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近代革命の社会力学(連載補遺26)

2022-10-05 | 〆近代革命の社会力学

九ノ二 朝鮮近代化未遂革命:甲申事変

(5)未遂革命の余波
 時機を早まった革命として短時日で未遂に終わった甲申事変は、事変そのものよりも、遅効的に発現した事後的な余波のほうにむしろ大きな広がりがあった。その一つは、農民蜂起(甲午農民戦争)である。
 19世紀の朝鮮では両班階級の不当な搾取に対する農民反乱がしばしば発生したが(拙稿)、甲申事変後、1890年代にかけて持続的な農民反乱が発生した。その言わば集大成が1894年の甲午農民戦争であった
 甲午農民戦争は独自の新興宗教・東学を精神的な基盤とする新しい農民運動であり、両班階級に属しない地方役人出自の指導者・全琫準に指揮されて組織的に武装蜂起したため、一時は南部の全州地域を占領、ある種の革命的解放区を設定した。
 これは、甲申事変で弱体が露呈された革新派両班層に代わって農民層が革命の担い手として登場し、さらに全琫準のように農民に近い社会的位置にあった平民階級から出た非両班知識人が指導者として台頭してきたことを意味する。
 しかし、時に「甲午農民革命」とも称される農民蜂起は、近代的な理念に基づいた革命とは異なり、なお封建思想を残す東学を精神的基盤とし、近代的地方自治の制度を創出することもなかったため、近代化革命への発展を見ることはなかった(その点、近世日本の一向宗革命にいくぶん類似する)。
 一方、朝鮮王朝政府も甲午農民戦争を完全に鎮圧する力量を欠いていたため、和約を締結して、東学勢力による自治を事実上容認せざる得なくなるとともに、遅ればせながら近代化改革にも着手した。事変から10年以上を経た1894年から中断をはさみ、二次に及んだ改革である。
 その点、事変直後は、復旧された「事大党」政権により、甲申事変に関与した人士に対する苛烈な報復的弾圧がなされ、指導者の金玉均も逆賊として追及を受け日本へ亡命、その後、上海で閔妃政権が送り込んだ刺客によって暗殺されるなど、「独立党」はいったん壊滅された。
 しかし、1894年に至り、日本の干渉もあって、近代化改革の第一歩を踏み出す。特に、日本に亡命していた旧「独立党」幹部の一人、朴泳孝が帰国し、改革派金弘集政権の内務大臣として、近代的な内閣制度の導入、税制改革、近代警察・司法の創設など、まさに「独立党」が目指した諸改革(甲午改革)を主導した。
 甲午改革政権は内紛からいったん瓦解するも、1895年、日本公使館の関与の下に、復権した大院君ら反閔妃勢力によって閔妃が暗殺されると(乙未事変)、金弘集政権が復旧し、改革を再開した(乙未改革)。
 ところが、長く事実上の君主的立場にあった閔妃殺害の上に立つ近代化改革の継続に対しては保守勢力の激しい巻き返しが起こり、金弘集は反乱暴徒に殺害されて政権は瓦解、結局、朝鮮王朝の近代化は挫折した。
 この後の経過は甲申事変の余波事象を超えるので論及しないが、朝鮮が内発的な近代化革命に成功しなかったことは、朝鮮権益をめぐる抗争でもあった日清戦争に勝利した日本の朝鮮支配力を強め、最終的には併合へとつながる伏線となる。


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