ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第200回)

2021-02-16 | 〆近代革命の社会力学

二十八 バルカン・レジスタンス革命

(4)ギリシャ・レジスタンス未遂革命

〈4‐3〉内戦激化への過程
 ギリシャのレジスタンスは、ユーゴやアルバニアと異なり、イギリスが支援介入してきたことで、より複雑になり、共産党主体のレジスタンスが平行移動的に戦後の支配勢力に座ることにはならず、新生国軍との間での激しい内戦を惹起する結果となった。
 イギリスがバルカン地域の中でもギリシャに並々ならぬ関心を示したのは、ギリシャに共産主義政権が出現することで、バルカン半島全体が共産化されることを阻止したいソ連を除く連合国勢力の意思を反映していたものと考えられる。
 そのため、ギリシャはレジスタンス継続中からレジスタンス勢力間の対立を仲裁するとともに、ドイツ軍を駆逐した後は、レジスタンス組織の武装解除を図った。手始めに、1944年9月には全レジスタンス組織をイギリス軍の指揮下に統制することとした。
 一方、ソ連もギリシャに関しては自己の勢力圏内に置くことにこだわらず、イギリスの管理下に置くことに同意していたため、ソ連の影響下にあったギリシャ共産党及び民族解放戦線(EAM)もその方針に従い、武装解除に応じようとした。
 しかし、EAMの武装部門として犠牲を伴うレジスタンスの前線を担ってきた民族人民解放軍(ELAS)はこの方針に不満を持ち、EAMとELASの間の亀裂が生じた。そして共産党内部でもユーゴのチトーと結んで、今度はイギリスを侵略勢力に見立ててレジスタンスを継続しようとするグループとモスクワに忠実なグループに分裂した。
 一方、亡命政権首班から新生ギリシャ首相となったパパンドレウは新たな国軍の設立を発表し、取り急ぎ、新政府の軍事力の強化を図ったが、ELASとの対立は避けられず、1944年12月以降、新政府軍+イギリス軍とELASの間で戦闘が開始された。
 ELASは一時的にアテネを占領したものの、年が明けるとイギリス軍に押し返され、1月初めにはアテネから撤収、最終的に武装解除に合意した。内戦第一段階はこうして、比較的限定的な戦闘をもって終結し、2月には全レジスタンス組織の武装解除を軸としたヴェルギサ合意が締結された。
 ところが、これで解決とはならず、水面下で反共組織や国軍による共産党排撃が始まると、対抗上、共産党もこれを受けて立つ形で、改めて君主制打倒のための武装闘争を宣言した。こうして、枢軸国へのレジスタンスを終えた共産党は、ここから真の革命の道に乗り出したとも言える。
 この第二段階の内戦は1946年3月、旧ELASが改めてギリシャ民主軍(DSE)として再編された時に始まった。 DSEはユーゴやアルバニアの共産主義政権の支援を受け、山岳地帯を拠点にゲリラ戦を展開ししたため、政府軍とこれを支援するイギリス軍は苦戦を強いられた。
 一方、1946年には戦後初となる議会選挙が施行されたが、共産党はこれをボイコットしたため、君主制支持派の右派政党が圧勝、国王ゲオルギオス2世が帰還して、ギリシャ王国が復活した。これ以降、内戦は共産党対新王国政府軍の間のものとなる。
 翌年の1947年に入ると戦線は拡大し、DSEが優勢となった。勢いに乗るDSEは同年末、アルバニア国境のグラモスに新たな革命政府となる臨時民主政府を樹立、首相には古参の共産党員でレジスタンス指導者でもあったマルコス・バフィアディスが就いた。
 この後、DSEは地方農村部にシンパ組織を構築する一方で、親政府の集落は焼き払う戦術で、首都アテネの再奪回に向けて進撃を続けたため、ギリシャ本土全域に戦火が拡大し、内戦はレジスタンスを超える犠牲を伴い、激しさを増していった。


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