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近代革命の社会力学(連載第347回)

2021-12-16 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(3)革命運動の隆起
 パフラヴィ―朝による「白色革命」が掲げた多数の改革項目の中でも、特に革命につながる反作用を招いたものは、農地改革と脱イスラーム化である。この両項目は、それぞれイラン社会の永年にわたる下部構造と上部構造とに変革に加える要素であったから、必然的に強い反作用を招いたのであった。
 政府が買収した土地を農民に分配した農地改革では、まず地主層が反発したことは言うまでもないが、農地分配は不完全であり、かえって分配を受けた中産農家と貧農の階層分化を促進し、貧農の都市部流出を招いた。
 一方、脱イスラーム化は当然にも、保守的な聖職者のイデオロギー的な反発を招いたが、実は高位聖職者のかなりの部分が地方の地主層の出自であり、モスクの運営資金源も不在地主としての地代に依存していたため、農地改革への不満と脱イスラーム化への反発とは構造的につながっていた。
 中でも、後に革命の最高指導者として台頭するルーホッラー・ホメイニーはそうした地主階級出自の有力な聖職者として、1940年代から頭角を現す。彼は先代のパフラヴィ―朝初代皇帝レザー・シャーの時代から続く近代化政策に一貫して異論を唱え、イスラーム保守派の代表的な理論指導者と目されるようになった。
 ホメイニーは1963年に始まる「白色革命」に対しては最も強硬な反対論者となったため、彼を危険視した政府によって64年以降、国外追放処分となり、トルコ、イラクを経てフランスに亡命を余儀なくされた。
 ただ、こうした保守派の蠕動のみでは、革命に進展することはない。革命が隆起するに当たっては、左派の活動も寄与している。左派は、「白色革命」の反社会主義的な要素(または中途半端な折衷主義の要素)に反発していた。
 その点、イランにおける最大左派トゥーデ党は前に見たとおり禁圧され、閉塞していたが、新たにイスラーム教義とマルクス主義を融合したユニークな理念に立つモジャーヘディーネ・ハルグ(イラン人民聖戦士団)なる左派イスラム主義のグループが台頭し、武装ゲリラ活動を開始した。
 一方、50年代に失権したモサデク元首相の実質的な後継者としてイラン自由運動を結成したメフディー・バーザルガーンが60年代以降、リベラル民主派の中心人物となり、主としてパフラヴィ―朝の専制主義を批判し、より民主的な体制の樹立を目指していた。
 このように、「白色革命」は種々の反体制運動を刺激していたが、統一性を欠き、運動は決定力を持たずにいたところ、ホメイニーは亡命中の身ながら、その思想家的なカリスマ性から、イデオロギー上の相違を超えた運動全体の精神的な指導者として、次第にその影響力を増していく。
 一方で、「白色革命」が特に重視した教育の整備は、大衆の識字率を飛躍的に高めるとともに、大学生など有識青年層を分厚くしたことで、革命的な意識の覚醒を助長した。この社会変化が革命の時機を早める働きをした。皮肉にも、「白色革命」における重要な成果面が革命を促進したのである。


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