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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

民衆会議/世界共同体論(連載第24回)

2017-12-30 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第5章 民衆会議代議員の地位

(5)民際代議員
 前回まで見てきたのは、各領域圏内の民衆会議代議員の地位をめぐる問題であったが、民衆会議は世界共同体及びその内部の地域的なまとまりである汎域圏にもそれぞれ設置される。これら世界民衆会議及び汎域圏民衆会議の代議員は、領域圏を超えて活動する言わば民際代議員である。
 こうした民際代議員も所属する民衆会議において審議・議決に当たる点では領域圏内代議員と変わらない。一方で領域圏を越えた協商という外交官的な任務が加わる点に特殊性がある。ことに世界民衆会議代議員は、現行制度で言えば国連大使に近い任務も負うことになる。
 こうした民際代議員の特殊な性格に照らすと、その資格条件として、共通代議員免許は必ずしも必須のものではない一方、民際代議員としての任務遂行に必要な語学や協商(外交)に関する素養を備えていなければならない。その点、民際代議員固有の認定試験を別途創設することも検討に値するが、免許という形で義務的な資格要件とすべきではないかもしれない。
 従って、その選出も抽選によるのではなく、世界民衆会議代議員は各領域圏民衆会議が、汎域圏民衆会議代議員は各領域圏内の広域自治体(地方圏または準領域圏)民衆会議が、適任者の中からそれぞれ選出する。適任者の人選は、選出権を持つ民衆会議の常任委員会である協商委員会がこれを行なう。
 民際代議員の所属民衆会議における活動の中心は、民際施策の立案、民際法(条約)の制定や民際諸機関の管理運営であり、この面では領域圏内代議員と相似的であるが、異なるのは、それぞれ自身が選出された圏域の政治代表者として行動することである。その点が、まさに協商的な活動である。
 とはいえ、民際代議員は大使・公使のような単なる外交使節ではないから、選出された出身圏域の指令に拘束される命令委任の制度は採るべきでない。ただし、出身圏域に対して明白に背信的な行為を行なったと認める場合、選出した民衆会議は当該代議員をリコールすることができる。

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民衆会議/世界共同体論(連載第23回)

2017-12-29 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

 第5章 民衆会議代議員の地位

(4)特別代議員
 前回まで見た民衆会議代議員とは、民衆会議で審議・討議・議決を行なう中心的なメンバーである一般代議員を指していたが、民衆会議には別途、特別代議員が存在する。特別代議員とは、民衆会議にあって司法権を行使する代議員である。
 民衆会議は総合的施政機関として、司法機能も保持するため、司法業務に従事する特別な代議員を擁するのである。民衆会議の司法機能は多岐に及ぶが、そのうち民衆会議が直担するのは憲章解釈と一般法令の解釈という広い意味での法解釈である。
 前者の憲章解釈は、憲章を有する領域圏及び領域圏内の各圏域民衆会議で憲章問題を所管する憲章委員会が専有する権限である。そのため、憲章委員会の委員は一般代議員と憲章解釈を専門とする法律家から成る判事委員に分かれるが、後者の判事委員が特別代議員となる。
 一方、一般法令解釈は領域圏及び領域圏内の各圏域民衆会議に設置される法理委員会が専有する権限である。法理委員会はまさに法令解釈だけに専従する専門的な常任委員会であるため、その委員は全員が法曹資格を有する判事委員たる特別代議員で占められる。
 これらの特別代議員は、一般代議員とは異なり、抽選ではなく、公式の法曹団体が作成した推薦名簿の中から所属すべき民衆会議によって選任される。そのようなまさに特別な地位にある関係上、権限の点でも、一般代議員とは大きく異なる。
 特別代議員は民衆会議における議決権は持たない。ただし、本会議に参加し、意見を述べることはできる。ことに、憲章委員会の特別代議員・判事委員が憲章改正問題に関する委員会審議で意見を述べる権利は重視されなければならない。
 また、特別代議員は司法機能を担う特殊性から、任務遂行に当たっては独立性を保障されなければならず、その罷免に関しては弾劾法廷の罷免判決を民衆会議が承認して初めて罷免の効力を発するという形で一般代議員よりも厚い身分保障がなされる。
 なお、民衆会議の司法機能を担う公務員としては、他に衡平委員や真実委員、護民監等があるが、これらの者は民衆会議によって任命される特別公務員ではあっても、代議員ではないから、民衆会議の審議に参加する権利を持たない。

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奴隷の世界歴史(連載第40回)

