ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

沖縄/北海道小史(連載最終回)

2014-03-27 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程(続)

【18】「沖縄返還」以後
 1969年に沖縄返還が公式に発表された後も、翌70年には米軍人が起こした交通事故の処理をめぐり、旧コザ市で大規模な反米騒乱が発生するなど、不穏な情勢が続くが、72年、法的には約束どおり沖縄は日本の施政下に復帰し、再び沖縄県となった。
 けれども、この「返還」は多くの沖縄人の意思とは異なり、米軍基地の存続が前提となっており、米軍はなおも駐留を続けることとなった。その裏には、後に漏洩事件化した日本側の費用負担の密約があり、日米安保条約の下で、日本側が駐留米軍を全面的にサポートする条件での「返還」であった。
 その結果、沖縄県は全国の米軍施設の大半が集中する「基地の県」という現実を担わされることになった。反米闘争は新たに反基地闘争の形に変形されて、なお続いていく。
 これに対し、中央政府では早速に沖縄開発庁を設置し、中央主導での沖縄経済の振興を図った。この手法は北海道開発庁を通じた北海道開発政策とパラレルなものであり(01年の中央省庁再編で共に廃止)、これで戦後の南北両辺境に対する中央政府の開発政策が出揃ったことになる。
 しかし、戦後当初の革新道政が間もなく保守道政に変わり、その下で中央直結型の開発が進展していく北海道とは異なり、長く米軍支配下に置かれた沖縄の革新勢力は強力であった。米軍支配時代の民選行政主席から返還後初代県知事となった屋良の後も、78年まで革新県政が続く。任期中に病死した平良幸市知事の後、ようやく保守系西銘順治知事が誕生するが、西銘知事も元は革新系地方政党・沖縄社会大衆党の出身であった。
 しかし、90年には再び革新系・大田昌秀が当選した。94年に再選された大田知事は、米軍用地の強制貸借の代理署名を拒否し、政府との訴訟に発展するなど、中央政府は返還後20年以上を経ても沖縄県政をコントロールし切れなかった。95年には、米軍兵士による少女暴行事件をめぐり、返還後最大規模の抗議集会が開催された。
 この事件をも一つの契機として、大田県政時代に持ち上がった普天間基地移設問題が90年代以降、沖縄県政及び政府の安保政策上の棘となっている。この問題は日米合意により名護市辺野古への県内移設で決着したが、2009年の政権交代により成立した鳩山民主党政権がいったん県外移設に方針転換し、短期で撤回するなど、中央政府の方針も二転三転した。
 沖縄でも保守化が進み、98年以降は返還後初めて二代連続で保守県政が続いているとはいえ、沖縄保守勢力も基地問題に関する限り、県民の意思に敏感であらざるを得ず、中央主導の統制は困難である。
 結局のところ、「返還」されたとはいえ、元来独立国であった歴史を持つ沖縄はなおも周縁化されたまま、他方で戦後の基地依存経済からの脱却はなお途上であり、日米安保体制下での沖縄県の自立には特有の難題が残されている。

[後記]
 2014年沖縄県知事選では、振り子が再び左に振れ、普天間基地の辺野古移設に反対する翁長氏が推進派の現職仲井眞氏を破って当選した。沖縄県民の投票箱を通じた“反乱”に等しい選挙結果であった。これに対し、12年総選挙で復権した自民党体制は完全無視と沖縄振興予算の減額という報復的な対抗措置をもって臨み、警察力を投入して移設事業を強行する策に出ている。ここには、中央政府の沖縄軽視の態度が如実に現れている。
 ただ、中央政府を通じての対米交渉には根本的な限界があり、今後、沖縄県民は、中央政府への「降伏」か、それとも独自の対米交渉を実現するため、再び独立して外交権を回復するかの歴史的な岐路に立たされるであろう。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第15回)

2014-03-26 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程(続)

【17】米軍支配下の沖縄
 沖縄は日本敗戦後、米軍の直接支配下に編入され、日本が主権を回復した1951年のサンフランシスコ講和条約でも引き続き、沖縄に対する米国の施政権が規定されたため、沖縄は本土の北辺・北海道とは全く異なる戦後史を歩むことになる。「皇民化」に続く「米民化」であった。
 このように、連合国の顔をした米国が沖縄を日本本土と分離して統治したのは、幕末の「黒船」による開国圧力の時以来、沖縄を対日戦略の要衝とみなしていたためと考えられる。しかし1949年以降、東西冷戦が開始されると、米国は対日戦略を超えて、沖縄を極東における軍事的要衝とみなし、米軍基地の建設・整備を精力的に推進する。「基地の島」の始まりであった。
 米国は50年、公式の沖縄統治機関として琉球諸島米国民政府を設置した。この機関は「民政府」と称されながら、実態は軍政機関であって、その長官は高等弁務官と改称された後も、一貫して米国陸軍の将軍が任命された。
 米国は当初、沖縄を群島ごと四地域に分け、民選知事を擁する群島政府を設置したが、民選知事が反米的な言動を取ることを懸念し、52年に改めて統一的な琉球政府を設置した。その長たる行政主席には沖縄人が任命されたが、琉球政府に自治権はほとんどなく、民政府の指令を執行する下部機関にすぎなかった。
 こうした非民主的な軍政統治体制の下、米国は沖縄各地で軍事力を背景とした土地の強制収用によって基地の建設を急ピッチで進めていったのだった。こうして、沖縄では雇用を含めた経済も米軍基地に依存するシステムが構築されていく。
 一方で、米国の強権的な手法に対し、沖縄人の反米感情は高まりを見せた。その最初の頂点は56年の「島ぐるみ闘争」に現れた。これは琉球政府の立法機関であった立法院が54年に行った「土地を守る四原則決議」を契機に起きた全島規模の反基地デモであった。この結果、基地用地借用に際しての高額地代の支払いなど、一定の歯止めがかけられたものの、本質的な解決には至らなかった。
 「島ぐるみ闘争」の56年には、沖縄人民党(後に日本共産党に合流)を率い、当時の反米派旗手だった瀬永亀次郎が那覇市長に当選したのも、選挙を通じた沖縄人の反米感情の発露と言えた。これに対し、当局は民政府系の琉球銀行による預金凍結や給水停止といった制裁措置で応じ、市議会を動かして不信任決議をさせたうえ、過去の投獄歴を理由に瀬永から被選挙権を奪って追放した。
 60年代に入ると、本土復帰の機運が高まり、祖国復帰協議会を通じた復帰運動が組織された。ベトナム戦争勃発後、沖縄米軍基地がベトナムへの出撃基地となると、本土のベトナム反戦運動とも交差して復帰運動はいよいよ活発化した。
 こうした情勢を見た米国も早期の沖縄返還に傾斜するようになり、68年には琉球政府行政主席の直接選挙を初めて実施、復帰派で革新系の屋良朝苗が当選した。そして翌69年にはついに、日米共同声明をもって72年の沖縄復帰が正式に発表されたのである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第14回)

