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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

がんばれギリシャ!

2011-09-25 | 時評

がんばれ、という言葉を日頃は好まないのだが、ここではあえて使ってみたい。

ドル安に追い打ちをかけるユーロ安の要因でもある欧州経済危機の元凶として叩かれるギリシャ。たしかに、ギリシャはデフォルトもあり得る財政破綻国家となってしまった。ギリシャと言えば、ヨーロッパ文明の土台を提供した古代文明の発祥地だが、現代ギリシャはすっかり色褪せ、失敗国家になってしまったかに見える。

しかし、山岳地帯を背後に控えた沿岸部と数多くの小島を含む島嶼部から成るギリシャに資本主義的大発展を期待してもどだい無理な話。資本主義の土台となる大工業地帯を持つことができないからだ。工場を建てようにも、あまたある世界遺産級の遺跡をぶっ壊して工場をぶっ建てることも不可能。

あとは伝統の観光のほか、海運や金融等の商業分野で身を立てることだが、海運はともかく、金融立国は不安定で、いわゆるリーマン・ショック後のアイスランドのように一つの金融危機で吹っ飛んでしまう。ITもあり得るが、ギリシャ向きかどうか。

一方、ギリシャは労働運動も盛んで、政府の緊縮財政に反対する抗議デモも活発かつ急進的である。加えて、昼寝が基本的人権という国柄。エコノミックアニマル諸国では非常識な「昼寝権」も、休息の自由という本来すべての労働者にとってまさに基本的な権利の一環と考えれば決して非常識でもないわけだが、資本主義的経済成長にとっては足かせとなるだろう。

こうして資本主義世界では落第生のギリシャだが、それはエコノミックアニマルになり切れなかったというだけのこと。資本主義が限界をさらけ出している現在、次なるポスト資本主義の時代には、のんびり・ゆったりだが政治的には先鋭でもあるギリシャが今度は模範生として脚光を浴びるということもあり得ない話ではない。

そういう意味で、がんばれギリシャ!なのである。

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良心的裁判役拒否(連載第6回)

2011-09-24 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥(続き)

(3)裁判員の口封じ
 最高裁が裁判員制度をPRするに際して公募し当選したキャッチコピーは「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」というものでした。
 法に基づく法裁判にあって、それほど「私」が前面に出てきてよいのかという疑問にとらわれますが、そんな心配も無用なほど、裁判員制度は裁判員(補充裁判員を含む)に厳重な口封じをしています。
 この点、制度施行前から、裁判員経験者に対する懲役刑の制裁を伴う守秘義務が特に批判されてきました。たしかに、守秘義務は最大級の口封じですが、裁判員に対する口封じの規定は守秘義務だけではありません。評議の過程でも「服従」「整理」という形で口封じをされるのです。
 初めの「服従」とは、「法令の解釈」と「訴訟手続」については、裁判員は裁判長が示した職業裁判官の合議による判断に従わなければならないというものです(裁判員法66条3項・4項)。
 これは「法令の解釈」や「訴訟手続」に関する判断は専門性が高いため、職業裁判官の専権に委ねられるというある意味では当然のことなのですが、裁判官の示すそれらの判断が常に正しいという保証はありません。
 例えば、「法令の解釈」に関する裁判官の判断が誤っていれば、本来罪とならない行為が犯罪行為と解釈されて有罪になってしまうことがあり得ますが、それも一種の冤罪です。
 また「訴訟手続」に関する判断として重要なのは自白の任意性の問題です。自白偏重捜査が根絶されない日本では捜査段階における自白の任意性が重要な争点となりがちで、その判断が甘いと、捜査機関の違法捜査を見逃したり、冤罪に直結したりすることがあります。
 こうした場合に、裁判員に裁判官の判断への服従を義務づけ、これに従わないことを解任事由とまで規定しているのは(同法41条1項4号、43条2項)、まさに口封じにほかなりません。
 さらに、裁判長は評議に際して、「評議を裁判員に分かりやすいものとなるよう整理」する権限を与えられていますが(同法66条5項)、この一見親切な規定には裏があります。
 ここで言う「整理」とは、陪審制において評議には同席しない裁判長が法廷で陪審員に対して評議のポイントを説明する「説示」とは異なり、まさに評議の場で裁判長が「評議」そのものを「整理」してしまうのですから、これは裁判員にとっては発言に枠をはめられるに等しいことを意味します。先の「服従」に対して、よりソフトな形の口封じなのです。
 こうした硬軟両様の口封じをしたうえで、裁判員法は全裁判員に評議で意見を述べることを義務づけ(同法66条2項)、なおかつこれに違反し、沈黙を保つことを解任事由と定めているのです(同法41条1項4号、43条2項)。話すことを強制するという特異な定めです。しかし、ここで強制される「意見」とは先に「服従」と「整理」を前提としたものですから、このような発言強制は口封じの裏返しにすぎないのです。実際、先の解任事由の規定が服従義務違反と発言義務違反とを同一条項で並べて定めていることは、その何よりの証拠です。
 要するに、冒頭のキャッチコピーにもかかわらず、裁判員が下手に「私の視点、私の感覚、私の言葉」にこだわれば、解任されかねないわけです!。穿った見方をすれば、こうした「服従」と「解任」は一票差評決のような事態が実際にはほとんど起きないように、裁判長が裁判員の多くを自分(たち)の意見に誘導しやすくする仕掛けと読み解くこともできるかもしれません。
 さて、口封じの最大級のものとして問題視されてきた守秘義務ですが、実は守秘義務は現役裁判員に対するものと退役裁判員に対するものとがあります。
 このうち、現役裁判員が評議の状況等をリアルタイムで開示することを禁ずるのは裁判の公正を確保するうえでやむを得ない制約ですから、あまり問題にされていません(ただし、最大で6ヶ月もの懲役刑を科することは罪刑の均衡を失している疑いは残ります)。
 問題は退役裁判員に対する終身間にわたる守秘義務、なかでも評議における「裁判官若しくは裁判員の意見又はその多少の数」を公表することや、自らが関与した「判決において示された事実の認定又は刑の量定の当否」を述べることを守秘義務違反の罪として処罰しようとすることにあります。
 ただ、なぜ裁判員法がこのような行動に神経を尖らせるかと言えば、やはり前節で見た僅差評決法に関わってきます。つまり、重大事件の判決が5:4のような僅差であったことが暴露されれば社会的に大きな波紋を呼び、被告人ら当事者も判決に不信を持ちますから、評議における意見分布を「評議の秘密」とみなして守秘の対象としているのです。さらに、一票差評決で敗れた少数意見の裁判員が義憤や正義感に駆られて事件の判決を公に批判するといった事態を何としても避けようとしているのです。結局のところ、前節で見たような僅差評決法の持つ根本欠陥を覆い隠すためにこそ、厳重な守秘義務が用意されているわけです。
 なお、ジャーナリストや作家といった表現者が裁判員経験者に接触して、守秘義務に違反する談話をとって記事や著書で公にすれば、一般刑法上の共犯規定を介して、それら表現者も裁判員法上の守秘義務違反の罪の共犯に問われる恐れがあるという点で、口封じは報道機関その他の表現者に対しても芋づる式に及んでいくことにも注意が必要です。

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死刑廃止への招待(第6話)

2011-09-24 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は日本国憲法にも違反すると解釈できる余地が十分にある

 戦後間もない1948年の大法廷判決以来、日本の最高裁判所は60年以上にわたり、「死刑は憲法に違反しない」との立場を護持し続けています。
 最高裁判所の裁判官は下級裁判所の裁判官とは異なり、たった一人でも反対意見を表示することが認められているのですが、過去60年あまり「死刑は憲法に違反する」との反対意見を出した裁判官はただの一人もいないという徹底ぶりです(本稿執筆時点)
 もちろん、死刑が憲法に違反するか否かという憲法適合性の問題と、死刑が政策的に妥当かどうかという問題は論理上別問題ですから、死刑が憲法に違反しないからといって制度を廃止することが許されないというわけではありません。
 しかし、「憲法の番人」がおよそ二世代、60年の長きにわたって死刑=合憲論を護持し続けていることの影響は大きく、死刑制度を固着させ、死刑廃止をおよそ論外のこととしてタブー化することを後押ししていると言っても過言ではないでしょう。

 それにしても死刑=合憲論は果たして変更不能なほど自明な定理なのでしょうか。筆者は憲法学者ではありませんが、憲法学者ですら正面から取り組もうとしないこの問題に蛮勇を奮ってチャレンジしてみたいと思います。
 その前に、今日に至るまで一貫してリーディング・ケースとなっている1948年大法廷判決の論理をまずは見ておきます。この判決の判断枠組み自体はなかなか理路整然としており、死刑制度の憲法適合性を判定するに当たって、(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分けて検討しています。
 (ア)の死刑制度そのものの合憲性について、判決は次のように判示します。

「憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然に予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。」

