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近代革命の社会力学(連載補遺12)

2022-09-12 | 〆近代革命の社会力学

六ノ二 メキシコ独立/第一次共和革命

(4)第一帝政と共和革命
 メキシコ独立革命の基本テーゼとなったイグアラ綱領は、保守的なイトゥルビデの政治思想を反映し、立憲君主制を採択していたため、独立スペインは君主制国家として成立することとなった。
 もっとも、当初の計画では時のスペイン国王フェルナンド7世をメキシコ皇帝に招聘しつつ、同君連合の形でメキシコは独自の立法府を持つといういっそう保守的なものであったが、フェルナンド7世がメキシコ独立の承認を拒否したことから、プランBとして、その他のボルボン家王族を招聘することが検討された。
 しかし、フェルナンド7世の妨害もあり、適任の候補者を確保できず、暫定政府の摂政団議長という地位にあったイトゥルビデ自身に白羽の矢が立った。その際、ナポレオンにならって皇帝を称したため、メキシコは帝政国家としてスタートすることとなった。とはいえ、イトゥルビデの帝位はメキシコを統治すべき欧州の君主が招聘されるまでの暫定的なものとされた。
 そうした条件付きで、「神の摂理と国民議会による初代メキシコ立憲皇帝」という正式称号を与えられたイトゥルビデを推戴するメキシコ第一帝政が1822年5月に正式発足するが、帝国は最初から財政破綻状況にあった。
 というのも、独立に際して、メキシコから退去するスペイン人地主の土地を接収せず、基軸通貨で買収する協定を結んだため、保有通貨をたちまちに費消し、国庫は空の状態となっていたためである。
 そうした財政問題に加え、イトゥルビデの統治手法にも問題があった。「立憲皇帝」という立場を忘れたかのように、独裁統治を開始したからである。1822年8月に政府転覆計画が発覚すると、反対派の代議員を逮捕したのに続き、10月には議会を一方的に解散し、支持者のみで構成された国家評議会に置き換えたのである。
 これに対して、イグアラ綱領では妥協していた共和派の二人の将軍、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナとグアダルーペ・ビクトリアとが決起した。二人は1822年12月、帝政を廃止して共和制を樹立することを旨とする11箇条から成るカサ・マタ綱領を発し、反乱を促した。
 これに呼応して、各地で反乱が起きるが、当初は帝国軍によって鎮圧された。しかし、帝国軍の寝返りにより、1823年2月、カサ・マタ綱領が全土に宣言され、各州に対して賛同が呼びかけられた。
 その結果、ほぼ全州が綱領を受諾したため、イトゥルビデは議会を再開したうえ、1823年3月に退位、イタリアへ亡命した。こうして共和革命が成功し、メキシコ臨時政府が樹立された。


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