2014-03-12 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程

【16】戦後の北海道開発
 敗戦後の北海道には本州と同様、米軍を主力とする占領軍が進駐する一方、いわゆる北方領土についてはソ連軍が引き続き占領していた。こういう状況の下、戦後北海道史がスタートするわけだが、戦前との大きな相違は、北海道庁長官職が公選制となったことである。
 1947年に行われた初の道庁長官選挙では、日本社会党の公認を受けた若干35歳の道庁職員労組指導者・田中敏文が決選投票の末、当選した。田中は地方自治法制定後の51年に行われた第一回北海道知事選挙でも再選され、以後59年に退任するまで、実質三期にわたって知事を務めた。
 こうして、戦後の北海道は左派系道政からスタートすることになったのだった。このことは、北海道の開拓者精神を基盤とした革新的な気風の反映とも考えられる。
 田中道政は「北方生活文化の確立」を重点政策課題に掲げ、防寒住宅として不燃性コンクリートブロック住宅の建設を推進するなど、寒冷地北海道の暮らしの向上に焦点を当てた。
 しかし、この時期、中央政府では北海道の資本主義的な開発を計画しており、50年、地方自治法制定後廃止された北海道庁に代わる上からの開発指導機関として北海道開発庁を、翌年には運輸省等の統合直轄事業機関として北海道開発局を設置した。これらを通じて、中央直結型の開発を推進しようとの狙いであった。
 一方で、55年には中央政界で保守合同により自由民主党が結成されたことにも後押しされ、田中知事の退任を受けた59年の北海道知事選挙では保守系で旧内務官僚出身の町村金五が当選、以後、83年まで二代にわたる保守道政の中で上からの北海道開発の流れが確立される。
 他方、戦前からロシアを意識した北辺防衛の最前線であった北海道の位置づけは戦後も米ソ冷戦構造の中で継承発展され、北海道には占領終了後の54年に発足した自衛隊の主要基地が置かれ、今日に至っている。これらの基地の多くは米軍も一時利用可能であることから、一時利用施設を含めた面積で見れば北海道は沖縄を上回る米軍関連施設を抱えていることにもなる。
 北海道は、本州で革新自治体の誕生が相次いだ70年代には逆に保守道政の真っ只中にあったが、北海道の革新的風土は83年の知事選で社会党を中心とした左派の支持を受けた横路孝弘が当選した時、再び立ち現れた。
 以後三期にわたって連続当選した横路は上からの開発に対し、一村一品運動などの地域おこしに重点を置いた政策を進めるが、一方で国際競技会や地方博誘致などのイベント行政にのめり込み、特に88年の世界・食の祭典では大幅な赤字を出すなどの失政も見られた。
 95年に横路を副知事から継いだ堀達也知事は二期目で保守系相乗りとなり、03年の知事選では経済産業省出身の高橋はるみが当選し、保守道政に完全復帰した。とはいえ、高橋は東北地方を含めた北日本では初の女性知事であり(全体では4人目)、わずかながらここにも北海道の革新性は残されている。
 50年にわたって中央主導の総合開発を担ってきた北海道開発庁は01年の中央省庁再編を機に廃止され、地方分権化の流れの中で北海道も自立化を目指す時期に入った。しかし、北海道開発局は国土交通省の下に存置されるなど長年の中央主導開発からの脱却は容易でなく、かつて主要産業であった石炭産業を支えた炭鉱が閉鎖された後、破綻に陥った夕張市のような基礎自治体も存在するなど、自立化への課題は多い。
 他方、旧来の中央主導開発に対しては、アイヌ民族による裁判闘争という現代的な形態の抵抗運動も現われた。現代アイヌの拠点である日高地方で、ダム建設による伝統文化地域の水没を阻止することを目指した二風谷〔にぶたに〕ダム建設差し止め訴訟はその象徴的な事例であった。
 この訴訟では97年、札幌地裁がダム建設の差し止めは棄却しながらも、アイヌをそれまで政府が認めてこなかった先住民族として認知する画期的判決を下し、これを契機に同化政策の支柱であった旧土人法の廃止と、民族回復を規定するアイヌ文化振興法の制定というアイヌ政策の歴史的転換が導かれたのだった。
 しかし、それはすでに何世代にも及ぶ強制同化政策により、アイヌ語話者も激減し、アイヌ語が消滅危惧言語へと向かう中での、遅きに失した民族回復であるとともに、民族差別を明確に禁止する政策ではなく、長年の差別構造の根本的な変化につながるものとは言い難い。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第13回)

2014-02-27 | 〆沖縄/北海道小史

第五章 軍国期の両辺境(続)