 要するに、憲法13条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」との文言、31条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」との文言を反対解釈すれば、「生命・・・・・・に対する権利といえども、公共の福祉に反するときは、国政の上で、最大の尊重を必要としない。」及び「何人も、法律の定める手続によれば、生命を奪はれ・・・・・・る。」となり、憲法が死刑制度を是認していることは明らかだというのです。従ってまた、死刑制度そのものが憲法36条で絶対に禁じられる「残虐な刑罰」に当たることもないとしています。
 一方、(イ)の死刑の執行方法の合憲性については、次のように判示します。

「死刑といえども・・・・・・その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」

 要するに、火あぶりやはりつけといった前近代的な死刑執行方法を復活させるようなこと―実際のところまずあり得ない―がない限り、現行法上の絞首刑は憲法に違反しないというのです。

 以上のような大法廷判決の論理は一見してスキがないように見えます。しかし、必ずしもそうではありません。
 まず、死刑制度そのものの合憲性について、判決は憲法13条と31条を単純に反対解釈して合憲の結論を導いていますが、基本的人権の保障に関わる規定をひっくり返して逆さに読み、かえって人権の制限・剥奪の根拠にすりかえてしまうというロジックが本末転倒なのです。
 実は、判決もそのことに一抹の後ろめたさを感じたようで、「言葉をかえれば」として、次のような理由付けを急いで付け加えているのです。

「(憲法は)死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる。」

 これは要するに、死刑制度を社会防衛上の必要から理由付けし、なおかつ社会防衛上の必要が個人の人権よりも優位すると断じたものです。
 しかし、仮に憲法が死刑制度を是認しているとしても、死刑制度の存在理由―社会防衛以外にも、応報とか法確証とか様々の理由がある―について憲法は何も述べていないのですから、これは憲法の解釈から脱線した刑罰政策論になってしまっています。
 しかも、上記理由付け後半の「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」云々という部分は、判決が冒頭で自ら引用する憲法13条前段がまず個人の尊重、すなわち「個体に対する人道観」を上位規範として打ち出したうえで、同条後段で一定の場合に公共の福祉、すなわち「全体に対する人道観」による生命、自由等に対する権利の制限を是認するという構えを取っていることを逆さに解する、それ自体憲法に違反する解釈にほかなりません。
 こうして、大法廷判決は余分な理由を付け加えることで、かえって語るに落ち、憲法に対する無理解をさらけ出してしまったようです。
 ただ、大法廷判決のために弁護するとすれば、この判決は現行憲法とは反対に、まさに「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ」ていた旧明治憲法が事実上廃棄され、現行憲法が施行された翌年という早い時期に出されたもので、憲法の番人自身もまだ新憲法の解釈・適用に習熟しておらず、裁判官の頭の中から旧憲法的価値観が抜け切っていなかった時代の産物であるという事実は否定できません。
 そうであればなおさら、そのような時代物の判例を60年以上も護持し続けることは適切でないのです。現行憲法の読み直しに基づく新しい判例の形成が是非とも望まれるところです。

 とはいえ、今のところ死刑=違憲論の少数意見を示す気骨ある最高裁判事が見当たらないなら―しかし、なぜでしょう?―、一般市民が代行してしまおうというわけです。
 その際、前記大法廷判決がとる(ア)死刑制度そのものの合憲性と(イ)死刑執行方法の合憲性とを分ける論理的な判断枠組みは一応これを借用することとします。そこで、まず(ア)の死刑制度そのものの合憲性を検討していきますが、ここでも大法廷判決にならって憲法13条から入ってみます。
 この条項は、先に指摘したとおり、はじめに前段で「個人の尊重」をうたっています。個人の尊重とは個人の存在性に関わる身体・生命活動を基礎とする個人の幸福全般の尊重を意味しています。
 それを受けて、後段では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の「最大の尊重」を立法権とはじめとする国家権力に課しています。しかし、これには「公共の福祉に反しない限り」という限界が設けられていますから、裏を返せば「生命・・・・・・に対する国民の権利」の保障が「公共の福祉」に反するときは少なくとも「最大の尊重」は必要としないことになるわけです。
 ここで注意すべきは、「最大の尊重」は必要としないとは、いきなり権利を剥奪してゼロにしてしまってよいことを意味しないということです。「最大」の反対は「無」ではありません。少なくとも「最大」でないということは「最小」かもしれないし、「大」かもしれないし、その度合いは問題となる権利の性質によりけりとなります。
 この点、死刑制度との関わりで問題となる生命に対する権利は、他の全基本的人権の土台となる基本中の基本権です。人間は生きていなければ表現活動も経済活動もその他のいかなる活動もなし得ないのですから、これは当然の事理とも言えましょう。その意味で、生命に対する権利は人権の中で最も重要とされる表現の自由よりも重要な権利です。
 そうすると、生命に対する権利の保障が公共の福祉に反する場合にあっても、この権利は国政上「最大の尊重」は無理でも「最大に近い尊重」は必要とすると解されます。従って、国家が個人の生命に対する権利を侵害することが憲法によって合憲とされるのは極めて例外的な場合に限られると言うべきです。
 その具体的な判断基準としては、最も厳格な基準に従い、緊要な公共的利益に対する明白かつ現在の差し迫った危険を除去するために、国家が個人の生命を侵害する以外に適切な方法がないと認められるような場合を除いては、国家による生命の侵害が憲法上許容されることはないと考えるべきでしょう。
 この基準に照らしてみると、死刑は社会秩序を脅かす極めて重大な犯罪に対して科せられる刑罰ではありますが、犯人に対して死刑が適用・執行される時点では通常、その重大な犯罪はすでに終了しており、社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険は消失しています。
 もっとも、組織的なテロ事件などで、逮捕・起訴された組織リーダーの奪還を大義名分としてテロ活動が続いているというような場合は、なお社会秩序に対する明白かつ現在の差し迫った危険が継続していると言えるでしょう。
 とはいえ、そうした場合にその組織リーダーを死刑に処する以外に適切な方法はないと言い切れるでしょうか。たしかに、その者に死刑を執行すればさしあたりリーダーの奪還というテロの大義名分は消滅しますが、その代わりにリーダーを処刑されたことに対する報復という新たな大義名分の下にテロが継続され、結局社会秩序に対する脅威はかえって増す恐れすらあります。
 そう考えると、このようなケースにおいてさえ、死刑は先の合憲性基準を満たさないと解され、死刑は憲法13条に違反するという結論が導かれます。
 このように、死刑制度そのものが憲法に違反すると解すると、次の死刑執行方法の合憲性という論点は検討する必要がなくなります。死刑制度が憲法に違反するとは、死刑の執行方法のいかんを問わず、死刑一般が憲法に違反し、存続の余地はないということにほかならないからです。

 ここで、先の大法廷判決が挙げていた憲法31条は「法律の定める手続」による限り、刑罰として生命を奪うことも許容しているのだから、死刑が憲法13条に違反するとすれば憲法内部で矛盾が生ずることにならないか、との反問があるかもしれません。
 しかし、同条はいわゆる適正手続き(デュー・プロセス)に関わる規定であって、文言上も「法律の定める(適正な)手続によらなければ」生命であれ、自由刑であれ、その他のいかなる刑罰であれ、科することが「できない」ということを国家に条件づけているのですから、大法廷判決のようにこの条項をもって憲法上許容された刑罰を例示した規定と読むのも、実は恣意的な反対解釈であったのです。
 一方、死刑廃止に強い熱意を持つ方ならば、そもそも死刑制度一般が憲法36条で絶対に禁じられた「残虐な刑罰」に当たるのではないかとお考えかもしれません。
 これはストレートで明快な解釈ですが、「残虐」という文言は限定的かつ感覚的ですから、絞首とか薬物注射とかの具体的な死刑執行方法を問わずに、死刑一般が「残虐」かどうかを一律に判断することは実際上困難なことのように思われます。
 いずれにせよ、死刑=合憲論は決して永久不変の定理などではないのです。判例変更を促す被告人・弁護人の法廷弁論に期待が持たれるところです。

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風評被害か差別か

2011-09-22 | 時評

愛知県内の花火大会で福島県製の花火が「放射能を撒き散らす」といった一部の抗議を受けて除外されるという出来事が波紋を呼んだ。

原発事故後相次ぐ福島県産品に対する「風評被害」の延長とも読める事態だが、果たしてそういう理解で済ませてよいだろうか。

以前にも書いたが、放射性物質が付着している「物」に対する科学的・医学的根拠に基づいた回避は何ら「差別」に当たらないことはもちろん、「風評被害」という言い方自体も妥当でない。それは単なる「風評」にとどまらない健康被害の恐れのある事態だからだ。

しかし、科学的・医学的根拠に基づかない「物」の忌避は、単なる「風評被害」では済まない場合がある。

健康上問題のないことがはっきりしている場合、あるいは明らかに問題があるとは言えない場合にさえ忌避するとなると、それは「物」の忌避を通じて、間接的にはその「物」の産地である福島県、さらには福島県民という「人」の差別へと波及していくからだ。

