯罪に対して有罪なのだろうか。
 先に、犯罪とは社会的な個人の反社会的逸脱行動であると定義した。ここで社会的な個人とは、社会的動物としての人間個体のことである。人間は社会内においてのみ個別化できる動物である。つまり、社会と全く無関係に存在し得る人間個体=個人はあり得ない。なぜなら、そもそも人間的本質とは社会的諸関係(構造)の総体にほかならないからである。
 とすると、個人の行動にはそうした社会的諸関係が映し出されているはずである。とりわけ犯罪行為は社会的諸関係の歪みを病理的に映し出す。そうした意味で犯罪とは比喩的に社会体の疾患であると言えるのである。別の言い方をすれば、社会は犯罪に温床を提供し、犯罪を誘発したことに対して「有罪」なのである。
 このように定式化することは、犯罪を実行した個人の責任を抹消してしまうことを全然意味しない。犯罪を実行した個人も自らあえて犯罪行為という誤った行動選択をしたことに対して無答責ではあり得ない
 この関係をより標語的に表現するならば、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」ということになるだろう。
 このような個人と社会との相互責任連関の中で、犯罪の実行者(及び共犯者)たる個人が負うべき責任はもはや刑罰の強制という形では現れず、矯正・更生のための処遇の賦課として現れるのである。

 この点に関して、自ら犯した犯罪行為に対する応報としての刑罰を強調する応報刑論は、犯罪者に刑罰を科することこそ、自由なる個人の責任主体性を尊重する仕方なのだと論ずるが、実のところ、そうした社会から完全に遊離した観念的な個人としての責任主体を措定することによって、かえって“主体”を受刑者という受動的な地位に追い込む矛盾を来たしているのである。
 これに対して、「非処罰」における責任は刑罰のように過去の犯罪行為に対する反作用として強制される反動的な責任ではなく、過去の犯罪行為を前提としながらも、将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任である。
 他方、社会が負うべき責任とは、社会に内在する犯罪の誘発要因を除去するとともに、適切な施策と制度を通じて犯罪を犯した個人を矯正し、更生させる責任である。この意味において、 「非処罰」とは決して犯罪の無責任な放置ではなく、社会が自らの責任を果たすことになるのである。

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犯罪と非処罰[新版](連載第2回)

2018-11-09 | 犯罪と非処罰[新版]

1 序論

 犯罪を犯した者には刑罰が加えられるという鉄則、すなわち「犯罪→刑罰」図式は現時点でもまだ世界中で常識であり続けている。そのため、本拙論のキーワードとなる「非処罰」は世界の非常識ということになりかねない。
 しかし、ここで予想され得る誤解を解いておくと、「非処罰」(nonpunishment)とは犯罪を放置し、犯人を何ら処分しないこと、すなわち俗に言う“野放し”を全然意味していないということである。
 いわゆる“野放し”とは「不処罰」(impunity)であり、「非処罰」とは厳に区別されなければならない。「不処罰」は犯罪の無責任な放置であり、司法官憲の怠慢や場合により汚職を伴う不正にほかならない。

 これに対して、「非処罰」とは犯罪を犯した人を刑罰ではなしに、矯正と更生を促進するために効果的な処遇(treatment)に付することをいうのであり、当然にもそれは不正ではない。
 この「処遇」という術語自体は、刑罰制度の枠内においても受刑者の矯正や刑余者の更生のために与えられる処遇を指す「犯罪者処遇」のような形で使われている。これは明らかに教育刑論の所産である。
 しかし、そうした「処遇」も刑罰制度の枠内にとどまる限りは、懲役労働に象徴されるように、教育よりも懲罰に比重を置かざるを得ない。そこで、非処罰の構想にあっては「犯罪→刑罰」という図式を根本的に転換し、「犯罪→処遇」という新しい定式に取って代えようとするのである。

 ここでは、犯罪という法益侵害はもはや単なる個人の邪悪・破廉恥な振舞いではなく、社会的な個人の反社会的逸脱行動として把握される。比喩的にいえば、犯罪とは社会体の疾患であり、それは処罰でなく、治療の対象である。
 もちろん、これは比喩であり、犯罪は文字どおりの病気とは異なり、窃盗や殺人のように「悪」と評価される行為も含まれる。しかし、それはあくまでも犯罪行為に対する事後的な倫理的評価であるにすぎない。
 「犯罪→処遇」定式の下では、犯罪は社会を構成する―それゆえに社会構造の影響を免れ得ない―人間個体の反社会的な法益侵害行動と位置づけられる。要するに、「犯罪→処遇」図式の下での犯罪概念はより行動科学的及び社会科学的に把握されると言ってよいであろう。