【15】沖縄戦への道
 大日本帝国の南方進出策の中間点にすぎなかった沖縄では、北海道のような軍事化は当初進められなかったが、国民皆兵策の施行においては、遅れて本土並みの適用を受けるようになっていく。本土語の話せない沖縄出身兵士は軍隊内差別などの困難にも見舞われながら、日本軍兵士として献身していく。
 こうした沖縄の軍事的な日本統合は、一方では近代的な地方行政制度の導入や、内発的な民主化運動の成果もあって1912年に実現した国政選挙への参加といった限定的な民主化をセットで伴ってもいたのだった。
 沖縄の軍事化が明確な形をとって現れるのは、日米開戦後、戦局が悪化する中で、日本軍部・政府が沖縄を本土防衛上の要地として利用する策に出てからであった。
 南西諸島防衛の強化に着手した軍部・政府は沖縄各地で土地を強制収用し、飛行場の敷設に乗り出す。これは戦後、占領軍を送り込んだ米国がより大々的に同様の手法を採り、沖縄が「基地の島」にされていく先駆けとも言えた。
 こうした沖縄軍事化の集大成は、大戦末期1944年における陸軍第32軍の設置であった。これは沖縄に司令部を置く初めての軍団であり、米軍を主体とする連合国軍の上陸に備える守備隊の役割を担った。
 この第32軍守備下で発生したのが、沖縄近代史上最も悲惨な結果を招いた沖縄戦であった。この自滅的な戦闘をめぐっては、特に最期的に発生した一般住民の集団自殺が軍の命令によるものであったかどうかが議論される。
 これについては様々な見解があり、たとえ仮に軍の公式命令ではなかったとしても、集団自殺という特異な現象を伴った沖縄戦の本質は大戦の中の単なる激戦のエピソードではなく、本土が沖縄を盾として利用し、最後は捨て駒にしたという辺境切捨ての意義を持っていたことにあったと言える。
 同時に、連合国とりわけ米国にとっても、沖縄戦は日本の降伏を引き出す最初のカードであった。思えば、これは米国が鎖国日本に開国を迫った時に琉球上陸を足がかりとしたのと同じ戦略である。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第12回)

2014-02-26 | 〆沖縄/北海道小史

第五章 軍国期の両辺境(続)

【14】戦時下の北海道
 北海道は、明治維新後早くから国土防衛の要地として軍事化されてきたが、日中戦争勃発以降、戦争が長期化すると、この傾向は一段と強まった。それに伴い、大資本が進出していた北海道では、軍需経済が発展した。
 民生部門でも労働者不足を補うため、日本の支配下で朝鮮人・中国人労働者の徴用が大々的に行われ、炭鉱や土木などの分野で重労働に投入された。とりわけ広大な北海道では朝鮮人労働者をもってしてもカバーし切れないところを中国人労働者で補充したため、中国人労働者の動員は全国でも最多となった。こうした植民地人の重労働では、明治期の開拓時代に展開されたタコ部屋労働が応用された。
 一方、明治以降の開発の結果、有数の穀倉地に発展していた北海道は、戦時農業政策の拠点ともなった。その一環として、1938年から39年にかけて、北海道庁は「戦時農業生産拡充計画」を策定し、農業の計画生産体制を整備した。戦況が悪化し、徴兵動員が増加したことに伴い、男子農業者が決定的に不足した44年になると、学徒動員の形で「北海道援農部隊」が組織され、農村労働力不足を補う非常手段が採られた。
 ところで、明治以来北海道を拠点としてきた陸軍第七師団は、日本陸軍の主力部隊の一つとして日中戦争勃発後は関東軍の指揮下に編入され、39年のノモンハン事件でも出動し、ソ連軍と交戦した。日米開戦後は南洋にも転戦したが、その後は北海道に帰還、司令部を帯広に移し、北方守備に専従するようになる。
 しかし日本が制海権を喪失した終戦間際になると、北上した米海軍による室蘭、釧路、根室の主要軍需産業都市を中心とした空襲作戦にさらされ、計3000人近くの死者を出したが、最大都市札幌の被害は小規模で、日本本土主要都市の中では京都と並び壊滅を免れた。
 45年8月、通説によれば日本のポツダム宣言受諾・降伏の引き金となったソ連の対日参戦が始まると、ヤルタ会談に基づき、ソ連軍は当時日本が実効支配していた南樺太、千島列島に進攻、日本の無条件降伏後もなお択捉、国後、色丹、歯舞などを次々と占領していった。
 想定されていたソ連軍の北海道侵攻は、無条件降伏直後の千島列島占守島での激戦の末、停戦・武装解除が成立し、回避し得たことが、敗北の中での日本軍最後の「戦果」となった。
 とはいえ、公式の終戦日8月15日以降に行われた樺太の戦いでは、軍部が本土決戦用の玉砕人海戦力として組織していた国民義勇戦闘隊が唯一実戦投入されたほか、沖縄戦同様の集団自決も見られた。さらには住民の疎開の遅れや疎開船へのソ連軍の攻撃により、民間人の犠牲も甚大であった。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第11回)

2014-02-12 | 〆沖縄/北海道小史

第五章 軍国期の両辺

【13】両辺境の軍事化
 あらゆる国家にとって辺境は侵犯されやすく、防衛上の要地となるため、辺境地方は軍事化されやすい。ことに日本のような四囲を海で囲まれた海洋国家の場合、国境線はあいまいなため、辺境島嶼地方の面的な防衛が必要となる。
 この点、極東膨張政策を続けていたロシア帝国が近くに迫る北海道は、北辺防衛の要地として、明治維新後早くから意識的に軍事化が進められてきた。農業開発を兼ねた屯田兵制度はその最初の一歩であった。しかし近代的軍事制度が整備されると、屯田兵は近代陸軍に置き換えられ、1896年には北海道を根拠地とする陸軍第七師団が設置され、役割を終えた屯田兵制度は1904年に廃止となった。
 この北海道防衛を任務とする第七師団の初代師団長は、屯田兵司令官や北海道庁長官も務めた旧薩摩藩士の永山武四郎少将(後に中将)であった。永山は鹿児島出身ながら北海道に骨を埋めるよう遺言したほど、北海道の開拓と防衛に尽力した近代的職業軍人の第一世代であった。
 その後、第七師団は北海道防衛の任務を超えて日露戦争やシベリア出兵、満州侵略作戦などにも投入された陸軍主力部隊の一つとなり、北海道は民生面の開発とともに、軍事的な要衝島としても発展していく。
 このように北海道では対ロシア防衛を意識して早くから軍事化が進んだのに対し、沖縄の軍事化は北海道よりも遅れる。国民皆兵制は日本に併合された沖縄にも当然適用され、1888年には沖縄県全域での徴兵・召集等の兵事事務を担う沖縄警備隊区(後の沖縄連隊区)が設置されたとはいえ、沖縄での実際の徴兵は本島でも98年、先島諸島では1902年になってからであった。
 沖縄は今日でこそ日本の南辺として防衛上の要地とされるが、明治政府が日清戦争に勝利した結果、日本の南方領土は台湾まで延伸されることになった。結局、沖縄併合は日本の帝国主義的な南方膨張政策の初めの一歩にすぎず、沖縄は南進の出発点のような位置づけであった。
 そのため、沖縄ではかえって北海道のような軍事化は推進されず、沖縄防衛は熊本に司令部を置く陸軍第六師団の管轄であった。沖縄防衛に特化した軍司令部が置かれるのは、第二次世界大戦も末期、敗色濃厚となった1944年に設置され、悲惨な結末を迎える運命となる陸軍第32軍が初めてである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第10回)

