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近代革命の社会力学(連載第105回)

2020-05-18 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(6)革命の挫折と軍閥支配
 革命横領者・袁世凱の死後、中国共和革命に巻き返しのチャンスが訪れながら、それを生かせず挫折していった要因としてはいくつか想定できるが、最大の要因として、革命派が分裂していたことがある。1911年の革命自体は、中国同盟会が主体となって起動したものだが、同盟会自体が諸派の連合組織に過ぎなかった。
 実際、袁世凱に対抗するため、革命派が国会選挙を急いでいた頃、革命派は複数の政党に分裂していたが、年末からの選挙に合わせて合同し、国民党を結党した。これは、改めて孫文を指導者に仰ぐ革命派の本流政党と呼ぶべき政党であった。
 とはいえ、にわか仕立ての観は否めず、国民党は総選挙で第一党となりながらも、内部では孫文に対抗して宋教仁が実権を持った。宋教仁は大総統(大統領)主体のアメリカ型共和制を支持する孫文に対し、清末の体制内改革で不完全ながらも現れていた議院内閣制の支持者であり、政体観に相違があった。
 ただ、前回見たとおり、宋教仁が袁世凱の策動により暗殺された後、国民党は強制解散に追い込まれたため、短命に終わった。その後、革命派は再び四分五裂したが、1914年に、亡命政党として改めて孫文を指導者とする中華革命党が東京にて結党されるが、これも亡命政党の性格上、実質的な活動は停滞した。
 この時点でも、孫文はなお革命指導者として名声を保持していたものの、彼は理論的・精神的指導者タイプであり、実務的な政治指導力となると、疑問符の付く人物であった。そうした君子然とした孫文の限界は、袁世凱との対決過程や革命派内部での主導権争いにおいてもすでに表れていた。
 そのため、袁の急死後に生じた権力の空白に乗じて、孫文が改めて大総統として権力を掌握し、革命過程をやり直すといった積極策に出ることもできなかったのである。
 それに加えて、袁世凱存命中から、革命後の混乱に乗じた日本の帝国主義的な攻勢が強まっていたことも、革命プロセスにマイナスの影響を与えた。特に袁が日本のいわゆる21か条要求に屈し、中国大陸における日本の権益の擁護に応じたことは、その後、なし崩しに日本による中国侵食が進行する道を開いた。
 ドイツの中国権益奪取を狙う日本の対中攻勢は折からの第一次世界大戦の勃発とも深く連関しており、袁世凱没後の権力の空白という危機的状況の中、1911年に誕生したばかりの不安定な中華民国は日本に同調して対独宣戦すべきかどうかの決断も迫られていた。
 そうした複雑な情勢下、袁の後継体制は、結局、彼が権力基盤とした北洋軍閥系の軍人たちが引き継ぐことになった。清末の新軍の系譜を引く彼らは近代的な職業軍人の装いをしてはいたものの、実態としては封建的な軍閥の性格を残し、群雄割拠する傾向にあった。
 彼らの関心は、三民主義云々の政治思想よりも、自身の権力と利権の確保であり、そのための合従連衡、さらに資金源として日本を含めた帝国主義列強からの借款の獲得競争であった。結果として、北京の中央政府は弱体化し、大総統も有力軍閥間でたらい回しのように目まぐるしく交替することになった。


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