2017-12-27 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

東南アジアの奴隷制
 東南アジアは複雑に入り組み、かつ前近代には多数の小王国がひしめき、興亡し合っていたところでもあるので、奴隷制一つとってもその全体像の把握は困難であるが、ここでは前近代の東南アジアにおいて特に有力だったカンボジア、タイ、ビルマ諸王朝の奴隷制を中心とした簡単な概観にとどめる。
 カンボジアでは9世紀から15世紀にかけて、アンコールワットに代表される壮大な建造物を遺したアンコール王朝が繫栄したが、この王朝は当初影響を受けたインドからカースト制を導入した。奴隷はやはりカースト外最下層階級とされ、建設などの重労働に従事した。アンコールワットのような建造物も奴隷によって建設されたと見られる。
 アンコール王朝における奴隷の給源は山間部密林の部族や債務者、戦争捕虜などであったと考えられる。アンコール社会における奴隷の人口構成は不明だが、遺された壮大な数々の建造物からみて、王朝は相当数の奴隷労働力を動員する力を保持していたと推定される。
 続いてアンコール王朝を滅亡させたタイの王朝も奴隷制を保持したが、戦争捕虜は王の所有物とされ、多数の戦争捕虜が存在していた。それ以外に、タートと呼ばれる契約に基づく奴隷身分があったほか、支配層の下で労役などに従事するプライと呼ばれる隷属身分もあった。タイにおけるこうした奴隷的諸制度の廃止は、チャクリー朝のラーマ5世による近代化社会改革が進行していた1905年を待たねばならなかった。
 次いで、タイのスコタイ王朝を滅亡させたビルマのコンバウン王朝も、隣接するインドのカースト制にならった身分制度を持ち、自由人と奴隷の身分差が厳格に分けられていた。
 それ以外の地域では、フィリピン・インドネシア方面のイスラーム系首長諸国が17世紀から19世紀にかけて、フィリピンやタイ沿岸部で農業労働力確保のための奴隷狩りを行なっていたほか、スラウェシ島のマレー系先住民トラジャ族の奴隷がジャワ島などとの間で奴隷貿易の対象とされるなど、マレー系諸民族の間で地域間奴隷貿易が見られた。
 なお、トラジャ族の社会は王制ではなかったが、貴族・平民・奴隷という原初的な三つの厳格な社会階級を持ち、奴隷にはアクセサリー装身や住宅装飾の禁止、上位階級女性との性行為禁止、葬儀の禁止等、死罪をもって担保される厳格な生活規範が課せられていた。

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奴隷の世界歴史(連載第39回)

2017-12-26 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

インドの奴隷制
 インドの奴隷制は、インドの長い紆余曲折の歴史とともに様々な形態を取り、変化し続けた。まずインド土着的な奴隷制として、ダーサとかダスユなどと呼ばれる一種の奴隷制が見られた。もっとも、これは元来、インドを征服したアーリア人にとっての敵部族を指す用語でもあり、おそらく古代社会では普遍的に見られた戦争捕虜の奴隷化が起源なのであろう。
 時代が下ると、破産、道徳的な堕落や犯罪の結果として奴隷化される慣習が生まれるが、奴隷に汚れ仕事を強制したり、虐待・レイプなどの被害を与えることは違法とされるなど、奴隷の扱いについてはある種の人道的な規制があったとされる。インドの土着奴隷制は言ってみれば、緩やかな奴隷制であった。
 これに対し、インド特有の社会構造を成すカースト制におけるカースト外下層身分ダリットは多くが汚れ仕事に専従してきたが、これは奴隷とは概念上区別された職業身分差別制度の一環とみなすべきものであろう。
 さて、インドは8世紀以降、イスラーム勢力による侵攻を受け、特に北インドではデリーを拠点にデリー・スルタン諸王朝が興亡する時代に入る。結果としてイスラーム的慣習が持ち込まれ、非イスラーム教徒の奴隷化が大々的に行なわれるようになった。
 ちなみに、五つのイスラーム系王朝が継起的に興亡したデリー・スルターン諸王朝最初のものは奴隷王朝と称されるように、奴隷軍人マムルークが樹立したテュルク系王朝であったことも、イスラーム的な特質であった。
 その後、インドは南端部を除き、テュルク‐モンゴル系の血を引くイスラーム帝国ムガル朝が支配するところとなり、その支配領域内ではイスラーム法が定着した。従って、奴隷制もイスラーム法に基づいて運用された。
 特に全盛期を築いた6代皇帝アウラングゼーブが内外のイスラーム法学者を結集して制定したファタワ・エ・アーラムギーリと呼ばれる基本法典中には、アウラングゼーブ自身が帰依した厳格なスンナ派の法思想をベースに、奴隷所有権や奴隷の権利、奴隷の解放に至るまで奴隷制に関する具体的な規定が含まれているが、奴隷の法的地位は主人に対して相当に従属的である。
 インドの奴隷は高度な熟練技能を持つことが多く、ムガル領内で使役されるにとどまらず、需要のある中央アジア方面へしばしば「輸出」されることもあった。他方、イスラーム奴隷貿易やポルトガルを通じてアフリカからエチオピア人を含む奴隷が購入されることもあり、その一部は逃亡してシッディと呼ばれるアフリカ起源の民族集団に編入され、インド西部にジャンジーラ王国のような小さな自治国家を形成した。
 一方、18世紀以降、デカン高原に台頭したヒンドゥー系マラーター王国も奴隷制度を保持したが、これはインド土着の緩やかな奴隷制の伝統を受け継ぎ、奴隷の扱いは全般に穏当で、相続権の存在などムガル帝国のそれよりも柔軟であった。
 なお、17世紀以降18世紀にかけて西欧列強がインドに侵出してくると、インドは西欧列強―具体的にはポルトガル、次いでオランダ、英国―が主導する奴隷貿易の草刈場となる。従って、ここから先は第三章で扱った領域と重なるので本章での記述は割愛し、第三章に後日、インド奴隷貿易に関する補遺を追加することとしたい。

