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近代革命の社会力学(連載第129回)

2020-07-27 | 〆近代革命の社会力学

十七ノ二 フィンランド未遂革命

(3)社会主義労働者共和国の樹立
 フィンランド社会民主党急進派が1918年1月の革命的蜂起によって樹立した新体制は当初、単にフィンランド共和国を名乗ったが、レーニンの介入により、「社会主義労働者」を冠することになった。この「社会主義労働者共和国」(以下、単に「共和国」という)の政府機構は人民代表会議であり、これはロシア側の人民委員会議のカウンターパートと言える革命的権力機構であった。
 しかし、共和国をフィンランドの正統政権として承認したのは、ロシアだけであったから、これにより、ボリシェヴィキ政権の傀儡的姉妹国家としての性格付けがなされたと言える。とはいえ、共和国とボリシェヴィキ政権の間には、小さくはない溝があった。
 共和国指導部は民族主義の基調も帯びており、フィンランド南東部からロシア北西部にまたがるカレリア地方のフィンランド編入を望んでいた一方、レーニン政権は表向きは民族自決を唱えながら、フィンランドの併合すら裏で画策していたのである。
 溝はイデオロギー面にも認められた。憲法草案に表れた共和国指導部の理念は、ボリシェヴィキとは明らかに異なっており、レーニン流の革命的独裁の理念ではなく、民主的社会主義の理念にのっとり、アメリカ憲法が参照され、市民的自由の保障が明記されていた。また、国民投票制度の拡大など、直接参加も志向していた。
 このように、ボリシェヴィキ政権を後ろ盾としながらも、共和国の方向性にはより民主的な要素が強かった。歴史に「もし」は禁句とされるが、もし共和国が存続していたら、ロシア→ソ連とは異なるもう一つの社会主義体制のモデルとして確立されていたかもしれないが、歴史の進行過程はそうならなかった。
 共和国はボリシェヴィキ政権の軍事的な支援がなければ存続できない状態であったが、折しもロシア側も大規模な内戦に突入しており、ロシアにフィンランド支援の余裕はなかった。また、外交上もロシアは第一次世界大戦を終結させる対独講和を最大課題としており、フィンランド関係はマイナーな問題であった。
 一方、共和国内部にはレーニンに相当する最高指導者も、ボリシェヴィキに匹敵する中核的な革命集団もなく、政府に当たる人民代表会議はクッレルヴォ・マンネル、軍事部門の赤衛軍司令官はアレクシ・アールトネンと、共にジャーナリスト出自の指導者が分担する集団指導制であった。
 このような構造も、レーニンの指導力が圧倒的で、民主集中制原則により指導部が課す規律が貫徹されたボリシェヴィキとは大きく異なる党内力学であったが、平時ならより民主的な運営が期待できる水平的構造も、内戦に直面する存亡危機に際しては、マイナスに作用することになっただろう。
 また、ロシア支配下の大公国時代からの上級官吏らも共和国には参加・協力しなかったため、自前で統治機構を整備する必要があったが、内戦はそれを阻害した。共和国は支持基盤である南部工業地帯をどうにか支配地域として確保したものの、全土の掌握には至らないまま内戦に突入していく。結局のところ、共和国の建国は外交・内政ともに未完のままであった。


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