ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第469回)

2022-08-04 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐3〉武装革命組織・自由シリア軍の結成と展開
 アサド政権が一党支配体制の放棄という歴史的な譲歩を示した後も、政権移行の協議は進まない中、2011年7月末、シリア政府軍を離脱したリアード・アル‐アサアド空軍大佐が反体制武装組織・自由シリア軍の結成を発表した。
 アサアド大佐はこれより前、同じくシリア軍離脱将校によって結成されていた自由将校団運動に加入していたが、自由将校団運動は世俗主義的な革命派将校の運動体であったのに対し、自由シリア軍はイスラーム主義のムスリム同胞団との関わりが強いという相違があった。
 その点、イスラーム主義との結びつきから宗教保守勢力を取り込むことに成功した自由シリア軍は結成から短期間でメンバーを急速に殖やし、9月には自由将校団運動も自由シリア軍に合流することとなった。
 自由シリア軍は自らの性格を反体制運動の武装部門と規定し、その目標を軍事的手段によってアサド体制を打倒することに置く武装革命組織としての性格を強調しており、平和的手段による体制変革には否定的であった。
 一方で、2011年9月にはムスリム同胞団を含む多様な野党勢力を束ねたシリア国民評議会(以下、評議会)がトルコのイスタンブルで結成され、アサド体制崩壊後の政権受け皿が用意された。
 評議会は、2012年1月に自由シリア軍と提携し、その活動を承認したが、平和的闘争を旨とする評議会は武器の提供はせず資金提供にとどめるなど、両者の関係性は微妙で、革命武装組織と革命行政機構との遊離状態が生じたことはシリア革命の先行きに不安を残した。
 そうした中、2012年に入ると、政権側は3月、反体制派の拠点となっていた西部の都市ホムスを包囲・制圧したうえ、5月には新しい政党法に基づく複数政党制による議会選挙を実施する。この選挙では多くの野党がボイコットする中、バアス党を中心とする従来からの翼賛与党連合・国民進歩戦線が議席を減らしながらも勝利する結果に終わった。
 こうして政権側が軍政両面で優勢に傾くと、7月以降、自由シリア軍はイラクやトルコとの国境地帯で大攻勢を開始し、イラク国境地帯を占領するとともに、首都ダマスカスでも政府側弾圧作戦の指揮所である保安司令本部に対する爆弾テロを実行し、国防相をはじめ、軍や保安機関の高官4人を殺害した。
 一方で、自由シリア軍は人口上シリア最大の都市アレッポでも攻勢をかけ、他の武装組織と協調しながら市内東部を制圧した。しかし西部は政府軍が押さえ、補給路を確保していたため、アレッポは以後、政府軍との間で激しい攻防が繰り広げられる最大の激戦地となった。
 こうして、平和的な革命の可能性は潰え、内戦の様相が強まった。これに対し、トルコを含む西側が自由シリア軍に肩入れする一方、アサド政権は旧ソ連時代から友好関係にあるロシアに依存するようになり、代理戦争の性格も増していった。


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