2014-01-30 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代(続)

【12】琉球併合と皇民化
 明治維新は、幕末の動乱を免れた南の辺境・琉球王国にも大きな転換をもたらした。明治政府は1871年の廃藩置県でいったん琉球王国を新設された鹿児島県の管轄としたが、翌年には琉球藩を設置し、時の国王・尚泰を藩王かつ日本の華族に叙した。
 明治政府は、台湾に漂着した琉球御用船員らが台湾先住民に殺害された一件等への責任追及を名目とした74年の台湾侵攻後の有利な情勢を利用し、従来、中国清朝と日本の双方に二重統属してきた琉球を日本の支配下に一元化することを狙い、琉球に対し清との冊封関係の断絶と日本の元号使用、王の上京などを求めた。しかし清との歴史的な関係を重視する琉球側が拒否し続けたことから、79年、政府は武官を擁した処分官を琉球に派遣し、武断的に廃藩置県を布告した。
 かくして日本の地方行政体としての沖縄県が設置され、独自王国としての琉球王国は終焉したのであった。ここまでのプロセスは、17世紀の薩摩藩侵攻時のような軍事作戦による侵略ではなかったため、日本史上は「琉球処分」という行政措置的な表現で言い表されるが、実際のところ、これは明治政府による力を背景とした「琉球併合」にほかならなかった。
 ちなみに、初代沖縄県令・鍋島直彬は最後の旧肥前鹿島藩主であった。この点、北海道の初代開拓長官を短期間務めた旧佐賀藩主・鍋島直正も同じ鍋島一族(宗家)の出であり、ここに明治初期の南北両辺境の行政をともに九州の土豪大名出身の鍋島家が担うという一致があった。
 こうして沖縄は正式に日本領土内に併合されたのであるが、元来独自の王国であったがゆえに、併合直後に旧王族士族の反乱事件などもあり、初代鍋島県政では要職を本土人で固めつつも、さしあたり旧慣温存の方針が採られた。
 だが、1890年代になると、封建的な土地改革や参政権要求、議会開設など、沖縄人自身による内発的な近代化運動も起きる中、政府はようやく沖縄近代化に着手する。それでも、例えば地方議会の設置は北海道では1901年であったのに対し、沖縄では09年にずれこむなど、北の辺境・北海道と比べても沖縄近代化の歩みは遅かった。
 こうした近代化政策は当然にも「皇民化」を伴うものであったから、沖縄伝統の宗教体系の抑圧排除と国家神道の強制が実施された。とりわけ日清戦争で日本が勝利し、沖縄の日本領有が国際法上も明確にされて以降、沖縄皇民化政策は徹底された。
 中央主導の沖縄近代化政策の中でも封建的な土地制度の改革は農民の生活改善に資する面もあったが、本土の地租改正と同様に農民の租税負担を増した。産業開発の面では、農業中心でめぼしい潜在産業に乏しいことから、換金作物として普及し始めたサトウキビをベースとした製糖業を除いて高度な工業化は難しく、本土資本の展開も地場資本の育成も進展せず、経済的には苦しい状況が続く。
 こうした状況は、日本が第一次世界大戦の勝者として旧ドイツ領の太平洋諸島(南洋諸島)を委任統治領として獲得すると、南洋諸島への沖縄移民を急増させ、沖縄をして全国随一の移民送り出し県とすることになったのだった。
 このように、沖縄はいったん内部的に日本に併合された後、経済的に従属・周縁化され、今度はそこから外部的に排出されてもいくという矛盾の中に置かれるのである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第9回)

2014-01-20 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代(続)

【11】北海道開拓と同化・隔離
 1868年、明治維新が成ると北海道の旧松前藩領には当初、館藩が置かれた。館藩知事には、箱館に来襲した榎本武揚の旧幕府派軍勢によっていったんは津軽に追われていた旧松前藩主の松前家が復権する形で就任した。
 しかし71年、廃藩置県により館藩は2年ほどで廃藩となり、松前家の北海道支配も完全に終焉する。館藩はいったん館県となった直後、本州側の弘前県に合併された。他方で、明治新政府は北方開拓のため、69年という早い時期に開発行政機関として開拓使を設置し、旧エゾ地の開拓に着手していた。
 72年には北海道全域が開拓使の管轄下に編入され、北海道開拓が本格化する。特に74年から開拓使廃止直前の82年まで開拓長官の座にあった後の内閣総理大臣・黒田清隆の時代に、北海道開拓の基礎が築かれた。
 そこでの基本方針は明治維新政府の大方針である近代化ということに尽きるが、その手段として処女地・北海道では本州から移民を導入して、まずは農業開発に当たらせるという方法が採られた。同時に、北辺防備策を兼ねて屯田兵制度を創設し、本州から旧武士層の士族を授産を兼ねて屯田兵として移入させた。
 こうした北海道移民は全国規模に及び、再び中世の渡党以来の和人勢力移住の波が起きたわけだが、今度のそれは中央政府の政策によって移入された農業者である点、その移入人口が大量だった点に大きな違いがある。
 明治政府の北海道農業開発は当初、寒冷気候を考慮して大規模畑作が目指されたが、明治中期になると品質改良などの技術進歩により、江戸時代にはほとんどできなかった米作が発達し、明治末期には官民一体での米作開発が推進された結果、北海道は全国有数の米作地帯となる。
 平行して資源開発も推進された。中でも石狩と釧路を二大拠点とする石炭産業は長く北海道の主産業であり続け、下って昭和前期以降は金・銀・銅・鉛・亜鉛などの鉱業開発も進んだ。工業の面では、ビール製造に始まり、製紙、造船、製鉄などが順次発達し、それに伴う建設業の発展も見られ、北海道は勃興してきた近代資本にとっても広大な草刈場となるのである。
 初期の北海道における資本労働は、屯田兵の労力を補うものとして導入され、多くの犠牲を出した囚人労働が中止された後、いわゆるタコ部屋労働によって展開され、女工労働と並び、劣悪な搾取労働の象徴となった。また時代下って、日露戦争で勝利した日本が北洋漁業の権益を獲得すると、工場を兼ねた水産加工船が導入され、小林多喜二の『蟹工船』で取材されたような過酷な搾取労働が横行した。
 こうした明治政府の北海道開拓の裏には、処女地・北海道を「内なる植民地」として開発するという理念があった。それは同時に、旧エゾ地の住民であるアイヌに対する強制同化・隔離政策を伴っていた。
 同化政策はすでに幕末の幕府直轄統治時代に先鞭がつけられていたが、なお不徹底であった。開拓使が廃止された後、86年に北海道庁が設置されると、アイヌに対しては固有文化を抑圧する同化とともに、強制移住のような隔離も強化された。そうしたアイヌ政策の基本法として99年には北海道旧土人保護法が制定された。
 この法律に顕現した政府の対アイヌ政策は、授産・医療・教育などの面での一定の「保護」と引き換えに、アイヌ固有の土地や伝統文化を剥奪・制限するという両義的なものであり、アイヌを少数民族そのものとして保護するという趣旨のものではなかった。従って、学校教育は日本人と別枠の隔離教育とされた。こうしてアイヌ民族社会が崩壊する中、かれらは日本人道民から隔離された被差別民族として周縁化されていった。
 このような政策の下、北海道の日本化・近代的開発が大きく進展していく一方で、中央政府のアイヌ政策が表面上は民族回復へと転換された現代に至ってもなお容易に抜き難いアイヌに対する差別が構造化されていくのである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第8回)