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貨幣経済史黒書(連載第5回)

2017-12-24 | 〆貨幣経済史黒書

File4:モンゴル帝国と紙幣インフレーション

 現代の貨幣経済においては主軸的なアイテムとなっている紙幣を世界史上初めて通貨として確立したのはモンゴル帝国であった。もっとも、厳密に言えば史上初めて紙幣を発明したのはモンゴルが最終的に打倒した漢族系の宋王朝であった。
 宋は銅貨の素材となる銅不足から、中国で従来手形として使用されてきた交子と呼ばれる書面を貨幣として使用する政策を導入した。ただし、宋時代の交子は主として四川地方の地域通貨として、かつ鉄貨との兌換という場所及び目的が限定された通貨として機能したにとどまる。
 これに対し、宋を駆逐して12世紀から13世紀にかけて華北を支配した女真族系の金王朝は、支配領域とした華北で銅が不足していたことから、交子制度を参考にする形で新たに紙幣を発行し、交鈔と命名したのであった。
 続いて、金及び宋を打倒して中国全土に及ぶ元王朝を樹立したモンゴル帝国は、金王朝の諸制度の多くを継承し、その一環として交鈔制度も継承した。中でも2代ハーンのオゴデイに使えた契丹人出自の高級官僚・耶律楚材が交鈔制度の確立に寄与した。
 紙幣は鋳造貨幣に比べて製造が簡単であることから、当然にも濫発されやすいという欠陥を抱えている。実際、金王朝の交鈔も増発によるインフレーションが王朝衰退の一因となったほどであった。そうした先例を踏まえ、耶律楚材は発行限度を厳しく制限し、財政規律に留意したのであった。
 元の交鈔は帝国全盛期を築いたクビライ・ハーンの時に正式に統一通貨として確立されたが、当時の交鈔は銅貨の代替貨幣という位置づけであり、鋳造貨幣から独立した貨幣ではないなど、現代の紙幣とは異なる幼稚性も残されていた。
 そのうえ中国全土を支配し、かつベトナムや日本にまで遠征をしかけるようになると、当然政府支出は膨張し、耶律楚材の財政規律策は反故にされるようなった。クビライの時代以降、交鈔の発行額は右肩上がりとなり、塩の専売特許をも財源とするべく、塩との引換券の機能も追加されるなど、交鈔は量・質両面で膨張した。
 結果、交鈔インフレーションが亢進し、定在化するようになる。そこで7代カイシャンは新紙幣として至大銀鈔を発行して通貨切り下げによる劇薬的なインフレ対策を断行するが、かえって経済混乱を招いた。その後も、元朝末期にかけて、交鈔は改廃を繰り返し、混乱に拍車をかけた。
 ちなみに、イランに本拠を置いたモンゴルの派生王朝であるイルハン朝でも、2代君主ゲイハトゥがクビライ側近にして使者として派遣されてきたモンゴル貴族プーラードの献策により、西アジアでは初となる紙幣・チャーウ(鈔)を導入するも、財政規律を無視したため、たちまちハイパー・インフレを引き起こし、わずか二か月で廃止という大失態を演じた。
 本家の元王朝でも、実質的に最後の元皇帝となった15代トゴン・テムルの時代に交鈔は廃止され、再び銅貨に一本化されたのである。こうして、貨幣史上においては画期的な発明であった紙幣はいったん歴史から姿を消す。
 モンゴル帝国の紙幣インフレは財政規律の欠如とともに、政府から独立に通貨調整を行なう中央銀行の制度を知らなかったことにもよるが、その点、同時代にはまだ紙幣制度を知らなかった西欧においてずっと後に発祥する中央銀行は紙幣制度のより洗練された運用に資することになるであろう。

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奴隷の世界歴史(連載第38回)