見方を変えれば、「物」の忌避の裏側に「人」への差別が隠されているとも読めるのだ。

本来「差別」とは「人」に対する蔑視であり、直接には「物」を対象とする忌避は「差別」に当たらないから、「花火事件」を直ちに「差別」と断定できるわけではないが、それは限りなく「差別」に近い「前差別」とでも呼ぶべき新たな事象ととらえるべきではないか。

放射線差別はこれまで日本社会では経験されたことのない新たな差別事象であるだけに、今後も奇想天外な形で様々な「事件」が起きてくるであろうが、それを「風評被害」の一言で片付けずに、ひとつひとつ「差別」に該当しないかどうか吟味していく必要があるだろう。

また、原発事故後、放射線の測定や除染を市民自身の手で行うことが一種のブームとなり、そうした風潮を「市民科学者」などと持ち上げる議論もあるが、このブームが、一方で放射線差別にも反対するという〈反差別〉の意識ともリンクしていないならば、かえって放射線差別を助長する恐れもあることが懸念される。

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死刑廃止への招待(第5話)

2011-09-17 | 〆死刑廃止への招待

死刑廃止は確立されつつある国際法上の規範である

 死刑廃止論の側からは、従来「死刑廃止は国際的潮流だ」ということがしばしば強調されてきました。たしかに、1990年代以降、死刑廃止国が増加し、それ以前は死刑廃止国といえばほとんどが西欧と南米に集中していたものが、東欧からアジア・アフリカ諸国にも広がりを見せ始めています。
 しかし、その「潮流」なるものが単に流行のモードのようなものにとどまるならば、あえて流行に乗らないということも一つの流儀ですので、死刑廃止の積極的な理由とはならないでしょう。
 では、この「潮流」とは何かといえば、それは死刑廃止が国際法の中に取り入れられ、国際法上の規範として確立されつつあることによって法的に促進されてきている「潮流」なのです。

 そのきっかけをなしたのが、1989年の国連総会で採択され、91年に発効した「死刑の廃止をめざす市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」(以下、通称で「国連死刑廃止条約」という)でした。
 この条約はこれより先、1966年の国連総会で採択され、76年に発効した(日本は79年に批准)「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下、単に「自由権規約」という)の改正法として採択されたもので、元来自由権規約では締約国に死刑廃止を直接に義務付けず、単に死刑の限定的なかつ公正な適用を義務付けるにとどまっていた態度を改め、議定書締約国に正面から死刑廃止を義務付けたところに意義があります。
 ただ、自由権規約では死刑廃止を直接に義務付けていないとはいえ、6条2項で「死刑を廃止していない国においては」死刑を限定的かつ公正に適用すべきことを求め、なおかつ同条6項で「この条のいかなる規定も、この規約の締約国により死刑の廃止を遅らせ又は妨げるために援用されてはならない。」との注意規定を置き、すでに死刑廃止を意識した消極的死刑存置の立場を示していたのでした。
 この点、国連死刑廃止条約の前文は、自由権規約6条が「その望ましさを強く示唆する文言で死刑廃止に言及している」と指摘しています。従って、ここから死刑廃止を明確にした選択議定書まではそう遠い距離でもなかったのです。
 日本政府はこの条約の審議過程からイスラーム諸国などと並んで強く抵抗し、採択に際しても反対票を投じていますが、同条約は国連総会で賛成多数をもって採択されました。
 ちなみに、日本では同条約が採択された89年から93年にかけて3年4ヶ月間ほど死刑執行が休止していたのですが、93年3月に執行を再開し、その後も国連からのたび重なる死刑廃止の勧告を拒否して、毎年死刑執行を継続する数少ない国の一つとなっていることは序文でも指摘したとおりです。
 ところで、日本国憲法98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定めています。この規定によると、政府が締結していない国際法でも、「確立された国際法規」については誠実に遵守する義務があることになります。そこで、もし国連死刑廃止条約が憲法98条2項の「確立された国際法規」に当たるとすれば、日本政府が同条約を無視して死刑執行を続けることは自国の憲法にも違反することになります。
 しかし、残念ながら、死刑廃止条約はまだ「確立された国際法規」には当たらないと解されます。同条約は発効から20年程度の比較的新しい条約であり、締約国数も2011年現在、まだ百の位に達していないからです。
 とはいえ、全く未確立のマイナー条約かといえばそうではありません。すでに死刑廃止の原則ないし理念は国際法レベルでは撤回が考えられない重要な人権準則となっており、条約締約国数も年々増加してきています。
 より注目すべきは、死刑存置国(米国の死刑存置州を含む)にあっても、長期間全面的に死刑執行を停止している国(死刑執行停止国)が増加していることです。こうした傾向は、序文でも触れたように、2007年以降、国連総会がほぼ連年で死刑執行停止を呼びかける決議を採択していることによってさらに促進されていくでしょう。
 以上のような「潮流」からすると、死刑廃止条約はまだ完全な確立を見ていないものの、「確立されつつある国際法規」であるとは言えるところまで来ていると考えられます。従って、微妙ではありますが、完全に確立されていないからといって、条約を完全に無視してよいというわけにはいかないのです。
 実際、日本はまぎれもなく国連加盟国であり、自由権規約締約国としても30年以上が経過しています。そうであれば、その同じ自由権規約の改正法としての意義を持つ死刑廃止条約についても、批准に向けた政治的・社会的な努力を継続すべき国際的な責務があると言えます。
 従って、条約を批准するかどうかは各国の主権の問題に属するという、それ自体としては誤りでない原則論を金科玉条として条約を無視し、それに刃向かうかのように死刑執行を継続することは主権の濫用と言わざるを得ないように思われます。

 では、ここで国連死刑廃止条約の内容を簡単に見ておきましょう(以下、阿部浩己教授訳による)。
 まず条約の最大の特徴は、死刑廃止を二段階に分けていることです。すなわち「この選択議定書の締約国の管轄内にある何人も、死刑を執行されない。」と定める条約1条1項によると、締約国はまず第一段階として、その管轄内での死刑執行を全面的に停止すること(死刑執行モラトリアム)が義務付けられます。然る後に、第二段階として、同条2項で「各締約国は、その管轄内において死刑を廃止するために必要なあらゆる措置をとる。」ことが義務付けられるのです。こうした二段階方式は、条約締約国に即時の死刑廃止を求めるのではなく、死刑廃止へ向けたプロセスを促進することを求める趣旨です。
 もちろん、二段階といっても、第一段階の死刑執行モラトリアムを実現した後、長期間死刑廃止のために必要な措置をとらずに放置することは許されませんが、最終的な死刑廃止まで一定の時間的なゆとりを持たせることは認められるわけです。その点で、同条約は各国の実情にも配慮された内容となっています。
 いくぶん論争の余地があるのは、条約2条で「戦時中に犯された軍事的性質を有する極めて重大な犯罪」に関しては戦時に死刑を適用することを例外的に許容していることです。この戦時の軍事的重大犯罪とは何を意味するかあいまいですが、例えば戦時のスパイ罪や反逆罪などがこれに該当するようです。
 しかし、平時以上に死刑制度が濫用されやすい戦時におけるこうしたあいまいな要件による死刑の許容は、たとえ例外的とはいえ、条約の重大な問題点とみなされます。
 ただし、この規定は条約批准時または加入時に特別の手続きに従って留保した場合に限って適用されるもので、留保しない限り、締約国は平時・戦時を問わず、あらゆる犯罪について死刑を廃止することが求められます。
 従って、この条約2条の存在をもって、国際法上死刑廃止は要請されていないなどと強弁することはできません。たとえ同条項を留保するとしても、最も一般的な死刑相当犯罪である殺人罪に関しては死刑廃止が義務付けられている事実にも変わりありません。