2014-01-14 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代

【10】幕末の両辺境
 
 17‐18世紀の沖縄/北海道の両辺境はそれぞれの仕方で幕藩体制に組み込まれ、程度の差はあれ、日本型の封建社会化が進んでいったわけだが、幕末が近づくにつれ、列強の接近に伴う幕藩体制の動揺の波が最初に押し寄せたのは、両辺境であった。
 最初の徴候は、北辺に現れた。18世紀半ば頃から、南下政策を追求していた帝政ロシアが千島列島のアイヌを介する形で、日本との通交を求めるようになってきたのだった。1795年のロシア特使ラクスマンの根室来航及び1804年のレザノフの長崎来航はそのハイライトであった。
 これに対し、対ロシア防衛の必要を痛感した幕府は、当初松前藩がロシア人来航の事実を幕府に報告せず、等閑視する態度を取ったことや、放蕩をもって悪名高かった時の第8代藩主・松前道広への不信もあり、エゾ地の直轄化を図り、1799年に東エゾ地を仮上知したのを皮切りに、1807年には松前藩そのものを陸奥梁川藩へ転封処分とした。 
 こうして旧松前藩領を直轄化して本格的にエゾ地経営に乗り出した幕府は、松前藩とは異なり、アイヌを蛮族とみなし、和人化する政策に転じた。これは、アイヌに対する強制同化政策の最初の一歩であった。
 米作に頼れない松前藩はアイヌ交易で成り立っていたから、アイヌ社会を維持しつつ、政治的統合を抑圧統制する政策を採ったが、幕府はアイヌに対するロシアの影響を排除する目的から、和人への同化に重点を置いたのであった。
 この間、松前藩は復領運動に努め、幕府側でも直轄統治の負担がかさむと1821年、幕府は政策を転換し、いったん松前藩を旧領に復したうえ、陣屋持ちだった同藩に初めて築城を命じて北辺警備の任を負わせるが、54年、日米和親条約締結という一大政策転換を機に、またも幕府の北辺政策が変化する。幕府は55年、再び松前藩領を直轄化するのである。こうしてアイヌ交易の利権も奪われた松前藩は、築城の出費もあり、窮乏した。
 ただ、時の第12代藩主・松前崇広は開明的であり、幕府の信任厚く、要職を経て64年には松前氏としては初の老中に抜擢された。その際、一部旧領の返還も実現し、松前藩は復権するかに見えたが、兵庫開港問題をめぐり開港を強行した崇広が朝廷及び将軍後見職・一橋慶喜と衝突して罷免・蟄居となった末、66年に病没すると、病弱な後継藩主の下、家臣間の対立からクーデターが発生するなど、藩政は混乱を極めた。
 結局、北方辺境領主・松前氏は幕末の北辺政策の二転三転により翻弄された末、維新の混乱の中で凋落していったのである。
 一方、南の辺境・琉球では、中国側宗主が明から清に交替したことを除けば、19世紀半ばに至るまで決定的な大変動は見られなかった。一大転機となるのは、1854年のアメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーの那覇来航であった。本州の浦賀に先立つ最初の黒船来航である。
 ペリーは王国側の拒絶を押し切って琉球上陸を強行し、首里城に入城する。この時点で、琉球は米国側と修好する意思はなかったが、結局、54年3月に日本との間で日米和親条約が締結されたのに続き、7月には琉米修好条約の締結に至り、那覇が開港された。
 このように、アメリカが日本開国を迫る前提として、当初から琉球に注目し、琉球を戦略的な足がかりにしようとしていたことは、今日に至るアメリカの東アジア政策で沖縄の占める位置を考える上でも、参考になるであろう。
 琉球はこの後、日本と並行する形でフランス、オランダと相次いで修好条約を締結し、日本とともに西欧列強との不平等な外交関係を余儀なくされていく。
 とはいえ、中国清朝と幕藩体制の薩摩藩への二重統属という立場を維持しながら、琉球王国がこうした外交関係を独自に結び得たことは、準独立国としての琉球王国の独異な地位を表している。従ってまた、琉球王国は北辺の松前藩のように幕末の動乱に直接巻き込まれることもなく、比較的平穏に維新を迎えている。
 他方、琉球の日本側宗主であった薩摩藩は、周知のとおり、琉球経由密貿易で蓄積した利益などを基盤に、単なる南の辺境領主を超えた幕末の雄藩となり、若手下級藩士を中心に討幕運動の主役としても勇躍し、明治維新を主導して新政府の支配層に座るという松前藩とは対照的な道をたどった。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第7回)