2017-12-19 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

朝鮮の奴隷制
 朝鮮の奴隷制は、半伝説上の王朝である漢族系の箕子王朝の祖・箕子が制定したとされる刑法・犯禁八条に、「窃盗犯は奴隷とする」とあるのが記録上の起源とされるが、箕子朝鮮自体の実証性が不充分であるため、歴史的に確定することは難しい。
 歴史的に確定できるのは、朝鮮では統一新羅が導入し、続く高麗王朝時代に確立された律令制の下、奴婢制度が定着したことである。朝鮮奴婢制度も中国を起源とし、との別があったが、の母が産んだ子は必ずとし(随母法)、過去八世代にわたり家族にがいないことを官吏登用の要件とするなど、朝鮮の奴婢制度はその階級的厳格さを特徴とした。
 人身売買されるの待遇は極めて劣悪であったことから、高麗で軍人が政権を簒奪する武臣政権の混乱期を迎えた1198年には、の万積が公私の同志を募って武装蜂起し、時の武臣独裁者・崔忠献の暗殺を企てたが、失敗し、関与者が大量処刑されるという奴隷反乱も発生した。
 日本の奴婢制度が律令制の形骸化に伴い、廃止され、武家政権期には消滅したのに対し、朝鮮では高麗を打倒した軍閥の李氏政権も王朝の形態を採ったから、律令的特色を持つ奴婢制度も引き継がれることとなった。李氏朝鮮王朝下の奴婢制度の特質として、の種類が専門分化していたことがある。
 例えば、王族や両班など上流階級女性の診療を専門とする婦人科医である医女は女子の中から選抜された身分の医療者であった。他方で、医女は歌舞音曲も体得した芸妓を兼ねていたことから、宮中接待や高位者向けの性的奉仕を専門とする身分である妓生との異同が曖昧となり、宮中の風紀紊乱を引き起こす結果となった。
 暴君として知られる第10代国王燕山君の側室となった張緑水は妓生出身ながら王の寵愛を独占し、王府人事にも介入する専横を働いて悪名を残した。彼女は燕山君廃位後、処刑された。一方、日本の豊臣秀吉軍の侵略を受けた壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の時には、慶尚道晋州城を占領した日本軍武将の接待を命じられたことに乗じ、武将を岩の上に誘い出し、だきかかえて共に川に投身したと伝えられる論介のような愛国的義妓も輩出している。
 の反乱は李氏朝鮮下でも、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)に際して発生する。かれらは身分を脱するべく、身分の証拠記録となる戸籍を燃やすという挙に出たのであった。一方、王府側も戦費調達のため、有償で身分を脱することを許したため、結果として人口は減少した。
 とはいえ、身分差別が厳格な李氏朝鮮では妓生廃止論が時折提起されることはあっても、奴婢制度自体の廃止論は見られず、人身売買の禁止とともに奴婢制度の最終的な廃止は王朝末期1894‐95年の近代的改革―甲午改革―を待つ必要があった。

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奴隷の世界歴史(連載第37回)

2017-12-18 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

日本の奴隷制
 日本の歴史上、少なくとも記録に現れる奴隷制は弥生時代から存在しており、中国史書には当時の倭の小国が中国皇帝にもたらした奴隷=生口に関する記述が見られる。また『魏志倭人伝』では邪馬台国の卑弥呼女王の王宮には婢千人が奉仕していることが記されている。
 首長制の古墳時代、各地域の首長は私有民として奴隷を所有しており、墳丘墓の築造に当たっても奴隷労働力が動員されたと推定できるが、記録的な裏付けはない。ただ、ヤマト王権の集権支配が強まってもなお地方首長出自の各豪族らは部曲のような形態で配下の私有民を保持していたことからみて、日本の私有奴隷制の歴史は相当に長いと見られる。
 こうした古代奴隷制社会が再編されるのは7世紀以降、中国式の律令制が導入され、良賤制が定着してからである。日本型良賤制の特質は階級が、、家人、、の五種に明別されたこと――である。このうち最下層を占める公私のは売買の対象とされ、実質上奴隷であった。
 ただし、には良民の三分の一ながら口分田が支給されたほか、解放されて良民となる可能性があった。また良賤間の通婚も次第に自由化され、通婚によってもうけた子は良民とされるなど形骸化し、最終的には平安時代の907年に廃止された。
 これ以後、中近世の日本では明確に奴隷身分に分類できる階層は見られなくなるが、人身売買の慣習は武家社会ではむしろ強まった。売買された男女は、主に下人として有力家で家内労働に従事した。中世には貨幣経済の発達に伴い、人身売買が一つの商行為として確立されたのに対し、鎌倉幕府は人身売買を原則として禁じたが、飢饉に際しては例外的に許容したため、拡大解釈され、貧困から自ら身売りする者も跡を絶たなかった。
 戦国時代には、勝者側将兵が敗者の領地で人や財貨を略奪する乱妨取りと呼ばれる粗野な風習が普及し、このうち人狩りの部分に関しては人身売買の軍事化と言うべき事象が生じた。乱妨取りで狩られた一部の日本人が大航海時代のポルトガルを通じて奴隷として海外に売られていたことは以前にも触れた。
 江戸幕府の「鎖国」政策はこうした日本人の奴隷化流出を阻止する役割を果たした。幕府は同時に、国内的にも人身売買を取り締まったが、年貢上納を目的とした子女の売買は例外とする抜け道を作ったため、女性の人身売買は残存した。
 これは時を同じくして発達してきた遊郭制度と即座に結びつき、人身売買で売られた農民の子女は遊郭で年季奉公する遊女となることが多かった。幕府は公認遊郭以外での私娼を禁じたが、取締りは行き届かず、私娼を含めれば膨大な数の女性が性奴隷化されていたと見られる。このような性奴隷制は明治政府による1872年の芸娼妓解放令によってひとまず法律上は解消されることとなった。

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民衆会議/世界共同体論(連載第22回)

