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近代革命の社会力学(連載第183回)

2020-12-25 | 〆近代革命の社会力学

二十六 グアテマラ民主化革命

(3)民衆蜂起から軍民連合革命へ
 ウビコの抑圧的で冷酷なファシズム体制は徹底した緊縮政策の断行により大恐慌後の経済再建を果たしたことがその長期支配の担保となっていたが、第二次世界大戦渦中の経済危機がそうした従前の経済政策の成功を相殺すると、にわかに揺らぎ始めた。
 体制崩壊につながる民衆蜂起の発端となったのは、隣国エルサルバドルで1944年5月に起きた民衆蜂起であった。これは、ウビコ体制とほぼ並行して1931年から続いていた同類のマクシミリアーノ・マルティネスによる軍事独裁体制を打倒した政変である。
 しかし、エルサルバドルではマルティネス失権後の権力の空白を新たな軍事政権が埋め、革命は不発に終わったため、多くのエルサルバドル人革命家がグアテマラに亡命してきた。そうした背景の下、グアテマラでも44年6月、学生による抗議行動が発生した。
 これを契機に、専門職を含む中産階級に労働者も加わった抗議行動に発展したが、ウビコは憲法を停止し、戒厳令を布告する弾圧措置で応じた。しかし、6月25日の平和的デモの渦中、デモに参加した一人の女性教員が死亡したことが民衆を刺激し、抗議行動が全国に波及する中、ウビコはついに辞任した。
 このように、無名のデモ参加者の死が抗議行動拡大の契機となる事例は、1960年、当時の岸内閣を退陣させた日本の日米安全保障条約改定反対デモ行動の渦中、一人の女子学生が死亡した際にも見られた。体制側からすれば、蟻の一穴が政権崩壊につながる戒めとなる事例である。
 もっとも、狡猾なウビコは自身の腹心の三人の将軍から成る軍事評議会に権力を移譲することにより、実権温存、あるいは将来の政権復帰の余地を残そうと図った。この策が功を奏していれば、民衆蜂起は革命に進展することはなかったはずであるが、軍内部に革命派の青年将校グループが形成されていたことが、革命の道を切り開いた。
 そうした革命派青年将校グループのリーダーは、スイス移民の父を持つハコボ・アルベンス・グスマンであった。軍の若手エリートであったアルベンスは、エルサルバドル人の進歩的な妻マリア・ヴィラノヴァの影響でマルクス主義など社会主義思想に覚醒していた。彼はまた、士官候補生団の長として士官の育成にも当たっていたことで、若手将校への影響力を持っていた。
 他方、ウビコの辞任を導いた民衆抗議行動であるが、ウビコ体制の延長にすぎない後継の軍事評議会に対しても対決姿勢を示し、退陣を迫っていたところ、武力を掌握する軍事評議会を攻めあぐね、膠着状態となっていた。
 革命の導火線となったのは、44年10月1日の野党系有力紙編集者の暗殺事件であった。これを機にアルベンスら軍の革命派と民衆の抗議運動が急速に連携し、軍民共同の革命集団が形成される。同月19日、アルベンスらに率いられた兵士と一部学生が、ウビコによって建設され、独裁の象徴でもあった壮麗な国家宮殿(大統領府)を襲撃し、短時間で首都を制圧した。
 この軍民連合の革命により、軍内部の支持をも失っていた軍事評議会は崩壊し、新たにアルベンス(大尉)のほか、アルベンスの同僚将校フランシスコ・ハビエル・アラナ(少佐)、民衆抗議行動のリーダーであったホルヘ・トリエロの三人から成る革命統治評議会が樹立された。
 このような職業軍人と民間の抗議行動リーダーという通常であれば敵対的な関係性にある人物が連合した革命政権は稀有であり、革命の方法論としては、グアテマラ民主化革命の成功を象徴する新体制であった。
 しかし、マルクス主義者ではないが、マルクス主義に共感的なアルベンス、反ウビコながら反共保守主義のアラナ、民間の活動家トリエロの三人の間には反ウビコ以外での共通点が薄く、この危うい寄せ集めの三頭政治は革命の方向性を不透明なものにしていた。


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