 ここで、「非処罰」と類似するが明確に区別すべき概念を見ておく。その一つは「非犯罪化」(decriminalization)ないし「非刑罰化」(depenalization)である。これらはいずれも特定の犯罪行為について、そもそも犯罪とみなすことをやめること(=非犯罪化)や、犯罪ではあるが刑罰に代えて行政罰など他の制裁処分を科すること(=非刑罰化)を意味している。
 従って、あらゆる犯罪について刑罰を科さないこと、要するに刑罰制度の全廃を意味する「非処罰」と混同されてはならない。ただし、「非刑罰化」を究極点まで推し進めていけば「非処罰」に至るという限りでは、「非刑罰化」と「非処罰」の間には連続性がある。
 また「訴追免責」(immunity)と「非処罰」も混同されてはならない。「訴追免責」とは、特定の事件において、訴追を免除することを条件に共犯者や共謀者などに関する情報を引き出す制度であり、あくまでも個別事件限りでの司法的戦略にすぎないから、「非処罰」とはそもそも全く次元を異にする概念である。

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アメリカン・ファシズム足踏み

2018-11-08 | 時評

現在、アメリカ合衆国は一つの歴史的な社会実験の渦中にある。それは、古典的な三権分立テーゼに忠実な現行合衆国憲法下で、どこまで全体主義ファシズムが可能なのかどうかという壮大な二律背反的実験である。

先般実施されたいわゆる中間選挙の結果次第では、本稿タイトルも「アメリカン・ファシズム着々」となるはずであったところ、結果は、上院で与党・共和党が議席を伸ばして多数派を維持するも、下院では野党・民主党が多数派を奪回するといういわゆる「ねじれ国会」の見込みとなったため、「着々」とは行かなくなった。

本来、典型的なファシズムを完成させるためには、国家指導者への徹底した権力集中と、それを可能とする翼賛的政治マシンの役割を果たす政治組織(政党の形でなくともよい)とを必要とする。その点、トランプ大統領は就任以来、自身の主張によれば憲法修正すら可能とする万能の大統領令を多発して、議会を迂回した政策執行を常套としてきた。

政治マシンに関しても、150年以上の歴史を持つ愛称Grand Old Partyの共和党をほぼ乗っ取る形で、大統領の意のままに動く事実上の「トランプ党」に変質させることに成功しつつある。元来、アメリカの政党は組織力が弱く、政治クラブ的な性格が強いため、与党側から内的に大統領権力を牽制することが難しい構造にあることも、追い風である。

従来、オバマ前政権下で起きていた共和党の上下両院制覇の結果が引き継がれていたため、トランプ政権下最初の今般中間選挙で共和党が連勝すれば、アメリカン・ファシズムは「着々」となるはずであった。しかし、そうはならなかった。「ねじれ」という微妙な結果は、アメリカ有権者がトランプ政権におずおずとながら「待った」をかけたことを意味している。

とはいえ、「アメリカン・ファシズム阻止」とも言い切れない。「ねじれ」の結果、上院は共和党が引き続き握る限り、下院を制した民主党にできることは限られている。その点、アメリカ下院には優越権がなく、伝家の宝刀たる大統領弾劾に関しても訴追権しかないなど、弾劾裁判権を保持する上院の方が権限が強いことはマイナスとなる。

表向き「勝利」宣言を発したトランプ政権が、「ねじれ国会」体制という現実の中でどう出るかはまだわからない。現行憲法上、大統領に議会解散権はないため、意に沿わない下院を解散することは憲法上できないはずだが、大統領令で憲法修正も可能とする大統領の主張によれば、大統領令によって憲法を修正したうえ、下院を解散・封鎖するという強権措置も視野に入れているのかもしれない。

いずれにせよ、次期大統領選挙年である2020年に向け、"President Trump"が"Führer Trump"へと飛躍し、そのまま再選へとつながるのか、それとも"President Trump"のまま凋み、一期で去るのかの分かれ道であることに変わりない。

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