2017-12-16 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第5章 民衆会議代議員の地位

(3)代議員の諸権利及び義務
 議会制度下の議員、とりわけ国会議員には様々な「特権」が付与されているが、代表的なものとして、不逮捕特権、免責特権、歳費請求権がある。これらは議会政民主主義を擁護するために必要な権利であり、単純な優遇特権ではないと説明されている。
 しかし、実態として、不逮捕特権は汚職など犯罪行為を犯した議員の地位保全策として機能し、免責特権は議会内での品位、相互の敬意を欠いた暴言を正当化しているばかりで、むしろ民主主義の質を落とすことに手を貸している。
 民衆会議代議員の場合、こうした「特権」は付与されない。それは民衆会議が民主主義を軽視しているからではなく、むしろ「半直接的代議制」の理念に基づき、代議員と一般民衆の対等性という真の民主主義を確保するためである。
 ただし、いくつかの例外はある。代議員の不当な身柄拘束を防ぐため、拘束された代議員に対する民衆会議の釈放要求決議の権限は留保される。この決議に基づき、代議員を拘束した機関または団体、個人は直ちに釈放しなければならない。
 また民衆会議内で行なわれた公式の審議に際して名誉棄損等の不法行為を問責するには、他の代議員または被害者が当該代議員を民衆会議懲戒委員会に告発しなければならない。懲戒委員会は審査の結果、当該代議員の訓告または出席禁止の処分を科することができる。ただし、罷免相当と判断した場合は、民衆会議に対し、弾劾法廷の設置を請求しなければならない。
 なお、歳費請求権あるいはそれに代替する何らかの報酬請求権は全く存在しない。なぜなら、代議員は市民としての任務であるゆえ、完全無報酬だからである。この点は、貨幣経済が排される共産主義社会ならば、さほど奇異に受け取られないであろう。
 一方、代議員の義務として重要なのは政党やその他のいかなる利害団体・関係人からも独立して任務に当たるべき中立義務である。民衆会議は政党やその他の媒介者を通じた間接代表機関ではないことに由来する義務である。従って、いわゆる陳情やロビー活動を受けることも許されない。反面、正式の手続きを踏んだ請願に対してはすみやかに対応する義務が生じる。
 中立義務と密接な倫理規定として、代議員としての任務に関連し、または関連する可能性のある状況で他人から何らかの報酬や謝礼に相当する財物やサービスを享受することは、すべて汚職行為とみなされ、弾劾の可能性にさらされる。
 さらに、任務優先義務である。すなわち代議員は本来の職との兼職も可能であるところ、両者が両立しない状況では代議員任務を優先しなければならない。具体的には民衆会議への出席義務である。疾病等物理的に正当な理由のない欠席は懲戒、弾劾の事由となる。

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民衆会議/世界共同体論(連載第21回)

2017-12-15 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第5章 民衆会議代議員の地位

(2)代議員の抽選及び任期
 民衆会議代議員は選挙ではなく、抽選によって選出される。ただし完全な無作為抽選ではなく、前回述べたように、各領域圏が定めた年齢に達した代議員免許取得者の中から公募・抽選される。
 また、これも前回触れたように、当該領域圏内に一定期間以上居住していれば誰でも代議員免許は取得可能であるが、代議員の被選要件としての居住期間は領域圏ごとに別途定めることができる。
 犯罪行為その他の非違行為により公民権停止中であること、あるいは心神喪失状態にあることは不適格事由となる。また公募の時点で代議員免許の有効期間(25年)の残期間が後掲の代議員任期に満たない場合も同様である。
 なお、思想信条は一切不適格事由とならないが、抽選後に破壊活動団体その他の反社会的団体の構成員または利害関係者であることが発覚したときは、弾劾・罷免の可能性にさらされる。
 抽選に当たっては、選挙制度における選挙区のような区割りはなく、領域圏民衆会議であれば全土から抽選され、地方の各圏域民衆会議では当該の地方自治体全域から抽選されるという単純明快な抽選法による。民衆会議は政党を基盤とする議会制度とは異なり、政党単位での公募は認められず、常に個人単位で公募する。
 公募・抽選は各圏域民衆会議の事務局が定期的及び補欠的に行なう。抽選手続きは不正操作のしにくい非電子的なくじ引き方式による。抽選会は公開され、民衆会議が選定した公式監視人の立会いの下、一般傍聴やメディアの中継も可能なものとする。
 代議員は代議員が「職業」ならず、「任務」であることから、ローテーション制を本旨とし、その任期は4年または5年程度とし(各領域圏・地方各圏域により任意に選択可能)、同じ圏域への連続的な応募は認められない。 
 ただし、代議員免許の有効期間中である限り、一期以上おいて再応募・抽選されることや、別の圏域に横滑りで応募・抽選されることもローテーション制の本旨に反しないから、可能である。

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民衆会議/世界共同体論(連載第20回)

2017-12-14 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第5章 民衆会議代議員の地位

(1)代議員免許
 民衆会議の構成員―民衆会議代議員(以下、代議員と略す)―は、現行制度に比すれば国会/地方議会議員に類似するとはいえ、その地位は議員とは似て非なるものである。まず第一に、代議員は所定の免許取得者であることを必要条件とする。
 代議員免許は全土及び地方ともに共通の公的試験に合格することにより取得される。この代議員免許取得試は各領域圏ごとに実施される。受験資格は年齢不問で、当該領域圏内に一定期間以上居住していれば誰でも受験可能とする。ただし、代議員の被選年齢や居住要件は領域圏ごとの裁量に委ねられる。 

