ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第399回)

2022-03-22 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(9)モンゴル革命

〈9‐2〉草原の国の無血革命力学
 モンゴルは、1989年に始まる連続革命が始動した中・東欧から遠く離れているにかかわらず、同年の12月初旬には最初の民主化要求デモが開始された。中心となったのは、青年知識人であった。同年12月10日の世界人権デーに結成されたモンゴル民主同盟が嚆矢である。
 もっとも、始動の時点ではごく小規模な知識人グループの運動にすぎず、その要求事項もソ連のゴルバチョフ改革への支持や人間の顔をした社会主義といった社会主義の枠内でのより積極的な改革にとどまっていた。
 しかし、同年12月末、アメリカの雑誌インタビューでソ連の著名なチェス選手ガルリ・カスパロフがソ連はモンゴルを中国へ「売る」可能性があるというという趣旨の発言をしたことが伝わったことを一つのきっかけとして、抗議デモが拡大した。
 これは権力外の民間人による憶測発言にすぎなかったが、中ソがモンゴルを売り買いするかのごとき風聞により60年以上に及ぶ衛星国体制下で眠らされていた民族感情を刺激されたことが革命の導火線となったとも言える。
 明けて1990年1月以降、民主派新党の結成が相次ぐとともに、知識人中心の運動に労働者も参加するようになり、デモ行動はハンガーストライキを含む多様な形態を見せつつ、革命的な規模に拡大した。
 転機となるのは、同年3月に首都ウランバートルで開催された10万人集会とそれに続く民主同盟による大規模なハンストであった。ここに至り、支配政党・人民革命党が動き出し、民主勢力との交渉に入ると同時に、裏では治安部隊による武力鎮圧方針に傾いていたとされる。
 しかし、武力鎮圧についてはバトムンフ書記長が断固反対し、命令書に署名せず、かえって書記長以下、党政治局の総辞職を決定した。これによりハンストも停止され、事態は新たな段階を迎えた。人民革命党は長年の一党独裁体制とマルクス‐レーニン主義教義を放棄し、実務的な新指導部は早期の自由選挙の実施を決定した。
 1990年7月の総選挙では、統一性を欠いた民主勢力に対し、長年の組織力を生かし、地方遊牧民の間に支持の強い人民革命党が圧勝した。しかし、党はあえて民主派との連立を選択したため、以後はこの挙国一致政権の下で新憲法の起草が進められ、1992年採択の新憲法に基づき、社会主義を脱したモンゴル国として再編されることとなった。
 こうして、モンゴル革命も「ビロード革命」の名を冠されたチェコスロヴァキア革命に近い無血革命として完了した。これはソ連に次ぐ長さの68年に及んだ社会主義体制の終わり方としては奇跡的とも言える。
 その秘訣として、人民革命党(現人民党)が民主化要求デモに際して柔軟に対応したうえ、遊牧民層の支持を基盤としつつ、議会政治にも速やかに適応したことがある。その点でも、やがてモンゴル革命渦中で起きる「家元」ソ連共産党体制の無残な崩壊とは好対照の事例となった。


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