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近代科学の政治経済史(連載第35回)

2022-12-19 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

疑似科学としてのナチス人種学
 ナチスのイデオロギーの中核はいわゆるアーリア人種優越思想であるが、それは総帥ヒトラーの自伝にしてナチスの宣伝書もある『我が闘争』でも展開されている。しかし、ヒトラー自身は科学者ではないから、科学学説としての展開ではない。
 ナチス人種学におけるアカデミックな主導者は、ナチ党員で「人種学教皇」の異名を取ったハンス・ギュンターであった。ギュンター本来の専攻は比較言語学であり、科学者としては独学に近い人物であったが、専攻を転じて生物学・人種学の教授となった。
 ギュンター本来の専攻であった比較言語学においては、19世紀に共通祖語が再構されたインド‐ヨーロッパ語族(印欧語族)として包括される民族集団をアーリア人と同定することが通説化してきたことに触発され、専攻を転じた可能性はある。
 ただし、ナチス人種学におけるアーリア人は、インド人やイラン人等まで広く包摂される比較言語学上のアーリア人とは範囲を異にしており、ヨーロッパ人(白色人種)の中でも特に金髪・長頭・碧眼を形質的特徴とするとされる北方人種に限局されていた。
 ナチス人種学はそうした人種分類のみにととまらず、アーリア人種を最上位の優越人種とみなしつつ、それ以外の人種を劣等的とみなす徹底した人種階層化を行ったことに特徴がある。その点で、これは科学的な人類学ではなく、政治色を帯びた特異な人種学であった。その意味で、科学の衣をまとった疑似科学である。
 このような疑似科学としての人種分類学の源流としての人種理論は近代科学が創始された17世紀頃から西欧・北米社会に普及しており、少なからぬ科学者が主唱することもあったため、DNA解析に基づく人類遺伝学が確立されるまでは、科学と疑似科学の境界線上にある領域であった。
 とはいえ、明確な人種優劣評価を伴う疑似科学的な人種学=アーリアン学説はナチスが台頭した1920年代から30年代にかけての西欧、特にドイツで隆盛化しており、そうした時流を巧みに政治利用したのがナチスであったとも言える。
 実際、アーリアン学説を展開した論者の大半は、如上ギュンターをはじめ、真の意味での科学者ではなく、むしろ人文系の学者・知識人たちであった。その19世紀における先駆者と見られるのが、フランスの文学者・外交官アルテュール・ド・ゴビノーである。
 ゴビノーは主著『諸人種の不平等』で、アーリア優越主義を最初に説いた人物と目されているが、この著書は科学書というよりは文明書であり、ユダヤ人に関しては、むしろ優越人種の一種とみなし、文明推進者として称賛していた点で、ナチス人種学の直接的源流とはみなし難い。
 ユダヤ人を文明破壊者と指弾する強硬な反ユダヤ主義と対になる形でアーリア人種優越思想を核心とするナチス人種学は、当時のドイツに渦巻いていた反ユダヤ主義の風潮をも併せ利用する形で、ナチスが独自に形成したものと言えるだろう。
 ナチスは、こうしたアーリア優越主義‐反ユダヤ主義のイデオロギーに基づき、ユダヤ人の計画的殺戮(ホロコースト)を断行したのであるが、一方では「純血」アーリア人種を殖やす目的から、未婚アーリア人女性の出産施設レーベンスボルン(生命の泉)も創設したことは、今日あまり知られていない。
 レーベンスボルンではしばしばドイツ占領地域からアーリア人種の条件に合致する子どもを拉致し、アーリア人家庭の養子とする強制養子縁組の仲介も実施されており、まさにナチス人種学の実践施設としての意義を持っていた。
 こうしたアーリア人増殖とユダヤ人絶滅とはナチス人種学実践の車の両輪と言え、レーベンスボロンもアウシュヴィッツに象徴される絶滅収容所もともに、ナチス権力の最大基盤である親衛隊が管理運営したことも必然的であった。

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