 ちなみに世界共同体における領域圏には「国籍」なる概念が一切存在しないため、海外領域圏の出身者であっても一定の居住年数を満たせば代議員免許が得られる仕組みである。ただし、領域圏ごとの実施であるため、試験は当該領域圏における公用語(複数可)で実施されることになる。
 試験の内容は、[Ⅰ]基礎科目として「政策立案」・「立法技術」・「政治倫理」、[Ⅱ]政策科目として(A群)必修科目の「政治・法律」・「環境・経済」、(B群)選択科目は「福祉・医療」と「教育・文化」のいずれか任意の一方を選択する。
 [Ⅰ]基礎科目は、代議員としての任務を遂行するに当たって必要な素養及び倫理に関する基礎的な理解を問うもの、[Ⅱ]政策科目中の必修科目は政策立案・立法者として理解されているべき「政治・法律」、「環境・経済」という二大支柱に関わる具体的な知識を問うものである。
 [Ⅱ]政策科目中の選択科目は、各論的な政策分野である「福祉・医療」または「教育・文化」のうち、各自がより関心を持つ一方を選択する。代議員は特定分野のスペシャリストである必要はないが、代議員にもある程度の専門分化性を持たせる趣旨である。

 試験の技術的な実施方法としては、暗記力に依存する参照不可型ではなく、免許試験を所管する民衆会議考試局が編纂する各科目の公式教科書の持込み・参照を許可する参照型とする。これは、代議員の任務が特殊専門技能ではなく、総合的・包括的認識力にかかることに由来するものである。
 こうした免許試験の趣旨目的に照らしても、試験は少数選抜型ではなく、資格付与型のもので、その合格率は80パーセント以上の高率なものでなければならない。結果、合格までに多年を要さず、志望者の大半が二回以内の受験で合格可能なものとなろう。
 ただし、代議員免許は取得後20年経過または取得後10年間一度も代議員に応募しないことによって失効し、再取得するためには改めて免許試験を受け直さなければならない。この更新試験では、上掲試験科目中〔Ⅰ〕基礎科目は免除され、〔Ⅱ〕政策科目のみが課せられる。

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奴隷の世界歴史(連載第36回)

2017-12-12 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制②
 唐が滅亡した後、いわゆる五代十国の混乱期を収拾した宋は軍閥出自ながらある意味で「リベラル」な政策を展開したため、奴隷の個別的解放と階級上昇もある程度可能になった。また律令制の解体に伴い、官奴婢は廃止されたが、良賤制は残存した。
 こうした宋の限定改革的な気風も、王朝の脆弱さゆえ、東北女真族の侵攻による金王朝の樹立により中断された。華北を征服・支配した金は、官営妓院として洗衣院を設置し、宋の皇后や皇女を筆頭とする身分不問の宋女性多数を金銭による等級付きで洗衣院に送り、性的奉仕を強制させる性奴隷化を大々的に実行した。
 続いて金と南宋双方を滅ぼして全土を征服したモンゴル帝国(元)は、征服過程で多数の漢族を奴隷化し、奴隷制を積極的に活用したため、国が直接所有する官奴婢も復活した。
 また高麗を間接支配するようになると、高麗女性を貢女として献上させた。貢女=性奴隷ではなかったが、性奴隷の性格は否定できない。なお、例外中の例外として、高麗貢女出自の宮女から昇進した奇皇后(夫は元朝最後の皇帝トゴン・テムル)のような高位者も輩出している。
 元を滅ぼした明は中国史上初めて政策的に奴隷制廃止を追求した体制であり、初代の洪武帝朱元璋は奴隷を良民に転換する法律を公布した。しかし歴代王朝を越えて歴史的に根付いた慣習を変革することは困難であり、明中期以降は貧困のため自ら奴隷に身売りする慣習も現れた。
 明末期の17世紀には奴隷反乱が相次いたことから、家内奴隷数の上限を設け、奴隷所有者に重税を課す妥協策を打ったが、効果を見るまでもなく、明は再興した女真族系の清によって滅ぼされた。清は当初、奴隷制廃止には消極的で、征服した朝鮮から数十万の捕虜を奴隷化した。
 しかし中原で支配を確立するにつれて改革的となり、康煕帝の時代から漸次奴隷制廃止が進み、続く雍正帝は正式に奴隷制度及び奴婢制度の廃止を断行した。しかし19世紀にキリスト教が広がると、警戒した清朝はキリスト教弾圧政策の一環として、棄教しないキリスト教徒を西域の新疆へ送還し、現地のイスラーム系有力者に奴隷として売却する制裁措置を採った。
 ちなみにイスラーム系の新疆は清朝領土に含まれながらも自治的な藩部体制の下、イスラーム的慣習が維持されたため、18世紀末に時の乾隆帝が新疆における奴隷制廃止を宣言したにもかかわらず、イスラーム法に則った奴隷売買が行なわれていた。
 清朝の奴隷制廃止は末期1909年の法律で明記されたが、不法な奴隷慣習―特に私奴婢―は辛亥革命後中華民国時代も存続し、20世紀半ばの共産党支配体制樹立後の社会革命によってようやく姿を消したものと考えられる。

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奴隷の世界歴史(連載第35回)

