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近代革命の社会力学(連載補遺39)

2022-10-27 | 〆近代革命の社会力学

三十二ノ〇 ネパール立憲革命

(4)反専制運動の始動
 ラナ家専制体制に対する最初の反作用は、ラナ家内部から現れた。1901年に兄から宰相職を世襲したデーブ・ラナは、歴代のラナ家宰相とは異なり、開明的な改革派であり、立憲君主制と日本の明治維新をモデルとする近代化政策を志向した。
 しかし、こうしたデーブの改革志向は一族の間で警戒され、デーブは就任からわずか3か月で、五弟チャンドラ・ラナが主導するクーデターにより拘束された後、亡命に追い込まれた。
 こうして、ラナ家内部からの改革の芽は迅速に摘み取られた。代わって宰相となったチャンドラは27年に及ぶ施政の中で一定の近代化改革を進め、1923年には英国との条約によってネパールの法的な独立性を明確するなどの外交的成果も上げたが、ラナ家専制の枠組みを変更することはなかった。
 そうした中、1930年代に入ると、反専制運動が開始される。その外的な要因として、1934年のビハール・ネパール大震災の影響も想定される。推定1万人以上の犠牲者を出したこの大震災はネパールに社会的変動をももたらした。
 震災復興中の1936年にはネパール最初の反専制運動として、ネパール・プラジャ・パリシャドが組織された。これは当時、遅ればせながらも進められていた教育近代化の成果として台頭してきた知識人を中心とする秘密結社型組織であった。
 しかし、1941年に組織によるラナ家要人暗殺計画が発覚したのを機に、政府による大弾圧が加えられた。その結果、主要メンバーの多くが処刑され、組織も解体された。こうして、第二次大戦前の反専制運動はいったん閉塞に追いやられるが、弾圧を免れた運動家は英領インドに亡命し、インド独立運動に参加することで感化された。
 転機は、戦後の1947年におけるネパール国民会議(以下、国民会議)の結成であった。これはマートリカ・プラサードとビシュエシュワル・プラサードのコイララ兄弟を中心に、主にインド独立運動に参加した青年運動家らによって立ち上げられた組織で、その理念もインド国民会議の非暴力抵抗主義から影響を受けていた。
 折から、覚醒した織物工場労働者のストライキが発生すると、国民会議はこれを支援し、ここに知識人と労働者の連帯が成り、市民的不服従の全国的な運動へと展開していった。さらに、同年には学生も民主主義と近代的な教育カリキュラムを要求する組織的な抗議行動を起こした。
 このように、1947年は国民会議の結成に始まり、労働者のストライキ、学生運動と反専制運動の要素が同時に出揃う稀有の年度となった。しかし、翌年、1948年に宰相に就任したモハン・ラナはこうした運動を弾圧、国民会議を非合法化する対抗措置で応じた。


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