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近代革命の社会力学(連載第55回)

2019-12-25 | 〆近代革命の社会力学

七 第二次欧州連続革命:諸国民の春

(7)革命余波の諸状況
 第二次欧州連続革命では、主として1848年から49年にかけ、大陸欧州の主要国のほぼすべてで同時的な革命の波が生じたのであるが、明確に革命という形ではないものの、何らかの余波が及んだ諸国はさらに多い。中でも、デンマークでは、即位したばかりのオルデンブルク朝フレデリク7世に対して民主的憲法の要求が突き付けられた。
 デンマークは地政学上北欧に属しつつも、南部でドイツと接していることから、ドイツにおける革命の余波が及びやすかったと言える。これに対し、即位したばかりの王は、時代状況を読み、反革命の立場を採らず、要求を受諾し、立憲君主制への移行を決断したのだった。この変革は国王主導であっさりと無血で行われたが、しばしばデンマークにおける「三月革命」と称される。
 しかし、一方で、フレデリク7世がドイツ系住民の多い南部のシュレースヴィヒとホルシュタインの両公国のデンマーク帰属を鮮明にしたことへの反発として、ドイツ系住民による革命が起き、暫定政府が樹立された。フレデリクはこの動きを断固として抑圧したため、デンマークとドイツの間で戦争が発生することとなり、この衝突がドイツ側のフランクフルト国民議会の挫折を招いたことはすでに述べた。
 一方、英国ではこの時代、すでに大陸欧州に先駆けて立憲君主制は確立されていたが、普通選挙制は未だしであった。そこで、男子普通選挙制の導入を柱とした人民憲章の採択を求める「チャーティスト運動」が1830年代から独自に起きていたが、1848年の大陸での連続革命は運動を一層刺激し、高揚させた。
 これに対し、大陸からの革命の波及を恐れた政府は従来、おおむね静観・無視していた運動に対する弾圧に乗り出し、運動指導者の大半を検挙した。その結果、運動は終息に向かったが、一方では、大陸欧州に先駆けて社会主義的な主張を掲げる急進派を生み出すことにもなる。
 中東欧では、プロイセンでの革命に刺激される形で、1848年3月から5月にかけ、プロイセン領内のポズナン大公国で支配下にあったポーランド人の民族的蜂起があった。これはおよそ2万人に及ぶ民兵隊を組織しての大蜂起であったが、プロイセン軍の前に粉砕され、ポズナン大公国はポーゼン州に取って替えられ、かえって支配を強化された。
 ポーランド人と同じスラブ系住民の動向としては、オーストリアに従属していたボヘミアのプラハでも1848年6月、オーストリア領内のスラブ人によるスラブ人会議が招集された。これは独立を目指すというよりは、オーストリアを民族自治に基づく連合国家に変革することを目指す穏健なものだったが、プラハでの平和的デモにオーストリア当局が発砲したことを契機に短期で挫折した。
 また当時帝政ロシアの支配下にあったワラキア公国(ルーマニア南部)では、1848年6月、革命的結社フラツィアが主導する革命的蜂起により、帝政ロシア支配下で傀儡統治を行っていたビベスク公が退位し、独立を目指す臨時政府が樹立された。しかし、これもオスマン帝国と結んだロシアの共同軍事介入により崩壊した。
 こうして、第二次欧州連続革命の余波として発生した民族主義的な蜂起も、成功することはなかった。この時代のプロイセン、オーストリア、ロシアに代表される宗主国の軍事力は強大な一方、民族独立運動は未熟かつ弱体であり、宗主権力を打倒するだけの力量を擁していなかったからである。


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