2017-12-11 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制①
 本章では、アジア大陸の前近代における奴隷制の諸相を広く概観するが、広義のアジアに包含されるイスラーム圏の奴隷制に関してはすでに見たので、ここでは主としてインド以東の地域に目を向けることにする。まずは中国である。
 中国奴隷制は確証される限り古代の殷商の時代から様々な形態で存在し続けたが、ここでは後に別途扱う古代を除外し、先に見た欧州やイスラーム圏における中世に相応する時代以降―中国史上はおおむね唐代以降―における奴隷制を見ることにする。
 唐はいわゆる律令制を完成させた東洋的な法治国家であったが、奴隷制に関しても、自由民の奴隷化禁止、既存奴隷以外の人身売買禁止といった規範を確立させた。このような条件付き奴隷政策はイスラーム圏のものと似ており、西域シルクロード市場でイスラーム圏の奴隷を購入する立場にあったことが法制策にも影響した可能性がある。
 とはいえ、イスラーム圏の奴隷制のような階級上昇を可能とする柔軟性は見られず、家財たる動産と同視された奴隷は自由民たる良民とは厳格に区別され、良民女性と男性奴隷の通婚は禁止された。逆に奴隷女性と良民男性の通婚は可能であり、特に東部の山東省では、結婚を目的とした朝鮮女性の拉致・奴隷化が盛んに行なわれていた。
 数的に見ると、南方のタイ族その他先住民族が最も多く奴隷化されていたが、上述のように西域を通じてテュルク系やペルシャ系の奴隷も購入されていた。また数は多くないながら、遠く東アフリカから黒人奴隷(ザンジュ)がもたらされたこともあり、中国はイスラーム奴隷貿易における購買者として参入していた。
 以上のような外国人奴隷とは別途、律令制下では内国人のが公式に存在した。は良民との身分的区別―良賎制―においてを構成する社会階級の一環でもあった。は個別に解放される可能性を持っていたが、奴隷と同様に人身売買の対象とされた。
 奴婢制度の特色は、国が所有する官と私人が所有するの区別があったことである。前者は主として戦争捕虜や犯罪者など公的な事由により身分に落とされた者たちであり、の中では少数派であった。大多数は負債等による没落農民出自が多いが占めた。
 両者には労働内容にも違いがあり、官は宮廷や官営工場/農牧場での労働が中心であるが、は貴族や地主などの領地で家事労働や農作業に従事していた。農作業に当たるは財産を有し、独立して生計を営むことが認められており、農奴に近い存在であった。

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「首都」固定概念の超克

2017-12-08 | 時評

トランプ米政権が、エルサレムをイスラエル首都として公式に認知するという禁断策に手を付けたことで、中東の火に油を注ぐ結果を引き起こしている。もっとも、対立と分断の火種を作り出し、戦争を大衆動員の手段とすることはファシスト体制の定番であるから、今回の決定はトランプ政権のファッショ的性格をまた一つ露にしたものと言える。

しかしここではファシズム云々ではなく、全く別の角度から問題を評してみたい。それは、そもそも「首都」なんて必要ない!ということである。「首都」とは国家権力の中枢が集中している都市を指すが、それは根本的に中央集権国家の所産である。国家という化け物には頭と尾の区別が不可欠で、頭の部分が首都となるのだ。

もっとも、国家も分権化が進むと首都も分散されていく傾向にある。実際、ドイツのように、立法/行政と司法が別の都市に分散されていたり、南アフリカ共和国のように、立法・行政・司法の三権がそれぞれ三つの都市に分散されている例すら出てきており、「首都」の概念は相対化されつつある。

中央集権制の強いイスラエルの場合は、立法・行政・司法すべてをエルサレムに集中させているため、そうした「現実」を考慮して「首都」と認知するというのがトランプ政権の口実である。実際のところは、「分離壁」によるアパルトヘイト政策を推進する現イスラエルへの親近感が禁断決定の背後にあるに違いない。

しかし、エルサレムは中東生まれのユダヤ・キリスト・イスラームの三大宗派すべてが「聖地」とみなす聖都としての意義を担っており、単に一国家の首都をどこに置くかという問題を越えた複雑さを有するため、「首都」の概念は宗教戦争を内包している。むしろ、中東三大宗派の共同聖地というより高次の現実を考慮し、三大宗派の「共同聖都」と認定するほうがよほど賢策であろう。

2009年には、スウェーデンがエルサレムをイスラエル・パレスティナの共同首都とするよう求める折衷案を提案したが、エルサレムを永遠の首都とみなすイスラエルの強い反発・抗議にさらされた。「首都」概念に固執する限り、この問題はパレスティナ紛争とともに永遠に未解決であろう。

「首都」概念の最終的な超克は、国家という観念の揚棄によってのみ可能である。すなわち、領域圏の概念である。領域圏には民衆代表機関―民衆会議―の所在地としての代表都市はあっても、「首都」概念は存在しないからである。エルサレムであれば、例えばイスラエル‐パレスティナ合同領域圏の代表都市として止揚され得る。

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奴隷の世界歴史(連載第34回)

