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近代革命の社会力学(連載第72回)

2020-02-12 | 〆近代革命の社会力学

十 ブラジル共和革命

(3)1889年11月共和国宣言
 ブラジル帝国に引導を渡す共和革命は、1889年11月15日、突然のように起きたが、予兆は1870年代から生じていた。三国同盟戦争が終結した1870年には、一部知識人グループによる「共和主義綱領」が発せられている。これを受けて、1873年に共和主義者の大会が開催され、以後、多くの共和主義政治クラブが設立される。
 ブラジルの共和主義運動の特徴は、オーギュスト・コントの実証主義哲学に触発されていることで、1881年には「ブラジル実証主義教会」なる一種の宗教結社まで結成されるほど、実証主義が疑似宗教化していた。それまで一部知識人の運動として事態を静観していたペドロ2世の帝国政府も、1886年になって、ようやく主要な共和主義者を検挙するという抑圧で牽制した。
 しかし、ブラジル大衆の間で、なお皇帝は崇敬されており、共和主義が大衆の間に浸透することはなかった。むしろ、皇帝、ひいては皇室への反感を強めていたのは、当時のブラジルにおける主要なブルジョワ階級であった奴隷制農園主層であった。
 前回も見たように、ペドロ2世は近代的な奴隷制廃止論者であり、農園主層の反発も配慮して漸進的な奴隷制廃止を進めようとしていたところ、娘のイザベル摂政皇女がより急進的な奴隷制全廃を進めたことで、農園主層の怒りを沸騰させた。これが革命の直接的な動因となった。
 かれらは思想的な共和主義者というよりも、奴隷制の維持という経済的権益に主たる関心があり、奴隷制廃止が撤回されるなら、帝政護持に回ることもあり得たが、次期皇帝候補がイザベル皇女以外にいない状況では、帝政廃止と共和制移行がかれらにとって唯一の利権保持の手段だったのである。
 しかし、武力を持たない農園主層だけで革命を実行することは不可能であるから、かれらは軍部に接近した。ブラジル帝国ではかなり厳格な文民統制が敷かれており、軍部は皇帝と文民政府に従属し、将校らは原則としてメディアで意見を表明することも禁じられていた。
 三国同盟戦争では帝国のために多くの犠牲を払いながら、十分に社会的な尊敬を受けることなく、束縛されている状況に不満を募らせた士官学校生や青年将校の間には、実証主義哲学が浸透していった。
 このような状況下で、農園主と軍部の利害が一致を見たため、急速に革命の機運が高まった。しかし、民衆蜂起に期待することは如上のような事情から不可能であったので、軍事クーデターの手法を採るほかなかった。その指導者に目定められたのが、軍の長老デオドロ・ダ・フォンセカ元帥であった。
 三国同盟戦争の英雄でもあったデオドロ元帥は元来、王党派であり、当初は革命の指揮を執ることを渋ったが、おそらくは軍人の地位の向上という口上や初代大統領の地位の保証で革命派に説得され、決起を承諾した。こうして、デオドロ元帥に率いられた国軍部隊が帝国政府を転覆し、帝政廃止を宣言した。
 あまりにも電光石火であっさりと決まったため、しばしば単に「ブラジル共和国宣言」と呼ばれることもある政変であるが、完全に無血というわけにはいかなかった。軍部も共和派の一枚岩ではなく、「宣言」の直後から翌年1890年初頭にかけて、一部の王党派部隊が反革命反乱を起こし、参加将兵が相当数処刑されている。
 しかし、こうした王党派の反乱は散発的なものに終わり、王党派の組織化はなされなかった。それはペドロ2世自身、健康を害しており、権力維持の意欲を喪失していたため、革命に抵抗することなく、退位とブラガンサ本家が支配するポルトガルへの一族亡命の道を選んだからである。
 こうして、ブラジル共和革命はひとまずあっさりと成功し、制憲会議を称する臨時共和国政府首班にはデオドロ元帥が就任した。しかし、臨時政府は革命の実働部隊を担ったデオドロら職業軍人と革命の背後にあった農園主層らのブルジョワ階級、さらには共和主義知識人を含めた寄り合い所帯であり、多難が予見されるものであった。


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