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近代革命の社会力学(連載第210回)

2021-03-15 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(1)概観
 バルカン半島と並び、第二次世界大戦における枢軸国勢力に対するレジスタンスがそのまま革命に結実したもう一つの例として、ベトナムがある。ベトナムを含むインドシナ半島は19世紀末にフランスの領土となっていた(フランス領インドシナ)。
 そうした中、20世紀初頭から反仏独立運動が活発化し、当初はナショナリズトを中心に、武装蜂起を繰り返すも、成功しなかった。その点、1930年から31年にかけて、中北部の二つの省で急進的な農民を主体に、労働者や知識人も参加して蜂起したゲティン・ソヴィエトは地方的ではあるが、最初の革命的なうねりであった。
 このゲティン・ソヴィエトの背景には、当時インドシナでも台頭してきた共産主義運動があったが、この時期のインドシナにおける共産主義運動はいまだ形成期にあり、統一された共産党組織は確立されていなかった。そうしたこともあり、ゲティン・ソヴィエトはフランス植民地政府に対抗できず、わずか数か月で崩壊するに至った。
 その後、独立運動はフランス当局の弾圧により閉塞し、次に機会が訪れるのは、ナチス・ドイツのフランス侵攻・占領に伴い、フランス植民地支配の力が後退した時点であった。この空隙を利用して、当時破竹の勢いだった日本軍がフランス領インドシナに進攻してきた。
 そうした中、1930年、後に国家主席となるホー・チ・ミンが主導して香港で結党されたベトナム共産党が、新たな独立革命の主体として台頭する。ホー・チ・ミンは1941年、新たなレジスタンス組織・ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、中越国境山中に根拠地を置きつつ、山岳ゲリラ戦で日仏両軍に抵抗した。
 もっとも、ベトミン単独で日仏両軍を排撃することは困難であり、ベトミンが勝利するには、ナチス傀儡のフランス政府(ヴィシー政府)及び日本の双方が相次いで降伏し、体制崩壊するのを待たなければならなかった。
 ベトミンによる革命は、日本の降伏が迫った1945年8月13日のホーチミンによる指令に発し、同年9月2日のベトナム民主共和国の樹立をもって完了した。この革命は、日仏両国からの独立とともに、共和制移行の一挙両得的な独立‐共和革命であった。
 もっとも、革命後、インドシナ半島の権益復活を狙うフランスとの間で独立交渉が難航し、1946年以降、ベトミンとフランスの間で、1954年に至るまで、インドシナ戦争(第一次)が戦われることになった。
 1954年の休戦協定の結果、ベトナムはベトミン系の北ベトナムと親仏・親米の南ベトナムとに分断され、再統一はアメリカとの戦争(第二次インドシナ戦争)を経て、北ベトナムに支援された南ベトナム革命勢力がアメリカに勝利し、南ベトナムを解放した1975年を待つことになる。
 一方、ベトナムとともにインドシナ半島を構成し、旧フランス領インドシナに統合されていたラオスとカンボジアではベトナムほど闘争的なレジスタンス運動が現れず、戦後もフランスとの交渉を経て、新たに創設されたフランス連合内の独立王国として再出発するというように、ベトナムとは異なる道を歩んだ。
 ただし、ラオスでは終戦直後の1945年、王族を中心に独立運動が組織され、革命政府(ラーオ・イサラ)を樹立するも、フランスの軍事的攻勢に対抗できず、一年ほどで崩壊、新たに創設されたフランス連合内の独立王国となった。


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