2017-12-07 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

スペインにおける奴隷論争
 大航海時代のスペインが当初大西洋奴隷貿易に大きな関心を示さなかったのは、入植先の新大陸で先住民―スペイン人による誤称インディオ―を奴隷化し、農場・鉱山労働などに使役していたからである。ローマ教皇アレクサンデル6世による1493年のいわゆる「贈与大勅書」は、こうしたスペインによる先住民奴隷化を正当化するものと解釈されていた。
 そうした中、先住民は酷使とスペイン人が持ち込んだ伝染病に対する免疫欠如などから大量死し始めていた。スペイン当局もようやく状況を問題視し、インディアス審議会を設置して先住民問題の現地調査を開始する。その一員に加わったのがバルトロメ・デ・ラス・カサス司祭であった。
 ラス・カサスは16世紀初めにスペイン領エスパニョーラ島(現ドミニカ共和国)に渡り、自身も現地で先住民奴隷を使役する農場エンコミエンダを経営する一人であった。しかし、彼は現地での先住民の置かれた惨状に心を痛め、二度の宗教的な改心を経て強力な奴隷解放論者となり、ドミニコ会修道士として現地活動や本国への報告を通じて先住民の保護を訴え続けた。
 1537年に改革派の教皇パウルス3世によって発せられた新大陸先住民の奴隷化を禁ずる勅令の影響もあり、スペイン国王カルロス1世は1542年、バリャドリッドにインディアス会議を招集、先住民保護とエンコミエンダ制の廃止(ただし、新大陸では適用除外)を軸とするインディアス新法を制定した。
 ラス・カサスが同会議に合わせて参考資料として執筆した報告書『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』では、現地スペイン人入植者による先住民虐待の実態が生々しく描写され、議論を呼んだ。会議後、スペイン領メキシコのチアパス司教に任命されたラス・カサスと保守派神学者フアン・ヒネス・デ・セプルベダの間で大論争―バリャドリッド論争―が巻き起こった。
 アリストテレス研究者でもあったセプルベダは、人間には生来、奴隷として作られた存在がいるとするアリストテレスの有名な「生来性奴隷論」に立脚して、先住民奴隷化を擁護したのに対し、ラス・カサスは現地調査に基づき、先住民も独自の文明と理性を備えた存在であることを文化相対論的に反駁・論破したのであった。
 ところで、ラス・カサスの奴隷解放論は主として新大陸先住民を念頭に置いており、彼も若き日には先住民奴隷の代替としてアフリカ黒人奴隷の移入はやむを得ないと考えていたところ、後の「改心」により、最終的には奴隷制度全般の廃止を主張するようになった。
 ラス・カサスの没後二年して、時の教皇ピウス5世はアレクサンデル6世の「贈与大勅書」がインディアス征服を正当化するものでないことを確認する修正的見解を発したが、ラス・カサスの信念と生涯をかけた努力にもかかわらず、教皇庁が間もなく始まる大西洋奴隷貿易の隆盛を阻止するような神学的見解を示すことはなかったのである。

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奴隷の世界歴史(連載第33回)

2017-12-06 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

ローマ教皇の奴隷貿易容認勅許
 奴隷制の是非に関して、基本的な態度を長く曖昧にしていたローマ・カトリック教会であったが、大航海時代に入り、ポルトガルが先陣を切ってアフリカを供給源とする奴隷貿易に着手すると、神学的にもより明確な見解を出す必要に迫られた。
 15世紀半ば、アフリカへの遠征を精力的に実施していたポルトガル国王アフォンソ5世―通称「アフリカ王」―の求めに応じ、時のローマ教皇ニコラウス5世は黒人を奴隷化することを正式に認めたのである。
 その発端は1452年、オスマン帝国の最終的攻勢にさらされ、風前の灯であったビザンツ帝国からの援助要請に応じ、アフォンソ5世に対してキリスト教徒の敵に対する攻撃、征服、服属を認めた勅許であった。
 この最初の勅許の段階では、対イスラーム十字軍の許可であって、これを奴隷貿易に対する勅許と受け取ることは難しい。しかしこの勅許も虚しく、翌53年、首都コンスタンティノープルを落とされたビザンツ帝国は滅亡する。
 一方、ポルトガルによるアフリカ攻略は続行されており、アフォンソはより明快な教皇のお墨付きを欲していたのであった。これに応じたのが、1455年に発せられた同じくニコラウス5世による勅書「ロマヌス・ポンティフェクス」である。
 この中で、実力や禁止されていないバーターその他の合法的な契約によって連行された黒人の無信仰者―非キリスト教徒―の奴隷を購入する権利をポルトガル王に認めている。ただし、かれらをキリスト教徒に改宗させる努力をすることが条件であった。
 この勅許はポルトガルに奴隷貿易の独占的権利をも承認する内容となっており、これは後継の教皇らの勅許でも踏襲され、1493年にはアレクサンデル6世の勅書により、ポルトガルを後追いしていたスペインにも同様の権利が承認されたのである。
 こうしたローマ・カトリック教会の神学的見解は奴隷制全般を容認したものではなく―少なくとも、キリスト教徒の奴隷化は容認しない―、限定的に容認してきた路線を拡大したものと受け取ることができるが、ポルトガル・スペインの両帝国に対し奴隷貿易のゴーサインを出したことに変わりなく、これは大西洋奴隷貿易を正当化する神学的理論付けとして援用されることになる。

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