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近代革命の社会力学(連載第230回)

2021-05-03 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(4)独立戦争の展開Ⅰ~1958年まで
 1954年11月の民族解放戦線(FLN)による独立宣言に発するアルジェリア独立戦争は、1958年におけるフランス側の政変をはさみ、前半戦と後半戦に分かれる。
 前半戦は、独立宣言を経て、フランス側でアルジェリアのコロン層のクーデター決起により、フランス本国で第四共和政が崩壊し、代わって第五共和政が成立した1958年10月までの時期である。
 この時期は、アルジェリアの独立革命を力で抑圧しようとするフランスとFLNの衝突が先鋭化した時期に相当する。当時のフランス共和体制はナチスドイツによる占領前の第三共和制を継承する第四共和政であり、大統領は議会による選出制を採り、議会優位・首相主導の構造にあった。
 そうした中、フランス側の対応は当初、強硬策と融和策の間で若干揺れたものの、融和策を掲げて56年1月の総選挙で勝利した中道左派政権がアルジェリア・コロン層の突き上げを受けて強硬策に転じ、本格的な鎮圧作戦を開始した。
 これに対し、FLNは軍事部門を擁するとはいえ、物量的に劣勢であり、基本的にはゲリラ戦法とテロルを組み合わせたレジスタンス活動を展開した。コロン経営の農場・学校等の襲撃、コロンやその手先とみなされた先住民の殺害にも及んだFLNの活動手法はフランス軍側の殺戮行為とともに戦争犯罪の要素を帯び、論議の的となる。
 対するフランス側であるが、元来アルジェリアは「国内」に準じた扱いであり、その秩序維持は内務省の所管であったが、1956年3月に緊急事態法が制定されると、20万人規模の予備役兵の招集により、軍が警察権も管轄する本格的な戦争シフトが敷かれることになった。
 そうしたある種の軍政下で、フランス軍によるFLN掃討作戦も苛烈を極め、略式処刑や拷問などが多用された。その実態は1930年代のスペイン内戦にも類似するものであり、戦争犯罪に相当するレベルにあった。
 一方、この間、FLN側は56年8月、北東部のスムマム渓谷で秘密会合を開催し(スムマム会議)、アルジェリア国家の前身となる機構を設立した。これは革命成就前の未然革命に相当するもので、ここで設立された革命国家評議会や調整・執行委員会などの機構は、依然フランスが掌握する公式権力に対する対抗権力の性格を持った。
 この会議ではまだ憲法草案などの法令策定に及ぶ余裕はなかったが、軍事に対する政治の優位、国際より国内重視、集団指導制の三つの原則が採択されるとともに、フランスが完全な独立を承認するまで交渉に応じない徹底抗戦方針も確認された。
 如上三原則について言えば、第一の政治優位原則は独立後の民政確立を想定したものではあったが、依然フランス軍による大規模な掃討作戦が展開中であり、FLNにおいても軍事部門の作戦遂行能力が帰趨を握っていたことは、軍事部門指導者の台頭と権力掌握を容易にする状況を作り出した。
 第二の国内重視原則は、海外で亡命活動をするのでなく、アルジェリアでの解放戦争に注力することを意味したが、実際のところ、掃討作戦の中で指導者の拘束が相次ぎ、57年にはFLNの主力は一足先に交渉で独立を達成した隣国モロッコに退避せざるを得なかった。
 三番目の集団指導制は元来、FLNに傑出したリーダーが存在しないことを反映していたが、そうした中でも、後に初代大統領となるムハンマド・アフマド・ベン・ベラが台頭してきていた。
 ベン・ベラはFLN結成以前からの地下活動家で、50年に一度逮捕された後、二年後に脱獄、FLN結成後は海外からの武器調達を担った。56年には民間航空機ハイジャック事件を主導し、フランス当局に逮捕された後、独立まで獄中にありながら、FLNのシンボルとなった人物である。
 対するフランス側では、アルジェリア駐留軍司令官ラウル・サラン将軍が掃討作戦を効果的に展開し、FLNを追い詰めており、壊滅は目前に迫っていると思われた。


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