2014-01-04 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行(続)

【9】薩摩藩の琉球支配
 北海道で渡党武将らによる封建化が進行していた頃、南の琉球王国では、第二尚氏王朝の下で独自の封建社会が発展していた。16世紀はその全盛期であり、同世紀後半には奄美大島まで版図を拡大した。その歴史的進路が大きく変化するのは、17世紀初頭の1609年、薩摩藩の武力侵攻を受け、降伏した時である。
 成立したばかりの幕藩体制の下で、北の辺境領主であった松前氏に対し、南の辺境領主というべき地位にあった薩摩藩主・島津氏は元来、渡来系平安貴族・惟宗氏の末裔とされる武将であり、早くから薩摩に土着し、戦国時代を生き延びて幕藩体制下では南端の薩摩藩を安堵されていたのだった。
 その島津氏が突然琉球へ侵攻した理由として、江戸幕府成立直前、仙台に漂着した琉球船を徳川家康が保護・送還したことへの謝恩使の派遣要求を琉球側が再三拒否したことへの征伐とするのが通説である。
 しかし、元来は友好関係にあった琉球と島津氏の間では、16世紀末頃からすでに使節の接遇や島津氏も協力した豊臣秀吉の朝鮮侵攻への琉球の消極的態度などをめぐる外交的な摩擦が生じ始めていた。
 そこへ、発足当初の薩摩藩は初代藩主・忠恒(家久)の父で先代当主・義弘が関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に独断で加担したために家康からは好感されていなかったことや、藩財政も苦境に陥っていたことなどの諸事情が絡み、初代藩主として藩の安定化に腐心していた家久が先の琉球船問題にかこつけて琉球の付庸化を企図したというのが真相と考えられる。
 琉球側は第7代尚寧王の時代であったが、基本的に貿易国家であった琉球では軍備増強が行われてこなかったことから、3000人の軍勢で侵攻してきた薩摩藩を撃退できるだけの軍事力は保持していなかった。とはいえ、当初はゲリラ戦的な抵抗の構えも見せたが、現実主義者であった尚寧王は抵抗継続の道を選ばなかった。尚寧王は捕虜としていったん江戸に連行され、奄美大島については薩摩藩に割譲、琉球本島も以後、薩摩藩に従属することになる。
 薩摩藩は当初、琉球に対して厳しい軍事的な占領統治で望んだが、次第に支配内容を緩和していった。薩摩藩にとっては琉明貿易上の利益を吸い上げることが中心的な狙いであり、完全に琉球を藩領に併合することは想定していなかったのである。
 他方で、こうした一定の自治が認められた間接支配関係の中で、琉球では引き続き明、続いて清からの冊封を受けつつ、薩摩藩を通じて幕藩体制にも統属するという形で日中から二重の封建的支配を受けることが一貫した外交方針となった。このような二重支配下で、琉球王国では独自の伝統を保持しながらも、日本の影響を受けた士農分離などの「改革」が進められ、徐々に日本型の封建社会に近づいていく。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第6回)

2014-01-03 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行(続)

【8】松前藩のアイヌ支配
 コシャマインの蜂起の鎮定以後、蠣崎氏は実力を伸ばし、安東氏に臣従しつつ道南地域の現地総督的な地位にのし上がっていく。特に信広の孫・義広の代には、再びアイヌの大規模な蜂起を鎮定して安東氏の信頼を強め、渡党第一人者としての地位を確立、その子の季広の代には安東氏をはじめとする有力家と縁戚関係を結び、もはや渡党にとどまらない戦国武将として自立化の動きを見せた。
 季広の子・慶広は戦国時代にあって豊臣秀吉、次いで徳川家康に巧みに取り入って渡島領主としての地位を認証され、松前と改姓した。この頃、本来の主家・安東氏は秋田に拠点を移し、長く分立していた二家を統合して秋田氏を名乗るようになっており、松前慶広は安東氏からも独立して道南の封建領主としての地位を確立する。
 家康が江戸幕府を開くと、慶広は家康から家臣として認められ、黒印状を得てアイヌ交易の独占権を獲得することに成功した。そのため、慶広をもって初代松前藩主に数えるが、この時点での松前氏の扱いはいまだ厳密には大名とは言えず、辺境の島主にすぎなかった。第5代藩主松前矩広の晩年になってようやく一万石格の大名に昇格するが、幕末になるまで無城の陣屋持ち大名であった。
 こうして成立した松前藩主・松前氏の役割は幕藩体制下の北辺の辺境領主というもので、実際北方防備の任務を持っていた。このことが、幕末、列強ロシアの接近に伴い、松前藩を政治的にも困難な立場に追い込んでいく伏線となる。
 一方、松前藩の物質的な基盤は挙げて商業、特にアイヌ交易に置かれた。これは渡党時代からの伝統であると同時に、当時の農業技術では米作が不可能であった北海道の地理的条件からして必然的なものでもあった。そのため、松前藩は自らも官船を出して交易を行うほか、家臣の知行も商場を与えて交易権を分与するという形で行われた点で、他に例を見ない独異な藩であった。言わば重商主義的な政策を採ったのである。
 18世紀以降は、交易権を与えられた請負商人の上納金(運上金)に依存する場所請負制が確立され、商業資本の発達が他藩に先駆けて促進された。この結果、アイヌは和人経営の漁場で労働者として使役されることも多くなった。
 藩は直接的な支配が及びにくいエゾ地のアイヌに対してはその政治的統合を阻止する分断政策で臨んだ。1669年のアイヌ族長シャクシャインの武装蜂起を鎮定して以降もアイヌに対しては服従強制と武断的な統制策を基本としたが、一方で藩財政の生命線であるアイヌ交易を維持するため、民族浄化・強制同化政策は避けたため、アイヌ社会の伝統は松前藩の支配下で長く保持される結果となった。  

コメント

沖縄/北海道小史(連載第5回)

