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近代革命の社会力学(連載補遺25)

2022-10-04 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(4)革命的決起と挫折
 「独立党」が革命的決起に傾斜した要因としてはいくつかのことが考えられるが、一つに破綻状態の財政強化のため日本やアメリカ、フランスに要請した借款の交渉が不調に終わったことに加え、当時、清国から派遣されていた軍人・袁世凱が事実上朝鮮の摂政のようにふるまい、植民地的な様相を呈し始めていたことがあった。
 そうした中、1884年6月、清国はベトナムに対する宗主権をめぐりフランスと交戦することになり、朝鮮駐留軍の半数を引き揚げた。これによって清朝による朝鮮支配に緩みが生じたことが、決起への好機を提供した。
 日本外交当局もまた親日派の「独立党」に政権を掌握させ、朝鮮への浸透力を挽回する好機ととらえたことから、急速に決起の機運が生じた。そのため、「独立党」の計画には日本公使館(竹添進一郎弁理公使)も関与したうえ、電撃的なクーデターの手法で一気に政権を掌握することを狙った。
 とはいえ、「独立党」は文官の集団であり、武力を有していなかったため、必要な武力は主として朝鮮に駐留する日本陸軍部隊を主力に、誕生間もない新式軍隊の一部と士官学校生を動員できるのみであった。
 しかし、この空隙を突いた電撃クーデターはいったん成功し、1884年12月5日(以下、日付は1884年12月)に「独立党」を中心とする新政権が樹立された。といっても、近代的な政府ではなく、事前に国王・高宗の了解も得たうえ、旧来の朝廷機構の枠内で構成された新政権であった。
 構成メンバーとしても、宰相に当たる領議政に大院君の従弟が就くなど、清国に拘束されていた大院君に近い人物が起用されており、財務相に相当する役職に就いた金玉均をはじめ、「独立党」人士と本来は攘夷派である大院君派の連合政権に近い形であった。
 このように、経過としては守旧派をも取り込んだクーデターであったが、新政権が公表した14箇条の綱領(革新政綱)には、門閥の廃止と人民平等の権利の確立、内閣制度の創設、地租法の制定、財政官庁の統一化、政令に基づく行政など、近代的な政治経済制度の樹立に向けた項目が盛られており、新政権が持続すれば、まさに革命的な「甲申維新」となるはずのものであった。
 しかし、新政権は「政綱」の筆頭に大院君の解放と帰還を掲げ、新政権にも大院君寄りの人物を起用したこと、さらに高宗を清朝から自立した「皇帝」として改めて推戴しようとしたことは閔妃とその支持勢力「事大党」及び清国を刺激し、直ちに反革命の態勢に赴かせた。
 6日から清国軍による反撃が開始されると、竹添公使は日本軍将校の反対を押して撤収を指示したため、新政権は実質上武装解除状態となった。これが打撃となり新政権は瓦解、7日には高宗が清国軍に拘束され、清国の要求により、親清派の臨時政権に立て替えられた。
 こうして、「独立党」の革命的決起はわずか数日の天下で挫折することとなった。その要因として、技術的には、独自の武力を持たない両班文官集団が主導したため、武力を専ら日本に依存したこと、その日本が清国軍の反撃の中、あっさり手を引いたことも決定因であった。
 より深層的には、この時期の朝鮮王朝は閔妃が国王を凌ぐ実権を掌握して外戚門閥政治を展開する勢道政治の絶頂期にあり、門閥廃止という「独立党」の政綱を実現できるだけの条件が熟していなかったこと、そのため「独立党」はその母体である両班階級の間ですら支持の広がりを欠いていたことが、挫折要因として考えられる。


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