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近代革命の社会力学(連載第431回)

2022-05-24 | 〆近代革命の社会力学

六十一 インドネシア民衆革命

(5)革命の余波‐東ティモール独立
 1998年当時のインドネシアは東南アジアにおける大国であり、そこでの30年支配体制を打倒した民衆革命のインパクトは大きかったが、近隣への革命の直接的余波となると、見るべきものがない。
 ただ、フィリピンでは当時のジョセフ・エストラーダ大統領が汚職疑惑を持たれ、弾劾手続きにさらされる中、2001年1月に民衆の抗議デモにより辞職に追い込まれる政変があった。
 これは革命に匹敵するほどの事象ではなく、実態は民衆政変であったが、大規模な民衆抗議デモのあった街路名にちなみエドサ革命と通称される1986年の民衆革命になぞらえ、エドサ革命Ⅱと呼ばれることもある。
 もっとも、この件はインドネシア民衆革命から3年近くを経過しての遅発事象であり、むしろ同年7月のインドネシアにおけるワヒド大統領の弾劾罷免に影響を及ぼした事象であった可能性もある。
 また、次章で扱うように、2000年以降、東欧のセルビアに始まり、中央アジアにまたがるユーラシア大陸のいくつかの諸国で継起した民衆諸革命も、広い視野で見ればインドネシア民衆革命が起点となっていると言えるかもしれない。
 より直接的な革命の余波として特筆すべきは、インドネシアの不法占領下にあるとみなされていたティモール島東部(東ティモール)の独立である。
 東ティモールは長くポルトガルの植民地支配下にあったところ、1974年のポルトガル民主化革命を機にポルトガル軍が撤退した後、75年、マルクス主義系独立運動組織の東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が独立宣言を行った。
 これに対し、当時のスハルト政権は即時に国軍を派遣して東ティモールを占領、国際連合の撤退要求決議を無視して、東ティモールの併合を強行した。こうした強硬姿勢は、米・日をはじめとする西側援助諸国の黙認に支えられたものでもあった。
 以来、東ティモールではフレティリンの抵抗運動が続く中、インドネシア軍の掃討作戦により人口100万人程度の同地で最大推計30万人に上る犠牲者を出したと見られるが、これは1960年代の本国における共産党壊滅作戦にも匹敵するスハルト体制の暗部の一つである。
 この東ティモール問題は、民衆革命によるスハルト体制の崩壊が解決の糸口となった。その点でも、後継のハビビ政権は東ティモール問題のタブーを解き放ち、同地に高度な特別自治権を付与する提案を住民投票にかける方針を示し、国連及び旧宗主国ポルトガル(正式には領有権放棄を示していなかった)との間で合意した。
 1999年8月に実施された住民投票ではしかし、特別自治案が否決され、即時独立が支持されたことで、インドネシアは態度を硬化させ、国軍に支援された親インドネシア派民兵による破壊作戦に出た。
 しかし、基盤の弱い革命移行期のハビビ政権は長期の掃討作戦にはもはや耐えられず、結局、国連平和維持軍の投入と国連暫定行政機構の設立で合意し、2002年には東ティモール共和国の独立が成った。


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