2014-01-02 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行

【7】道南和人支配の始まり
 北海道でアイヌ社会が形成・確立されていくと、アイヌ勢力との商取引関係を持つ有力な和人も増えていった。そうした和人商人の中には、道南地域に定住し、武士化する者も現れた。やがて渡党と呼ばれるようになったかれらは、中央の支配が十分に及んでいなかった道南に館―いわゆる道南十二館―を築き、武将としてしのぎを削るようになる。
 しかし鎌倉幕府の支配力が全国的に及ぶようになると、道南渡党らも津軽地方の土豪もしくは中央派遣の武将で、エゾの統制を委ねられていた安東氏の管轄下に置かれるようになる。安東氏は室町時代も生き延びるが、15世紀前半、南部氏に本拠の津軽を追われると道南に移転し、1456年には配下の有力渡党の中から三名を守護に抜擢し、道南支配を強化した。
 この措置の翌57年に、アイヌの有力族長コシャマインが武装蜂起した。この事件は一和人と一アイヌの口論がきっかけとされるが、タイミングから見ると、安東氏による一方的な道南支配強化による何らかの利害関係の変化が和人と取引関係にあったアイヌ勢力に動揺を与えたことも背景にあったと考えられる。
 いずれにせよ、一時は十二館の大半を落とされるなど窮地に陥ったこの大事変を鎮圧するに当たっては、先に安東氏から守護に任ぜられていた花沢館主・蠣崎季繁の婿養子・武田(蠣崎)信広の功績が大きかった。後の大名・松前氏の実質的な祖となる信広は、義父と同様、若狭武田氏の一族とされ、若狭から移住し、当時は花沢館主・蠣崎氏の客将であったところ、その能力を認められて家督を継いだとされるが、義父ともども武田氏流というのは仮冒の疑いが強い。
 義父の蠣崎季繁も若狭から移住して安東氏の娘婿となるという同様の経歴を持つことからすると、かれらはともに若狭方面から流れてきた商人の出自を持つ渡党にすぎなかったと考えられる。
 ちなみに、本来の蠣崎氏は陸奥で安東氏に取って代わった南部氏の家臣で、陸奥の田名部に拠点を置く武将であったが、コシャマインの蜂起が起きた57年に蠣崎蔵人信純が主君・南部氏に対して反乱を起こして追討され、エゾ地へ逃れるという事件があった。
 この陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏の関係については不明であり、武田信広ははじめ陸奥に移住し、南部氏から田名部の蠣崎という地の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗ったとする史料もあり、錯綜している。
 仮に、陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏が同一とすれば、南部氏に追われて敗走してきた信純と信広は同一人物で、彼は花沢館にかくまわれたが、折からのコシャマインの蜂起を鎮定して安東氏の信頼を勝ち得、安東氏の縁戚でもあった花沢館主の家督を継ぎ、安東氏被官として改名・再生したという大胆な推理も可能であろう。この場合、信広が当初武田姓を名乗ったのは、陸奥蠣崎氏が元来武田姓だったことによるものだろう。 
 いずれにせよ、安東氏の支配下で道南に割拠していた渡党の中から蠣崎氏がコシャマイン事変後、急速に実力を伸ばし、やがて自立化した戦国大名・松前氏へと成長していくのである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第4回)

2013-12-17 | 〆沖縄/北海道小史

第二章 独自社会の発展(続)

【6】琉球王国の成立
 沖縄のグスク戦国社会では、13世紀後半頃から王と呼ぶべき有力首長が台頭し、次第に統一王国形成へ向けて動き出す。琉球正史上最初の王朝とされる天孫氏王朝は、おそらく沖縄の農耕革命をもたらしたのが天孫降臨神話を携えた九州からの移住民集団であった事実を反映する神話と思われるが、13世紀後半に浦添グスクに拠ったと見られる英祖王はある程度実在性が推定できる最初期の有力首長である。
 しかし、5代90年に及んだとされる英祖王統の勢力範囲は明らかでなく、英祖王統滅亡後、沖縄本島は中部・北部・南部の三つの地域王権が鼎立するいわゆる三山時代に入る。
 三山の首長たちは独自に中国の新王朝・明と朝貢関係を持ち、それぞれの王として冊封された。やがて、元来は南山に属する辺境の佐敷按司にすぎなかった尚巴志が武力で三山の首長を次々と滅ぼし、1429年までに統一王朝(第一尚氏王朝)の樹立に成功した。彼は中山の首都であった首里(那覇)を王都とし、首里城を王宮として拡張した。以後、琉球王国は首里を中心に確定する。
 第一尚氏王朝は確証できる沖縄最初の統一王朝として、引き続き明との朝貢貿易や、室町幕府体制の日本とも外交・貿易関係を持ち、琉球王国の基礎を築いたが、その出自から地方按司らを完全に統制できるだけの権威を確立できず、政情は不安定であった。
 1469年、第6代尚泰久王の有力な重臣であった金丸が第7代尚徳王の死後、重臣らの推挙で王位に就き、尚円を称して新王朝を開いた。これが第二尚氏王朝であるが、金丸は元来伊是名島出身の農民の子とされ、血縁上第一尚王家とのつながりはない。また、尚円の政権掌握後、第一尚氏一族が粛清されていることからしても、王朝創始の経緯はクーデターと見られ、第二尚氏王朝は簒奪王朝であっただろう。
 その第二尚氏王朝も当初は安定しなかったが、尚円王の長男で第3代尚真王の時に中央集権制を確立し、16世紀に入るとまだ独立状態であった先島諸島にも手を広げる。1500年には石垣島の支配者オヤケアカハチを攻め滅ぼしたのに続いて、22年には与那国島も征服して、王国版図を南に拡大することに成功した。
 以後、琉球王国はこの第二尚氏王統で確定する。第二尚氏王朝下でも明との朝貢貿易の伝統は引き継がれ、同王朝前半期の琉球は中国、日本、東南アジア方面をつなぐ中継貿易を基軸とした港市国家として経済的にも繁栄した。それは武家政権の日本とは性格を異にする独自の島嶼王国であった。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第3回)