 ところで、日本が関わりを持つ死刑廃止条約がもう一本あります。それは「欧州人権及び基本的自由の保護条約」(以下、「欧州人権条約」と略す)です。欧州の一員ではない日本がなぜ欧州人権条約に関わりを持つかといえば、日本は1996年以来、米国などとともに欧州評議会のオブザーバー国に迎えられているからです。
 欧州評議会とは、欧州連合(EU)とは別に、人権、民主主義、法の支配といった価値観の促進と加盟国間の協調拡大を目的として設立された1949年以来の歴史を持つ欧州の国際機関です。この評議会では1994年以来、死刑廃止を加盟条件として課していますが、それに伴い、オブザーバー国に対しても死刑廃止を要請するようになってきたのです。
 かねて欧州人権条約では、欧州評議会が1982年に採択した第6議定書により死刑廃止を規定してきましたが、この議定書では「戦時又は差し迫った戦争の脅威があるとき」に犯された犯罪に対する死刑を存置しており、先の国連死刑廃止条約と類似の例外を許容しています。
 しかし、2002年に改めて採択された同条約第13議定書では、戦時を含めたあらゆる状況下での死刑廃止を規定しました。これは国連の条約よりも進んだ画期的な全面的死刑廃止条約の到達点となっています。
 これに先立つ2001年、欧州評議会議員会議は、同評議会オブザーバー国である日本と米国に対し、死刑執行の停止と死刑廃止に必要な段階的措置をとること、死刑囚監房の人権状況を改善することを要請し、2003年1月までに要求事項の著しい進展が見られなければ、同会議は両国のオブザーバー資格に異議を唱えるという決議をしたのです。
 このような西方からの思わぬ要求を内政干渉とみなす向きもあり、事実、日本政府は強く反発したようですが、欧州評議会のオブザーバー国となっている以上、欧州からの申し入れを単純に内政干渉として片づけるわけにはいきません。
 もちろん、日本は欧州人権条約を直接に批准すべき立場にはありませんが、欧州評議会のオブザーバー資格を返上するのでない以上、日本も欧州の言わば準メンバー国として欧州の人権政策に対する理解と協力を要請される立場にあります。従って、日本が欧州人権条約の趣旨を尊重して死刑廃止へ向けた努力を開始することは、欧州とのパートナーシップという自ら選択した外交政策の針路でもあるのです。
 ちなみに、日本と同様に欧州評議会のオブザーバー国である中米のメキシコは、2005年に死刑を全面的に廃止しています。

 以上のように、現在、日本ははっきりと当事者性を有する国連死刑廃止条約と、それに次ぐ準当事者性を有する欧州人権条約と二本の国際法に基づいて死刑廃止を勧告されるに至っています。
 これまでのところ、日本政府は「国内世論」を楯に取って一切耳を貸さない強硬な態度を貫いていますが、そのことは国内的には何ら問題にされないとしても、国際的には日本国及び日本国民の信望を著しく損ねることになりかねないということを私どもは認識すべきではないでしょうか。

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良心的裁判役拒否(連載第5回)

2011-09-17 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第3章 審理・評決法の欠陥

(1)糾問裁判への回帰
 あなたや私が被告人であったとして、裁判員のメンバー構成にはほとんど期待できないとしても、審理・評決法がそれなりに練られたものであれば、そこに一縷の望みをかけてもよいでしょう。しかし、そんな望みもあっさり打ち砕かれてしまうほど、裁判員制度は肝心要の審理・評決法に関しても欠陥を抱えているのです。
 まず審理法に関する最大の問題は、戦後司法改革の最大成果として憲法・刑事訴訟法の大原則となっている当事者主義の訴訟構造を大きく改変・制約してしまっていることです。
 当事者主義は、冤罪や不当な厳罰を防止すべく、戦前の裁判所主導の権威主義的な糾問裁判の方法を改め、とりわけ被告人の防御的弁論権(黙秘権を含む)を保障するところにその主眼があります。そのために、当事者主義の審理は裁判所側による被告人訊問(質問)ではなく、検察側と被告・弁護側の対論を軸に展開されていくことが基本となります。
 しかし、たくさんの争点をめぐって当事者間で対論していたら、裁判員制度が狙う数日というような超短期審理はとうてい実現しませんから、「争点を絞らせる」という名目で、新たに「公判前整理手続」なる制度を刑事訴訟法上に新設し、裁判員裁判の対象事件については必ずこの手続を経るものとし、ここで実質的な先取り審理をしてしまおうとしています。
 この手続では証人尋問を含む一定の証拠調べまで予定されているため、単なる公判準備手続の域を超え、実質的な「予備審理」の性格を持っています。にもかかわらず、この手続は完全非公開で行われるため、被告人の公開裁判を受ける権利を保障する憲法37条1条に違反する疑いも生じてきます。
 そればかりではありません。こうして非公開審理で半ば方向性の決まった事案をおもむろに裁判員裁判にかけたうえ、今度は裁判員による被告人質問を大幅に取り入れた審理をするのです。
 先に述べたように、当事者主義の審理では当事者間の対論が軸で、裁判官であれ、裁判員であれ、裁判者側の被告人質問は例外的・補充的なものにとどまります。一方、被告人には包括的な完全黙秘権が保障されています(刑事訴訟法第311条1項)。実際、裁判員法上も、裁判員による被告人質問は「刑事訴訟法第三百十一条の規定により被告人が任意に供述する場合には」という限定の下、例外的に認められているにすぎないのです(同法59条)。
 ところが仄聞するところによると、裁判員裁判では裁判員全員が被告人質問を繰り出すことが常態化しているようです。中には、相当に追及的・攻撃的な質問を向ける裁判員も存在するようです。もちろん、被告人は黙秘権を行使して応答を拒否できますが、「本当は犯人だから/反省していないから沈黙している」という印象を与えることになりかねません。
 ちなみに、裁判員裁判では裁判官と裁判員が全員、被告人の正面の法壇に横一列に着席する配置をとっていますが、原則形態では裁判官3人、裁判員6人の合わせて9人もの人間がズラリと法壇に並んで被告人を見下ろすという構図自体も威圧的で、当事者主義にふさわしいものではないように思われます。
 以上のような裁判員裁判の審理法を見ると、それは当事者主義の原則を逸脱し、旧式の追及的な糾問裁判へ回帰しようとしているとしか言いようがありません。しかし、これも裁判員制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに沿って重罪裁判で迅速な厳罰を下すことを狙った特例的制度であると理解するなら、十分にうなずける意図的な「逸脱」なのです。

(2)奇数・僅差評決法の問題性
 裁判員制度は、最終的に判決の内容・結論を決める評決法にも重大な欠陥を抱えています。それは裁判官と裁判員を合わせた奇数人員(原則9人、例外5人)で、なおかつ単純多数決によるわずか一票差(5:4または3:2)の僅差判決で有罪・死刑判決まで出せるように仕組まれていることです。
 このように非常に安易な評決法が採られているのも、もう容易に想像がつくように、最短期間で評決に達することで迅速な処罰を可能とするためにほかなりません。
 しかし一票差などというものは、メンバー構成が一人違っていただけでも全く正反対の結論に転んだかもしれない可能性が高い点で、裁判の評決としては全く信頼の置けないものです。
 その点を考慮してか、裁判員法は多数意見に必ず最低一人は職業裁判官(及び裁判員)が加わっていなければならないと定めているので(同法67条1項)、例えば有罪意見5人、無罪意見4人となった場合に、多数派5人全員が裁判員であったときは、一転して多数決ならぬ「少数決」によって無罪の結論となるのです。
 このようないささかわざとらしい変則的な規定をもってしても、僅差評決の問題性は解消されないでしょう。なぜなら、職業裁判官が一人加わったからといって、それだけで僅差の多数意見の正当性が増すわけではなく、評議が十分に煮詰まらない間に一票差で結論を出してしまう安易さに変わりないからです。
 もっとも、職業裁判官の裁判でも3人の合議で2:1の一票差評決をしているわけですが、9人制で2:1の比率に相当するのは6:3です(5人制の場合は2:1に分けることが数学的にできないので、4:1とするしかない)。6:3は9人制では特別多数決の最低ラインですから、せめてこれくらいの規準は定めておくべきなのに、それすらしようとしないのは、裁判員制度がどこまでも迅速さを至上命題としていることの表われです。
 本来からいけば、有罪評決や死刑評決のように、被告人の運命を決定づけるような評決をするには全員一致制を定めておくのが真摯な立法態度ではありますが、こと裁判員制度に関する限り、そんなことを期待するのは無駄のようです。

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放射線差別について

2011-09-16 | 時評

福島原発事故に伴う放射性物質の大量放出以来、避難してきた福島県民を忌避する放射線差別と呼ぶべき新しい差別事象が各地で報告されている。

先般、ついに原子力を所管する現職大臣までが「放射能をつけちゃうぞ」とか「放射能をうつすぞ」などという戯言を記者相手の非公式な場で発したことをも一つの理由として、辞職に追い込まれる“事件”まで起きた。

この件については、本当にそうした発言があったのか、またあったとしてどういう状況で発せられたのか不透明な点も残るが、前大臣は発言内容を明確に否定することができなかった以上、そういった類の戯言は実際にあったと認めざるを得ない。

となると、放射線差別はそれこそ上から下まで相当広範囲な層で蔓延していることになり、衝撃的である。

放射性物質は人体、ひいては生態系に害を及ぼし得る物質であるから、管理されない状態で放出される放射性物質を回避し、除染を図ることはもとより「差別」に当たらない。

しかし、放射性物質が付着しているとみなされる人自体を医学的・科学的根拠なしに汚染源として不可蝕民化して忌避するのは、「差別」に該当する。

こうした放射線差別は、従来、原発災害が発生することはないという非科学的想定で動いていた日本では見られなかった新種の差別事象であるが、放射性物質をあたかも病原菌のように見立て、それが付着しているとみなされた人を不可蝕民化するという形をとる点では、従来から見られる伝染病者への差別と構造的に類似する。

