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近代革命の社会力学(連載第223回)

2021-04-16 | 〆近代革命の社会力学

三十二 エジプト共和革命

(3)反英蜂起から共和革命へ
 1952年7月の共和革命は、その後、自由将校団のメンバーが相次いで大統領に就いた経緯から、自由将校団が世界的な脚光を浴びることになったが、実際のところ、革命の導火線を引いたのは彼らではなく、スエズ運河西岸の都市イスマイリアの警察官たちであった。
 彼らはイギリスのエジプト進駐70周年という記念の1952年の年初から、イギリスの港湾施設を襲撃、占拠するなどの抗議活動を活発化させていた。これに対し、駐留英軍が強制排除に乗り出し、その際の衝突でエジプト人警察官50人が死亡した。
 このことをきっかけとして、翌日、首都カイロで民衆による大規模な抗議デモが発生した。このデモは暴動となり、放火により多数の建造物が燃え、「カイロ大火」と呼ばれる事態に発展した。
 発生した1952年1月26日の曜日にちなんで、一名「ブラック・サタデイ(暗黒の土曜日)」とも呼ばれるが、公式の死者は26名(うちイギリス人が9名)とされ、流血事態としては比較的軽微であった。
 情報通信手段が限られていた当時、イスマイリアでの衝突からわずか一日で発生したこの反英蜂起の火付け役については今日でも解明されていないが、自由将校団が扇動したとする説もある。
 もっとも、この反英蜂起から自由将校団の決起までには約半年のタイムラグがあり、この間、王国政府も対抗策を講じている。すなわち、時のファルーク国王は首相を解任し、戒厳令を布告して、事態を掌握しようとした。
 国王はその後、短期間に三人の首相を順次任命し、体制の立て直しを図るが、そうした短期間での首相の頻繁な交替がすでに体制崩壊の予兆であった。この間、自由将校団は決起のタイミングを図り、将校クラブの執行部選挙を通じてクラブの実権を掌握した。
 この時点で自由将校団に対する締め付けをようやく検討し始めた国王は将校クラブ選挙を無効にするとともに、将校団弾圧の準備として、メンバーの詳細な名簿を入手したとされる。こうした情報が将校団にももたらされたため、当初は8月の決起を計画していたものを前倒しした結果、1952年7月23日早朝に決起することとなった。
 この決起に参加したのは、団長のナギーブを除けば、佐官級以下の若手将校ばかり100人にも満たない人数であったが、電撃的なクーデターの手法により、即日かつ無血のうちに成功した。
 その直接的な要因として、軍部内でもイギリスの傀儡を続ける国王への幻滅感が広がっており、クーデターに反撃する親衛部隊が存在しなかったことに加え、国王が最も頼みとした後ろ盾のイギリスがあっさり手を引き、続いて頼ったアメリカも反応を示さなかったということも決定的であった。
 元来からして、オスマン・トルコ支配時代の外国人(アルバニア人)総督出自のムハンマド・アリー朝を断固擁護しようという王党派勢力が国内に存在せず、国際的にも王朝存続を支援しようとする動きがなかったことは、共和革命の追い風であった。
 ただ、国王の処遇をめぐっては自由将校団内部でも、海外亡命を認めるか、裁判にかけ処刑するかで意見が分かれていた。その間にファルーク国王は退位し、1歳に満たない乳児のフアード王子を即位させることで妥協しようとしたが、結局、海外亡命を主張するナギーブやナーセルの方針に従い、改めてフアード(2世)も伴い、亡命した。
 自由将校団を母体とする革命政権が翌年、公式に王制廃止と共和制の樹立を宣言したことにより、形ばかりのフアード2世も廃位され、エジプトは今日に至る共和制国家として確定したのである。
 こうして、1952年共和革命はフランス革命、ロシア革命など過去の大規模な共和革命のいくつかで見られた国王処刑という報復的なプロセスもなく、無血のうちに完了した。その点でも、無血共和革命の範例として歴史に残るものとなった。
 実際のところ、革命の最終局面は軍事クーデターであったのであるが、これが単なるクーデターでなく、革命としての実質を持つに至ったのは、恒久的に共和制が樹立されたこと、そして、冒頭で見たように、民衆の反英蜂起を動因とした事情からである。
 おそらく反英蜂起がなくとも、早くから革命を構想していた自由将校団はいずれかの時点で決起していたかもしれないが、その場合は果たして成功していたか、あるいはクーデターとして技術的には成功したとしても、広い国民的支持を受けたかどうかは疑問となる。


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