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近代革命の社会力学(連載第346回)

2021-12-14 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(2)パフラヴィー朝と「白色革命」
 1979年イラン革命の端緒となるのは、当時のパフラヴィ―朝第二代皇帝モハンマド・レザーが開始した大々的な近代的社会経済開発計画であった。それは真の意味での革命ではなかったが、強大な皇帝権力を背景に、反共の立場から、社会経済の全般的な改革に及ぶ計画であったことから、「白色革命」と称された。
 この上からの大改革策は未完に終わったものも含めれば、19項目にも及ぶ総合的な計画であったが、そのうち優先度の高い6項目は1963年に国民投票をもって決定されたため、それらは憲法化されることこそなかったものの、憲法に近い規範性をもって施行されることとなった。19項目を貫くイデオロギー的な基軸は、反社会主義と反イスラーム主義の二本柱から成る。
 前者は、1950年代前半に立憲革命以来のベテラン政治家モハンマド・モサデクが首相として率いた民族戦線政府が施行した石油産業国有化を柱とする社会主義的政策の否定を意味した。そのため、「白色革命」では、国営企業の民営化が追求された。
 ただし、一方で、農地改革(大土地の有償による買収と農民への分配)、水資源や森林・牧草地の国有化、民営企業における労働者の利益共有(職場の純利益の20パーセントを取得)、物価統制、地価統制・土地投機規制などの社会主義的な施策も相当に包含するなど、折衷的な性格が見られた。
 他方、後者の反イスラーム主義は、伝統的なイスラ―ム的慣習の排除を意味した。具体的には、女性参政権の保障、ヒジャブ(ベール)着用の禁止、一夫多妻制の禁止など、女性の権利の向上に重点を置いた施策が志向された。
 その他、具体的な改革項目には、無償の義務教育制度、全国民を対象とする社会保険制度、乳幼児を持つ母親への無料の食糧配給などの福祉国家政策も包含されており、全体を見ると、「白色革命」は西欧的な福祉国家をモデルとした修正資本主義的な傾向を持つ社会経済改革であったと評することができる。
 しかし、その改革項目は社会経済の下部構造の改革に集中し、上部構造の柱となる政治制度の改革には及んでいないことが注目される。政治的には立憲君主制の外形を取りつつも、実態は皇帝の独裁であり、反帝政運動はいかなる理念によるものであろうと、悪名高い政治警察・国家諜報保安機構(SAVAK)によって容赦なく弾圧された。
 中心を成す下部構造に関する改革に関しては、年率10パーセント近い経済成長を促すなど成功を収めたとはいえ、オイルマネーと結びついた贈収賄も横行し、改革項目の19番目に小さく掲げられていた汚職撲滅は全く効果がなく、かえって汚職が構造化された。
 こうして、専制君主制の下での修正資本主義的・世俗主義的改革という性格を持つ「白色革命」は、矛盾を含んだまま1970年代を迎える。ただし、革命勃発までには16年の年月を隔てており、その間に「白色革命」が矛盾を内発的に克服できていれば、革命を回避し得た可能性はあるも、そうはならなかった。


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