前大臣の場合、福島を視察して帰京した自分自身を放射線汚染源と見立てて、「つけちゃう」とか「うつす」とか自虐的に表現してふざけてみせたようだが、これは自己差別の形態に近い。

しかし、自己差別も一つの差別の形態にほかならないし、自己差別でも明らかにふざけている場合は、他者差別に限りなく等しい。あたかも、「バイキン」としていじめられている子どもに触った子どもが他の子どもに「バイキンつけちゃうぞ」とふざけかかるような、まさに児戯だ。

こうした放射線差別を克服するには、一人ひとりが放射線に関する正しい科学的・医学的知識を身につけるべきはもちろんだが、それだけでは不足である。

現在、国内で放射線差別の標的になっているのは専ら福島県民であるが、事故が長期化している現状では、海外で日本人そのものが放射線差別に遭う恐れ―すでに起きているかもしれない―も否定できない。こうして差別の加害者が被害者に転じる差別の連環構造を痛切に意識することが大切である。

いずれにせよ、国務大臣が差別を助長するような発言をすることはそれだけで辞職理由になるという先例が一応一つできたことは、不幸中の幸いであったと思う。

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国家の無力

2011-09-11 | 時評

3・11から半年。いくらか落ち着きを取り戻したところで、この出来事から引き出せる教訓について考えてみたい。

直入に言うと、それは「防災対策」でも「安全神話」でもない、「国家の無力」だ。

時の政権の無策はもう散々に酷評されてきた。それには一理も二理もあるとはいえ、他の政権であれば快刀乱麻のごとく鮮やかに対処できたかと言えば、そういう保証もない。事はもはや、特定の政権、政党、政治家の資質の問題などではなく、国家というシステムそのものの問題だからだ。

要するに、国家はマンモスのように巨大になりすぎて身動きできなくなってしまったのだ。それでも、マニュアル対応可能な平常時はまだよい。マニュアル対応できないまさに「想定外」の非常時に、国家は無力ぶりをさらけ出す。

こう言えば、「小さな政府」論を想起させるかもしれないが、「小さな政府」論の問題性は、福祉削減云々ということよりも、マンモスをいくら減量しても競走馬のように疾走することは不可能だということにある。マンモスは減量してもマンモスだ。

他方、震災後、少なからぬ避難所では住民の自治的な運営組織が立ち上がり、混乱の中から秩序を作り出した有能さには目をみはらせるものもあった。

もし国の無力に業を煮やした被災者らが避難所を拠点に横につながって「被災者評議会」のような対抗的自治権力を樹立すれば、ちょっとした「革命」になったところだが、万が一にもそんな事態にならないよう、避難所は早々と閉鎖され、被災者らは仮設住宅へ押し込められ、ばらばらにされてしまう。国家にとっては被災者たちが覚醒して自立するよりも、親鳥を待つ雛のように受身でいていただく方が好都合なのだ。

そろそろ国家というシステムへの幻想をきっぱりと断ち切るべき時だと思うが、人々の間には依然、強い国家(指導者)への甘い期待が伏在しているように見える。そうした期待に便乗する形で、国家支配層も「復興」を口実にかえって国家への権力集中体制を再構築しようと企てている気配もある。

そういう方向に流されないためにも、国家なき社会運営のシステムを考えるべき時だ。

ただ、国家なき社会運営などと言えば、ユートピアと思われるかもしれないが、決してそうではない。すでに考えるヒントは提出されている。

その一つは地方自治。とりわけ、市町村自治だ。震災のような非常時には最も身近な生活関連行政最前線の市町村自治体(コミューン)の重要性が再認識された。ただ、国家の家臣のような自治体では十分な力は発揮できない。国家の重しを取り除いてはじめて自治体は真の自治権を回復できる。

もう一つは地球村という考え方。国家という分裂的な枠組みでは対処し切れない環境問題のような地球的課題に立ち向かうには、地球全体を包摂する共同体(コモンウェルス)が必要である。それはまた、災害時の救援や復興にも大いに寄与するだろう。

国家の無力は日本に限らず、世界中で露呈している問題である。偶然にも今日が十年の節目である米国の9・11でも、米国という世界一巨大な国家の中枢が国家形態を取らないアメーバのような武装集団に痛撃されたのだった。

ただ、9・11のように犯罪でなく、自然に痛撃された3・11後の日本人は今、国家の無力を最もリアルに感得できる立場にある。そういう意味で、日本発の新たなアイデアが誕生することを期待できるのである。 

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良心的裁判役拒否(連載第4回)

2011-09-10 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第2章 強制と排除(続き)

(3)六つの排除システム
 前回見たように、裁判役は強制的性格の強い義務ですが、その一方で当局から見て「好ましからざる人物」を排除する仕掛けを何重にも用意しています。このように、裁判員制度は「強制と排除」を本旨とする極めて抑圧的な制度なのです。
 本節が主題とするのは、排除のシステムですが、この点、裁判員法は実に六種類もの排除装置を用意しています。その六種類とは、(A)無資格者排除(裁判員法13条)(B)欠格者排除(同法14条)(C)不適格者排除(同法17条・18条)(D)就職禁止(15条)(E)〔特に検察側からの〕忌避(同法36条)(F)解任(同法41条・43条)です。
 各々の詳細の説明は省きますが、こうした排除装置によって裁判役から排除される者のカテゴリーは、おおむね(ア)外国人(イ)未成年者(ウ)障碍者、無学歴者等(エ)犯歴者、被疑者・被告人等(オ)危険思想分子(カ)事件の当事者等といった人たちです。
 このうち、事件の当事者等が裁判員となるべきでないことは当然ですから、(カ)のカテゴリーは排除というよりも除外事由になります。その他、(エ)のカテゴリーのうち被疑者・被告人は自分の事件への対応に専念すべきですから、これも除外することに合理性があります。さらに、(ウ)のカテゴリーのうち、知的障碍者をはじめ、裁判員として当事者の主張や証拠を検討するだけの知能が欠如している者の除外も合理性を認めざるを得ないでしょう。
 しかし、それ以外のカテゴリー、特に(オ)の危険思想分子には当局の視点に立って「好ましからざる人物」を予め排除しようとする意図がはっきりと読み取れます。言い換えれば、裁判役には予め当局にとって都合のよさそうな人を召集したいという、一種の「選抜徴兵制」のようなコンセプトがあるわけです。
 ここで最も問題の多い危険思想分子の排除に焦点を当ててみましょう。これは先ほど列挙した六種類の排除装置のうち欠格者排除の一環を成すものです。
 裁判員法はこの点、国家公務員法上の公務員の欠格事由を準用する形で、「日本国憲法施行の日以降において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」を裁判員から排除します。
 これは国家公務員の任用の場合に準じて、特定政党・団体、とりわけ共産主義政党・団体への所属関係の有無を問題とする規定です。文言から見て、戦後版思想取締法として違憲論も根強い破壊活動防止法と連動していることがわかります。
 おそらく同法に基づいて、あるいはそれとは別途、公安当局が監視下に置く政党・団体のメンバー、元メンバーが標的にされるでしょう。「日本国憲法施行の日以降」とありますから、1947年5月3日以降という歴史的なスパンを持った排除規定であることに驚かされます。
 この規定はそれに該当する人物は絶対的に排除する趣旨ですから、裁判所は呼び出した全裁判員候補者について該当性を判断しなければなりませんが、そのために裁判所は公安情報を蓄積している公安調査庁・公安警察等の政治警察機関へ秘密裡に照会を取る必要があります(裁判員法12条参照)。ということは、裁判員制度は政治警察機関とも連係しながら運用されていくものだということがわかります。まさに治安装置なのです。
 もっとも、そんな破壊活動団体の関係者は裁判員から排除されて当然だと思われるかもしれません。しかし、一方で指定暴力団組織のメンバーが排除されていないことは不可解です。それをおいても、破壊活動団体に該当するかどうかは、公安情報に基づき裁判所が判断することですから、自分では平和的団体に所属しているつもりでも、裁判所には破壊活動団体だと認定されてしまうことは十分にあり得ます。
 また、直接には先の要件に該当しない者でも、裁判所が「不公平な裁判をするおそれがあると認めた者」は不適格者として予め排除されるか(不適格事由)、いったん裁判員に選任されても事後的に解任されます(解任事由)。
 「不公平な裁判をするおそれ」という極めてあいまいな文言で、裁判所が一方的に特定の裁判員候補者または現役裁判員を排除できるため、この規定を通じて死刑相当事件では死刑廃止論者を排除したり、一般的に警察・検察・裁判所などの公権力に対して批判的な思想を持つ者を排除したりする目的で利用される可能性が指摘されています。
 いずれにせよ、先の六種類の排除装置は単独で、あるいは複合的に作動して「好ましからざる人物」を排除するように仕組まれているわけです。