2013-12-16 | 〆沖縄/北海道小史

第二章 独自社会の発展

【4】グスク時代の始まり
 南の辺境にあって狩猟採集社会が長く続いた沖縄社会では本土の平安時代末期の12世紀頃になると、稲作を軸とした農耕が開始される。
 どのようにして沖縄の農耕社会が開始されたかについてはなお未解明であるが、この頃を境に沖縄人の人類学的形質そのものが弥生時代以降に現れた本土農耕民と同型に変化し始め、現在に至っているところからすると、本土の平安時代末期以降、九州を中心とした本土からの農耕系移住民が大量化し、先住沖縄人と通婚・混血して新しい沖縄人が形成されたと考えられる。言語的にも、沖縄語は本土日本語の方言ないしは同語族系言語に変化する。
 これは、沖縄社会にとっては形質的な変化に加えて、言語・文化面にも及ぶ社会革命の始まりであった。それは社会編成のあり方にも大きな変革をもたらした。13世紀に入ると、各地にグスクと呼ばれる城塞が多数出現する。この建造物の用途に関しては聖域説・集落説・城館説等の学問的な論争が続いているが、おそらくそのすべての機能を兼ねた地域首長の拠点であったろう。
 やがて按司と呼ばれるようになるこれら地域首長は農村集落の長でもあり、農業生産を統括しつつ、グスクに拠って相互に抗争し合ったと見られる。こうした大小様々なグスクが沖縄全域で300以上も確認されていることからして、グスク時代初期はこれら按司が勢力を張り合う一種の戦国時代であったと考えられる。
 この間、本土の古墳時代におけるような大規模墳墓の築造がなされた形跡はないが、社会段階としては各地に農耕王としての首長が割拠した本土の古墳時代前期のような状況にあったのが、沖縄のグスク時代であったと言えよう。

【5】アイヌ社会の形成
 北の辺境・北海道でも11‐12世紀になると、変化が生じてきた。本土のヤマト国家は8世紀以降、東北地方へ勢力圏を拡大し、この地方に割拠したエミシ勢力掃討作戦を断続的に展開して強制移住もしくは俘囚化政策を進めた結果、10世紀までには一種の民族浄化が完了した。しかし、北海道のエミシ勢力はこうした掃討作戦の手を免れて存続していたのだった。
 エミシの呼び名も本土の中世以降、エゾに変化していったが、この頃までには北海道エミシは文化的にも続縄文文化から擦文文化の時代に変化していた。これが後のアイヌ民族社会の基層となったと考えられる。
 ただし、沖縄と異なり、当時の農耕技術では稲作に適さなかった寒冷地・北海道では本土農耕民の移住の波は生ぜず、農耕社会への移行は見られなかった。擦文文化時代には農耕も広がるとはいえ、主産業とは言えず、基本的には狩猟採集社会が続く。また形質的にもアイヌ民族は本土の和人とほとんど混血せず、独自の形質が長く維持されたのであった。
 かくしてアイヌ社会は沖縄のグスク時代のような農耕首長の割拠する社会とはならなかったが、族長を中心に地域的な集団が形成され、有事に際しては団結する緩やかな連合が形成されたようである。
 かくしてアイヌは伝統的な社会文化を保持しつつ、族長層を中心に和人勢力と活発な交易関係を持ち、商業民族としての性格を強めていくのである。

コメント

沖縄/北海道小史(連載第2回)

2013-12-04 | 〆沖縄/北海道小史

第一章 長い先史時代(続)

【3】交易活動の発展
 沖縄/北海道両辺境の狩猟採集経済は長期にわたって持続したとはいえ、その担い手たちは海洋民族でもあったから、アマゾンやニューギニアの密林奥深くに済む先住民たちのように、閉鎖的な自給自足社会のまま持続することはなく、やがて本土との交易活動が活発化する。
 まず沖縄ではおおむね縄文時代晩期(沖縄では前期貝塚時代末)、九州の縄文人たちとの間で沖縄地方が主産地となるゴホウラやイモガイなど貝の交易が始まる。次いで弥生時代に入ると、沖縄特産のヤコウガイの交易が広域にわたって展開される。それは遠く北海道にまで及んでいたことが立証されており、「貝の道」と呼ばれる海洋交易ルートを通じて、早くも両辺境が結ばれていたことを示唆している。
 この貝交易で貝の交換財となったのは、土器やガラス玉、金属器といった品目であった。しかし弥生時代以降の本土農耕文化の影響はこの時期まだ沖縄には及ばず、狩猟採集経済は安定的に維持されていく。
 本土が古墳時代を過ぎて飛鳥時代に入ると、ヤマト国家による踏査の手が沖縄にも伸びてくる。『日本書紀』では推古朝の616年に掖久・夜勾・掖玖の人30人が来朝し、日本に永住したという記事が現れるのを皮切りに、南西諸島への遣使に関する記事が散見されるようになる。7世紀末、文武朝に南島(沖縄)から初めて正式の朝貢があり、これ以降、沖縄主要地域はヤマト国家に服属し、朝貢関係に入ったと見られる。そして平安時代以降、本土との交易は非公式の私貿易も含めていっそう拡大していく。 
 一方、北海道の狩猟採集文化は東北地方北部にもまたがる形で広がっており、民族的・文化的にも両者は一体で、交易関係も早くから始まっていたと見られる。また上述のように、「貝の道」を通じた広域の交易も本土の弥生時代以降展開され、南の沖縄ともつながっていた。だが、沖縄と同様、北海道にもなお農耕文化は伝播せず、いわゆる続縄文文化と呼ばれる狩猟採集文化が持続する。
 しかし、7世紀に入ると、遠征の実力をつけたヤマト国家による踏査の手は北辺の北海道にも伸びてくる。特に斉明朝期には、将軍阿倍比羅夫が北方に派遣され、渡島(北海道)の蝦夷らを服属させる記事が『日本書紀』に見え、この頃から蝦夷勢力はヤマト国家に服属するようになったと見られる。本土の奈良・平安時代以降、北海道蝦夷は東北蝦夷の居住域でもあった出羽国を介して和人(日本人)と活発に交易するようになる。
 こうして両辺境が単なる交易活動を超え、本土の農耕社会を基盤として発展してきたヤマト国家に服属し、本土との政治的な結びつきを持つようになったことは、伝統的な固有の狩猟採集経済を少しずつ変容させ、やがて本土経済に組み込まれていく長い過程の始まりであった。

コメント