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近代革命の社会力学(連載第208回)

2021-03-09 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(7)共産党支配体制の確立と揺らぎ
 1949年中国大陸革命によって成立した共産党主導の革命政権の展開における発足当初の新民主主義の段階は革命移行期に相当する初期段階であったが、この期間は意外に早期に完了し、1952年には農業工業生産高が大幅に回復、革命前を上回ったことを機に、翌年53年から第一次五か年計画に入った。
 ここからは当時向ソ一辺倒政策を推進する中、ソ連の社会主義計画経済にならって開始された新たな段階であり、ソ連と同様に、農業の集団化と国家主導の集産主義的な工業化とが目指された。
 ただし、政治面では、一党独裁のソ連とは異なり、依然として政治協商会議を通じた連合体制が維持されており、56年には毛沢東自身、人民の自由な意見の表明を奨励する百花斉放百家争鳴を打ち出すなど、リベラルな姿勢が見られた。
 これが反転するのは翌年、毛の百家争鳴方針を利用する形で、非共産党諸派から共産党の主導権に対する疑問や反対が公然と主張されるようになった時である。こうした情勢に不安を覚えた毛と中共指導部は一転して、反共右派分子弾圧の姿勢を打ち出し、58年には右派分子と認定された50万人以上が辺境地への追放や解職に追い込まれた。
 この反右派闘争と呼ばれる最初の大規模な弾圧は中共が主導権を一段強め、事実上の一党支配へ向かう最初の礎石となったが、これと合わせ、経済政策面でも、第一次五か年計画が終了した58年から「大躍進政策」と銘打つ農工業全般にわたる急進的な生産力増大計画が発動される。
 これは58年からの第二次五か年計画とも連動しており、そこでは農工業生産力においてわずか3年で英米の水準に追いつき、追い越すという形式的かつ非現実的なノルマ達成が課せられた。その具体的な政策目標を逐一詳述することは本連載の主旨を外れるので、立ち入らないが、この時導入された最も著名な制度が人民公社であった。
 人民公社は中国における農業集団化の鍵となる新制度であり、ソ連におけるコルホーズの中国版という意義を持つが、コルホーズよりもいっそう集団性が強く、農業に限らず、工業・商業から教育・文化、軍事にも及び、行政機能も担う「政社合一」の組織であった。
 革新的な制度ではあったが、ソ連の農業集団化と同様、農民の自主的な耕作意欲をそぎ、ノルマに偏重したためにかえって農業生産力を低下させ、看板の行政機能にしても、共産党支配が強化されていく中、実質において党の末端組織に統合されていった。
 人民公社制はその後も1970年代末からの大規模な経済改革を機に廃止されるまで存続していくが、大躍進期における農業政策としては大失敗に終わり、数千万人規模の餓死者を出したと推計されている。毛自身も1960年代初頭の会議で、自己批判を行ったほどであった。
 こうして、大躍進政策は農業面では失策となったが、工業面では、大躍進の前後を通じて、社会主義経済の軸となる重工業分野を中心に多くの国有企業が設立され、70年代以降の経済改革の土台となる工業生産力の準備に寄与した一面もあり、そのすべてが失敗であったとは言えない。
 とはいえ、大躍進政策は反対派への政治的な弾圧や如上の大量餓死という犠牲を伴うキャンペーンであったことも否定できない。同時に、政治的な力学においては、共産党支配体制を固める動因となる一方で、失策により党と毛の権威が揺らぐという矛盾を抱えた複雑な力動を作り出す結果ともなったのである。


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