(4)最後に残る人々
 以上のような「強制と排除」の結果、最後に裁判員として残るのはどんな人たちなのでしょうか。
 まず免除特権が認められる社会上層の人たちはそもそも召集もされないのですから、裁判役を課せられるのは初めから庶民層の一般国民(有権者)です。
 そこから先の排除装置によって排除されていく人たちを差し引くと、さしあたり残るのは体制に従順な庶民層の一般国民となるでしょう。
 もっとも、先に見たように、例外的に「辞退」という名の個別免除が認められやすい人たちがいます。その筆頭は「無理由辞退」が認められる70歳以上の高齢者や学生・生徒です。大まかに言えば、老人と若者は免除されやすいということになるでしょう。そうすると、裁判役の中核的世代は中年層に集中してきます(ここは若者中心の軍事的兵役とちょっと違うところです)。
 その中でも、「理由付き辞退」が認められやすい人とそうでない人とに分かれていきます。最も認められやすいのは、健康・体調を理由とする場合ですから、病気・病弱の人や妊産婦は免除されるでしょう。次いで、山間部など交通の便の悪い所に居住しているため、裁判所に「出頭」することが困難な人も免除されやすいと思われます。
 微妙なのは、介護・養育・付添い等の必要を理由とする場合です。おそらくこの理由で免除されるのは、介護・養育・付添い等を代わってもらえる人が容易に見当たらないような場合に限られてくると思われます。
 そうすると、結局のところ、裁判員として最後に残る人たち(原則6人、例外4人)は、おおよそ次のような顔ぶれになるでしょう。

〔取替えの利く一般労働者+各種ケアに忙殺されない有閑主婦+その他の有閑中年層〕であって、裁判員裁判が開かれる裁判所の所在する都市またはその近郊に住む健常・健康な人々

 おそらく当局はこのような人たちこそ裁判員にふさわしいと考えているのでしょう。しかし、あなたや私が被告人であったとしたら、このような顔ぶれの人たちに裁かれたいでしょうか。
 「能力」を疑うわけではありません。現代の一般庶民層の知的レベルは相対的に上がっているので、「能力」を疑うのは失礼というものです。問題は判断傾向です。上掲のような人たちの判断傾向はほぼ想像がつきます。一般には厳罰志向で、被告・弁護側よりも検察側に共感しやすい人たちです。
 実際、これまで二年余りの裁判員裁判の実績を見ても、検察側求刑をそのまま認容する「満額回答」も少なくなく、職業裁判官の裁判ではほとんど見られなかった求刑を上回る量刑をするケースも見られます。一部で減少するのではないかとの楽観もあった死刑や無期懲役刑のような重刑もどんどん出されています。また、有期懲役刑の求刑でも、従来の職業裁判官の裁判では八掛け(例えば、懲役20年の求刑に対して8割の懲役16年の判決)が相場と言われていたのが、裁判員裁判では九掛け(先の例で求刑の9割の懲役18年の判決)前後まで引き上がる傾向が出ています。
 ただ、こうした厳罰化傾向は、「犯罪との戦い」という裁判員制度のモチーフとなる法イデオロギーにはまさに合致しているのですから、現状は立法者のもくろみどおりとなっているわけです。

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死刑廃止への招待(第4話)

2011-09-09 | 〆死刑廃止への招待

重大な犯罪ほど社会構造の歪み・ひずみがその温床となっており、犯人個人を死刑に処したところで問題の本質的な解決にはならない

 死刑とは「犯罪者を人類の共同社会と生者の名簿から厳粛に抹消すること」(J・S・ミル)を意味していますが、このような死刑のコンセプトの根底には「社会は常に善であり、悪はすべて犯人の側にある」との考え方(社会性善説)が存在するものと思われます。
 これは「責任」という観点からみると、社会の側に責任を認めず、罪を犯した個人に100パーセントの責任を負わせるという点では「社会無罪説」と呼ぶこともできるでしょう。
 しかし、こうした社会性善説ないし社会無罪説は、犯罪現象の本質をとらえ損ねているように思えてなりません。
 アリストテレスが言ったように、人間とは社会的動物ですから、社会と個人とは、概念上はともかく、現実には分離できないはずです。要するに「人間的本質は、その現実態においては、社会的諸関係の総体である」(マルクス)ということになります。言い換えれば、犯罪現象は社会構造の所産であって、各々の犯罪行為には各時代の社会構造が映し出されているものなのです。

 現代的社会構造の中でも犯罪との関わりで最も中心的なものは、商品経済です。今日、贅沢品から日常の基本的な衣食住に関わる物品・サービスに至るまですべてが商品化され、貨幣と交換でなければ獲得できなくなっています。
 そうなれば、カネのためには殺人さえも辞さないとの考えを助長していくことは必定です。実際、殺人犯罪にも多くの場合、カネがどこかに絡んでいます。強盗殺人は特にそうですが、保険金殺人、身代金目的誘拐殺人、借金をめぐるトラブルからの殺人等々・・・・。
 そして、裁判所の量刑上もこうしたカネにまつわる利欲的な動機による殺人は重くなりがちです。特に強盗殺人罪(刑法240条)は法定刑に死刑と無期懲役刑しか持たない関係上、死刑の公算は高くなります。
 より大きくみれば、商品‐貨幣交換経済、そしてそれの権化としての資本主義経済構造が利欲的犯罪の温床を形成しているのです。
 一方、資本主義経済構造は個人の利己主義的欲望をエートスとして自己を保持しているわけですが、資本主義によって刺激される私利私欲は金銭的欲望のみならず、性の商品化現象とも絡んで、性的欲望のような非金銭的欲望にも及び、フェティッシュな性犯罪の温床を形成することにもなります。ちなみに性的目的の殺人、とりわけ若い女性や児童を被害者とするものは量刑上重くなりがちです。
 また、資本主義経済構造と密接不可分なブルジョワ社会において進行する人間の原子化、社会的孤立化は、直接ではないにせよ、不可解な暴発的暴力犯罪の要因となることも指摘しなければなりません。
 もっとも、1990年代半ばの日本社会を震撼させたオウム真理教教団による化学テロ事件(サリン事件)のようなものになると、社会構造云々とは無関係ではないか、という反論もおありかもしれません。
 これは難問です。しかし、判決で言われたように、同事件は教団に対する民事裁判や刑事捜査を妨害するためのかく乱工作であったという表面的な説明にどれだけの人が納得できるでしょうか。
 筆者はさしあたり、ブルジョワ社会における宗教の私事化傾向をめぐるマルクスの次のような指摘が―完全ではないにせよ―かなりの程度妥当すると考えています。

「いまや宗教は、ブルジョワ社会の精神、すなわち利己主義の領域、万人の万人に対する戦いの領域の精神となった。宗教はもはや共同性の本質でなく区別の本質である。宗教は共同体からの、自分と他の人間からの、人間の分離の表現となっている―宗教はもともとそのようなものだったのである。もはや宗教は、特殊な倒錯、私的妄想、気まぐれの抽象的な告白にすぎない。」(城塚登訳―訳文一部変更)

 もちろん、こうした一般論に加えて、バブル経済崩壊に伴う高度経済成長時代の完全な終焉、それに引き続く「失われた十年」の只中に当たった90年代半ばという時期にオウムのような宗教反動勢力が台頭し、理科系高学歴者を含む多彩な青年層を惹きつけ、しかもその集団がテロリズムへと暴走していったことの関連が分析されなければなりませんが、オウム論は本連載の主題を超えるため、詳論は避けます。

 ところで、このような犯罪と社会構造との関連を重視することは、個人の犯罪実行責任を否定することを意味していません。単純に「社会が悪い」として、犯罪を「社会のせい」にすることとは違います。
 むしろ、個人が犯罪実行責任を負うべきことは否定されないまでも、100パーセントの責任を個人に押し付けるのではなく、社会も犯罪に対して相応の「責任」を引き受けるべきことを意味しているのです。
 このことを標語的にまとめると、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」と表現することができます。言い換えれば、個人には犯罪実行責任があるが、社会には犯罪誘発責任があるということです。
 前回指摘したとおり、重大な凶悪犯罪を犯した人ほど、苦難の人生を歩んできた社会的困難者であり、社会はどこかでその人のSOSを受信して救出し得べきであったのですが、かえって犯罪の方向へ背中を押してしまったのです。
 もっとも、犯罪誘発「責任」といっても、社会そのものを罰することは不可能ですから、ここで言う「責任」とは、まず何よりも公的責任において罪を犯した人の矯正・更生を図ることです。これは要するに、死刑でなく矯正施設での矯正プログラムや出所後の更生のサポートを徹底して充実させることを意味しています。
 犯罪誘発責任のもう一つの重要な内容は犯罪被害者に対する関係でも、社会は「責任」を負うべきであるということです。すなわち、社会は元来、犯罪の発生を防止する責務を負っていますが、それにもかかわらず犯罪を誘発して被害を引き起こしてしまったに対して「責任」を負わねばならないのです。
 具体的には、犯罪被害者及びその家族・遺族に対する公的な補償、心身のケアなどの無償サポートといった施策を高度に充実させることです。死刑はしばしば「被害者のため」という目的論を伴うことがありますが、犯人を殺したところで、被害者側に生じた経済的・精神的被害の実質的な回復につながるわけではありません。
 死刑によって犯人を人類社会から永久に抹消することは、結局、社会が上記のような犯罪誘発責任を果たすことを回避し、事件に永久にふたをしてしまうことにほかなりません。
 オウム事件では、事件発生から20年近くを経て、すべての事案で最高首謀者と認定された教祖をはじめ、事件に関わった教団幹部らに次々と死刑判決が確定していっています。
 当局としては、事件の主犯者級に対する「全員処刑」をもって、事件の“最終解決”としているように見えます。しかし、それによって得られるものは何なのでしょうか。よくよく考えてみる必要がありそうです。

