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近代革命の社会力学(連載第293回)

2021-09-10 | 〆近代革命の社会力学

四十一 バングラデシュ独立革命

(4)独立の達成と混迷
 1971年3月26日に始まったバングラデシュ独立戦争はパキスタン軍と東パキスタン側の独立反対組織双方による凄惨なジェノサイドを伴った。年末まで続いた戦争の過程での犠牲者数は、バングラデシュ政府の公式見解では300万人とされるが、より低く見積もる推計によっても20万人は下らないというから、まさに大虐殺のレベルであった。
 このような民族浄化戦争の様相を呈したのは、パキスタン軍とその協力組織が東パキスタンのヒンドゥー教徒のベンガル人の絶滅を計画的に企てたためと見られる。実際のところ、東パキスタンのベンガル人のうちヒンドゥー教徒は少数派であるが、パキスタンはインドとの敵対関係から、インドのヒンドゥー教の影響が東パキスタンに及んでいると睨んでいた。
 しかし、それ以外にも、宗派を問わず、独立革命にイデオロギー的な鼓舞をしているとみなされた知識人は虐殺の標的とされたほか、女性に対する組織的な性暴力も見られるなど、バングラデシュ独立戦争におけるジェノサイドは民族浄化作戦の典型を示していた。
 パキスタンが独立運動の背後関係を疑っていたインドは当初、直接の介入を避け、国際社会の支援介入を要請していたが、色よい反応は得られず、一方で国境を接する東パキスタン側から大量の難民が押し寄せる状況を黙視できず、71年12月、直接的な支援介入の軍事作戦を開始した。
 このインドの参戦はインド‐パキスタン間での三度目の武力紛争となったが、優勢なインド軍の介入により、それまで徹底した民族浄化作戦を通じて優位に立っていたパキスタン軍がにわかに劣勢となり、12月16日、パキスタン側は正式に降伏を宣言した。これによって、9か月近くに及んだ戦争が終結し、東パキスタンはバングラデシュとして独立を果たしたのである。
 独立後の初代大統領には、臨時政府の大統領に就きながら戦争中はパキスタンの獄中にあった人民連盟のムジブル・ラーマンが帰還して就任したが。しかし、彼はすぐに辞任し、首相として「民族主義・世俗主義・民主主義・社会主義」を基調とする新憲法の制定を主導、73年の独立後最初の総選挙で人民連盟を圧勝に導いた。
 しかし、74年には大規模な飢饉に見舞われ、政治的にも急進化した左派の反乱など、政情不安を制御できなかったため、ラーマンは1975年1月に改めて大統領に就任して戒厳令を布告、人民連盟以外の政党を禁止するという権力集中体制を敷いた。
 しかし、以前からの政治腐敗や縁故主義への批判に加え、革命当初に逆行するような権力集中体制は反発を呼び、体制内からムジブル・ラーマンを排除する新たな革命の芽が生じてきた。それが形を取って現れたのが、75年8月のクーデターであった。中心となったのは、独立抵抗組織を基盤に結成されたばかりの軍部の少壮将校と一部の文民であった。
 彼らは事前の計画に従い、1975年8月15日、首都ダッカにて、ムジブル・ラーマンとその家族を暗殺した後、計画者の一人である文民のカンデカル・モシュタク・アーメッド前商務相が大統領の座に就いた。
 これは形式上クーデターであるが、独立革命の指導者でもあったムジブル・ラーマンの排除と体制転換を狙った点で、二次革命と言える実質を持っていた。しかし、アーメッド政権も安定せず、同年11月には新たなクーデターにより失権、その後も二転三転の混迷状況に陥る。
 ようやく安定を見たのは、独立戦争の英雄でもあったジアウル・ラーマン将軍が政権を掌握した1976年以降のことである。彼は人民連盟に代わるバングラデシュ民族主義党を結党し、保守的かつ権威主義的な統治で政情を安定させたが、彼も1981年に暗殺され、翌年以降、クーデターで政権を掌握した側近のフセイン・モハンマド・エルシャド将軍の独裁政治が続く。
 このように、バングラデシュでは独立後、民主政を確立することに失敗し、軍部の政治介入が頻繁に起こる傾向を生じた。文民政治が定着するのは、1990年に民主化運動によりエルシャドが辞職に追い込まれて以降のことである。
 これ以降は独立革命の範疇を超え出るので本稿の論外となるが、民主化が進んだ90年代以降のバングラデシュは、75年の暗殺を免れたムジブル・ラーマン遺子(長女)のシェイク・ハシナとジアウル・ラーマン未亡人のカレダ・ジアという二人の遺族女性政治家が二大政党の指導者として勢力争いを繰り広げるという異色の女性政治の時代となる。


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