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近代革命の社会力学(連載第277回)

2021-08-10 | 〆近代革命の社会力学

三十九 アラブ連続社会主義革命

(6)リビア革命

〈6‐1〉独立から自由将校団革命まで
 今日、北アフリカはマグレブ地域の東端に位置するリビアを構成する領域は本来単一ではなく、地中海に面した東部のキレナイカ及び西北部のトリポニタニア、西南部の内陸地フェザーンの三地方が各々独自の発展史を持っていた。
 しかし、16世紀以来、北アフリカに侵出してきたオスマン帝国に順次征服された後、20世紀初頭イタリアとの戦争に敗れ、三地域を包括してイタリアに割譲させられたことにより、今日のリビアに相当する領域がイタリア領土となったことがリビアの原型である。
 そうした中で、東部のキレナイカは民族的抵抗の拠点となった。とりわけ19世紀以降、キレナイカにはアラビア半島から移転してきたイスラーム神秘主義のサヌーシー教団が定着し、多くの信者を獲得、宗教を越えた民族的抵抗の中心的存在として、イタリアに対する武装抵抗運動を続けた。
 第二次大戦中もサヌーシー教団は連合国と連携し、イタリアに抵抗したが、戦時中、キレナイカはトリポニタニアとともにイギリスが、フェザーンはフランスが占領し、両国により分割統治されることになる。そして、戦後の1949年に至り、キレナイカはサヌーシー教団教主ムハンマド・イドリスを首長として独立が認められた。
 さらに49年中には、国際連合総会がリビア全体の統一国家としての独立を求める決議を採択したことで、1951年の独立に際しては、上述の三地方が合同してリビア連合王国が建国され、キレナイカのイドリス首長が改めてイドリス1世として初代国王に即位した。
 新生リビア連合王国は合同した三地方が各々広範な自治権を持ち、かつ連邦首都もキレナイカの首府ベンガジほか三か所に置かれるという不安定な複都連邦制であった。外交上は、中東地域の保守的な君主制諸国の趨勢に従い親西側路線を採った。
 そうした中、1959年にキレナイカで油田が発見され、採掘が開始されて以降、リビアはとみにオイルマネーで潤うようになるが、石油利権は西側石油資本と結託した王族など一部少数の支配層に集中し、三地方の対立も激化するようになる。
 これに対し、イドリス国王は1963年に連邦制を廃して統合的な王国に改編することで対立を抑止し、安定を確保しようとするも、これは逆効果であった。折しも、エジプト革命以降、汎アラブ民族主義は隣国リビアにも容易に浸透しており、反王制の機運が高まっていた。
 そうした中、リビア国軍内ではアラブ民族主義に目覚めた青年将校の間で、エジプトの自由将校団にならった自由同盟将校団が結成され、革命的な秘密活動を始めていた。
 その結果、イドリス国王がトルコ滞在中の1969年9月、27歳のムアンマル・ガダーフィ大尉[日本では「カダフィ」と表記することが慣例であるが、本稿では現地のアラビア語リビア方言の発音に近い表記を採用する]に率いられた将校団が決起した。
 これは形の上ではクーデターであったが、成功後、革命指令評議会が設置され、君主制廃止と共和制移行が宣言されたため、先行のエジプトやイラク、北イエメンにおけるのと同様の共和革命に進展した。
 この1969年リビア共和革命は20代主体の下級青年将校のみで電撃的かつほぼ無血で実行された点で、アラブ連続革命の中でも異彩を放つ事象であり、それだけ当時のリビア王国の基盤が脆弱であったことの証左でもあるだろう。


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