 ここで少々品の良くないたとえ話を披瀝してみたいと思います。題して「ゴキブリ理論」。
 いま仮に皆様のお宅にゴキブリがよく出没するとします。そこで対策として大量の殺虫剤をまとめ買いしてかれらが顔を出したつど殺虫剤で殺してまわります。ご経験がおありかもしれません。こういう行動は果たして合理的なのでしょうか。
 ゴキブリがあまりに多いとしたら、皆様のお宅がゴキブリの餌場と化しているのではないかと疑い、一度大掃除してそもそもゴキブリが大量発生しないようにする方が、殺虫剤を大量に使用するよりも合理的ではないでしょうか。
 このたとえ話のゴキブリを「犯罪」に、皆様のお宅を「社会」に置き換えてみると、本稿で筆者が述べようとしたことのまとめとなります。
 ところで、社会の「大掃除」の究極には、そもそも犯罪の温床となる社会構造そのものの変革、すなわち社会革命ということが視野に入ってきます。これについて多くを語ることはできませんが、ここでは再びマルクスの次のような提案を引いて締めくくっておきましょう。

「たくさんの犯罪者を処刑することによって、ただ新しい犯罪者を作り出す余地を与えるにすぎない死刑執行人をほめるかわりに、このような犯罪を培養する社会体制の変革についてとくと思案する必要がありはしないか?」(大月書店版全集訳)

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良心的裁判役拒否(連載第3回)

2011-09-03 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第2章 強制と排除

(1)出頭義務と免除特権
 裁判役の強制的性格を象徴するキーワードが「出頭」という言葉。しかも、こうした「出頭」が何重にも罰則付きで強制されるのです。刑事訴訟法では身柄を拘束されていない限り、被疑者ですら出頭は任意なのに・・・です。
 そうした出頭強制の集大成と言うべき条文が裁判員法112条です。以下、少し長いですが、一部省略のうえそのまま掲げてみます(下線筆者)。

第百十二条  次の各号のいずれかに当たる場合には、裁判所は、決定で、十万円以下の過料に処する。
一  呼出しを受けた裁判員候補者が、第二十九条第一項(第三十八条第二項(第四十六条第二項において準用する場合を含む。)、第四十七条第二項及び第九十二条第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、正当な理由がなく出頭しないとき。
二  呼出しを受けた選任予定裁判員が、第九十七条第五項の規定により読み替えて適用する第二十九条第一項の規定に違反して、正当な理由がなく出頭しないとき。
三  略
四  裁判員又は補充裁判員が、第五十二条の規定に違反して、正当な理由がなく、公判期日又は公判準備において裁判所がする証人その他の者の尋問若しくは検証の日時及び場所に出頭しないとき。
五  裁判員が、第六十三条第一項(第七十八条第五項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、正当な理由がなく、公判期日に出頭しないとき。

 どうでしょうか。これだけ「出頭」を振りかざされると、相当寛大な人でも腹が立ちませんか。
 しかし、裁判員法はこうした裁判役の強制性を少しでも覆い隠そうとするためか、裁判員に日当(最大で1日1万円)を支払い、裁判員をあたかも臨時職公務員のように仕立てたうえ、裁判役を「職務」と表現し、裁判役に就かされることを「就職」と表現しますが、そういうお体裁は「出頭」というキーワードと鋭く矛盾します。
 裁判役は「苦役」であればこそ、法律は特定の職業カテゴリーに属する人々には免除特権を与えて裁判役から保護しているのです。この免除特権は「就職禁止」と「辞退」というやはり問題含みの名称を与えられた二つの制度内制度の中に潜り込ませる形で定められているため、気づきにくくなっています。
 このうち「就職禁止」(裁判員法15条)とは、一定の職業カテゴリーに該当する者をおよそ裁判役に就かせないという形で一般的に免除する制度です。この中には、裁判官・検察官・弁護士といった法曹のように、元来「法律の素人」を召集するという裁判員制度の趣旨からして免除というより一般的に除外されることに合理性が認められるカテゴリーも含まれています。
 しかし、総じて国会議員や国の高給(級)公務員、自衛官といった国家公務員に対して「就職禁止」という名目の下に免除特権が与えられていることは見逃せません。
 もう一つの「辞退」については次項で改めて見ますが、本来は法令の定める一定の条件または事情が認められる場合に申し立てに基づいて個別的に裁判役を免除する制度です。
 その中に「その従事する事業における重要な用務であって自らがこれを処理しなければ当該事業に著しい損害が生じるおそれがあるものがあること」という理由で辞退が許される場合があります(裁判員法16条8号ハ)。
 この文言から想像がつくように、こうした不可代替的な用務(所用)を持つ人たちと言えば、企業・団体の長や首脳級幹部職、開業医のような自営業者、さらにスポーツ選手や芸術家・芸能人といった人たちですから、こういった人たちはこの規定の下にほぼ自動的に辞退という形の免除が認められるでしょう。
 以上を要するに、裁判員制度は国の高給公務員や企業経営者、医師、スポーツ・芸能関係者など、一般に社会的地位が高いとみなされる職業カテゴリーに属する人たちには、「仕事」を優先してもらうという名分のもとに裁判役からの免除特権を付与しようとしているわけです。
 本来の軍事的兵役もタテマエ上は国民全般に平等に決せられる国防上の義務とされていながら、実際は支配層に属する人たちに制度上ないし(海外留学のような形を取った)事実上の免除特権が与えられていることとまことに相似的な関係にあることがわかります。

(2)「辞退」の仕掛け
 「辞退」の制度については、前節で先取り的に言及しておきましたが、この「辞退」という用語にも疑問を感じられないでしょうか。
 「辞退」というと、何か好意で与えられるものを遠慮するというニュアンスですが、裁判役は強制的義務ですから、それを「辞退」するという言い方は、裁判役に就かされることを「就職」と表現するのと同様の欺瞞です。
 「辞退」とは、先ほど述べたように、個別的な免除にほかならないのですから、先の免除特権とは異なり、例外的な場合にしか認められない「恩典」に近いものです。
 それでも「辞退」はここでの主題である良心的拒否との関わりでは使い道のある制度ですので、詳しくは実践編で検討することとし、ここでは大まかにその仕掛けを見ておきます。
 まず、「辞退」には大別して(A)無理由辞退と(B)理由付き辞退の二種があります。(A)は一定の条件(地位)が認められる限り、理由を付さずに辞退が認められるもので、そこに含まれるのは、70歳以上の高齢者、学生・生徒、地方議会議員(会期中に限る)、裁判員や検察審査員を経験して間がない者です。こういった条件の人たちに無理由辞退を認めるのは当然とも言えます(学徒動員をしないのは見上げたものかもしれません)。
 問題を含むのは(B)の理由付き辞退のほうです。これは法律所定の理由があることを申立者側が証明し、それを裁判所が認めたときにはじめて免除が許されるものです、所定の理由は大きく(a)健康・体調(b)介護・養育・付き添い等の必要(c)重要な用務(所用)(d)不便・不利益の四種に分けられます。
 そのうち前節で見た隠された免除特権の性質を持つ(c)を除くと、所定の理由の存在を証明するには自己や家族の病歴や健康状態、家族を含めた生活状況、経済状況、さらには自己の思想・信条といった内面的な事柄に至るまで開示する必要が生じてしまうこと、すなわちプライバシー情報が裁判所に取得されてしまうことが最大の問題です。
 もちろん、そうした不利益を甘受してでも裁判役を免除されたいという方もおられるでしょうが、プライバシーの意識が高まった時代に裁判員法が裁判員選任手続の過程で取得される多種多様な個人情報の保護について詳細な規定を置いていないのは驚くべきことです。
 こうした人権軽視の姿勢も、裁判役がまさしく苦役にほかならないことを如実に物語るものと言えるでしょう。

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死刑廃止への招待(第3話)

2011-09-02 | 〆死刑廃止への招待

死刑は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、人間としての存在価値を否定する究極の差別である

 死刑を正当化する理由づけはいろいろありますが、究極的な決め手は一定の重大犯罪を犯したと認められた者を化し、一種の動物としてその人間的な存在価値を否定するところにあると考えられます。
 この点、裁判所の死刑判決の中でもしばしば被告人を「鬼畜」呼ばわりしたり、もう少し穏やかに「人間性を欠く」と指弾したりすることがありますが、これこそが決定的な「死刑の理由」なのです。被告人が人間であるならば、やはり人間としての尊厳を認めてやらねばならないので、被告人を化して、害獣と同様に「殺処分」することを正当化するロジックを必要とするのです。

 このように犯罪者を動物視する思想には西洋でも長い歴史があります。古くはアリストテレスが「悪人は動物よりも悪く、より有害である」と指摘し(動物以下!)、これを引き継いで、中世スコラ哲学の大家トマス・アクィナスも「人が彼の尊厳を保持する限り、人を殺すことはそれ自体として悪である。しかし、犯罪者を殺すことは、動物を殺すことと同様に、善であり得る」と断じます。
 また、近代啓蒙思想の祖ジョン・ロックに至っても、「人間はライオンやトラなど野生の獣とともに社会を形成することもできないし、安全を確保することもできないのであり、こうした獣を殺してもよいように、犯罪者を殺すこともできるのである」と勇ましく書いています。
 こうした思想に共通しているのは、人はある特定の犯罪を一度でも犯したことによって人間とはみなされなくなるという考え方です。これは要するに、罪を犯した人に対する差別の視線なのです。
 「犯罪者」という日常語がすでに、犯罪を犯したということを一つの負のしるしとして、一般人と異なる何か特殊な個人であるとみなす差別一歩手前の表現になっているわけです。これにさらに「凶悪」という形容が加わって「凶悪犯罪者」となると、これはもはや人間ではない動物、あるいは動物以下の屑として人格を否定され、死を宣告されます。

 それでも、実際、人間とは呼べないような所業をなす者は現実に存在するではないか、そのような者を鬼畜と断罪することがどうして“差別”なのだ、とお怒りになるでしょうか。
 しかし、実際上、生きるに値しない鬼畜か、生きるに値する人間かを厳密に区別する基準はあるのでしょうか。
 これは死刑か無期刑かの判断基準、すなわち死刑の適用基準としてかねてから議論になってきた問題とも関連してきますが、例の裁判員制度の下では、原則として死刑判決にも裁判員が関与しなければならなくなったため、死刑の適用基準は一般国民が直接に当面する問題となったのです。
 この点、現行法上、外患誘致罪(刑法81条)という罪は法定刑に死刑しか持たない唯一の犯罪ですが、この場合は基準を云々するまでもなく、外患誘致の事実が認められる限り、自動的に死刑となるので極めて明快です。しかし、外患誘致とは「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させる」罪であって、内乱罪(刑法77条)と並ぶ一種の国家反逆行為ですから、これは凶悪犯というよりも国事犯として断罪されるものです。
 これ以外の死刑相当犯罪では、死刑はすべて選択刑として与えられていますから、死刑の適用基準に悩まされることになります。例えば、最も代表的な殺人罪(刑法199条)では「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役刑に処する。」という簡単な規定があるだけですから、具体的にどんな場合に死刑を選択すべきか、規定上からは全くうかがいしれないのです。
 そこで、最高裁は1983年の永山事件判決で「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害者感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地かも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」という“基準”を示しています。
 しかし、これは死刑の適用にあたって考慮すべき要素をごった煮的に列挙しただけであって、各々の要素をどの程度どう考慮すべきか何も示していません。
 よく死刑廃止論に対して、「人を何人殺しても死刑にならないのは納得できない」との反論が寄せられますが、被害者の数だけが死刑の決定的基準ではないですし、その被害者数にしても、では何人殺せば死刑を適用すべきなのか明言できる人は裁判官を含めてまずいないのでしょう。
 このようにあってなきがごときあいまいな“基準”でもって、「生きるに値しない者」(=死刑)と「生きるに値する者」(=無期刑)とを選別すること自体も差別にほかならないのではないでしょうか。
 もっと徹底してあいまいな“基準”によって、人間を「生きるに値しない者」と「生きるに値する者」とに峻別する政策を極限まで追求したのはナチスでした。
 ナチスは「健全な民族共同体」の夢を実現すべく、「生きるに値しない」と判断されたユダヤ人をはじめとする少数民族、障碍者、同性愛者などを絶滅しようと企図し、実際に実行しました。そのナチス体制が同時に、死刑制度を大幅に拡大強化し、大量処刑政策を採ったことは決して偶然ではありません。
 ナチスは一つの極限的事例ではありますが、死刑とは国家が人を生きるに値するか/値しないかという観点から恣意的に選別する制度であるという点で、ナチ的なるものとの親和性を否定することはできません。

 とはいえ、私どもは残酷な犯罪を犯したとされる人に非人間的なものを感じ取ってしまうことも事実です。これはいったいどうしてだろうかという疑問が長く筆者にまとわりついています。
 この疑問を解くことは容易ではありませんが、その鍵をドイツの哲学者ニーチェのアフォリズム『人間的な、あまりに人間的な』の中に見出すことができます(以下、池尾健一訳による)。
 ニーチェによると、「われわれの内部にいる野獣は欺かれたがる、道徳はわれわれがかの野獣に引き裂かれないための窮余の嘘である」というのです。すると、野獣―鬼畜と言い換えてもよいでしょう―は私どもの内部にも潜んでいるようです。それを「道徳」という名の欺瞞によって眠らせてあるのです。ニーチェは、そのような人間存在のありようを「超動物」と名づけます。
 ところが、「今でも残酷であるような人々は、残存している以前の文化の諸段階とみなされなければならない」、「彼らは、われわれすべてが何者であったかを、われわれに示して、愕然とさせる」といいます。このように、「遅れたものとしての残酷な人間」を見せられると、「自己を何か高級なものと考え」ている「超動物」たるわれわれは、自己の内部で眠らされていた野獣の存在に気づかされて恐怖し、なおかつ「動物性のほうに近いままの段階に対して憎悪を感じ」るのです。
 そうだとすると、残酷な犯罪が発生したときに社会に沸き起こる道徳的パニックも、単に他人に対する第三者的な糾弾なのではなく、自己の内部で太古以来眠らされていた「内なる鬼畜」を呼び覚まされることへの恐怖と、そこから生じた自己否定的な憎悪を本質とする現象ということになりそうです。そして、このような自己否定的な憎悪が残酷な犯罪を犯した者の鬼畜視という差別へとつながっていくのだとすると、ここには簡単に解きほぐすことのできない深層心理的なメカニズムが伏在していることになるでしょう。
 ニーチェの言うような「超動物」なる問題系は、死刑廃止を人類普遍の法則に昇華させるうえで最大の難関となるのではないかと筆者は考えている次第です。

 さしあたり私どもになし得ることは、犯罪の残酷さという事実に目を奪われることなく、そのような犯罪を犯した人が犯行に至るまでのプロセスをトータルに見る視座を持つことではないでしょうか。
 鬼畜視の視線にあっては、人はある特定の日付に犯したとされる犯罪行為だけで「鬼畜」として記号化されてしまうのですが、どんな「鬼畜」にも問題となった犯行に至るまで十数年から数十年の人生があります。
 その人生はたいてい経済的にも精神的にも苦難に満ちたものです。しかも、ほとんどの場合、虐待・放棄、反対に過保護・過干渉など親の不適切な育児・養育の犠牲者です。つまり、「鬼畜の所業」などと断罪されるような犯罪を犯した人は例外なく社会的困難者、言わば社会の迷子たちなのです。
 こうした人たちは青少年期のどこかでSOSを発信していたはずなのですが、社会の側でそれを受信し損ねると、かれらは救出されないまま、糸の切れたタコのように軌道を外れてあらぬ方向へ飛んでいってしまいます。その行き着く先の中でも最悪のものが凶悪犯罪です。
 この点、米国の著名な精神医学者カール・メニンガーがより一般化して、「長い間我慢してきた受身の状態、挫折感、無力感から抜け出すために、何かをしたいという絶望的な必要に迫られて犯罪は犯される」と指摘していることも参考になります。
 このように、犯罪を犯した人を全人的に把握する視点に立ってみれば、多くの人は、残酷な犯罪を犯した者といえども「生きるに値しない鬼畜」と断ずることに一定のためらいを感じるようになるのではないでしょうか。

 この点からみても、裁判員制度では裁判員の負担への配慮を口実に、平均して三日というような超短期審理が企図されているため、全人的な把握をする時間的余裕がなく、犯行の残酷さにとらわれた鬼畜視が促進され、ひいては死刑判決も増加しはしまいかという懸念があります。
 このような懸念を払拭するためにも、死刑を求刑される可能性のある事件では、短期審理に拘泥せず、丁寧な審理を目指すべきことは、死刑を存置する現行法制の下では最低限度の要請であると考えます。

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