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近代革命の社会力学(連載第353回)

2021-12-24 | 〆近代革命の社会力学

五十 イラン・イスラーム共和革命

(9)革命の余波
 1979年イラン革命は、イランでは国教ながらイスラーム世界全体では少数派のシーア派教義に基づいていたため、その規模の大きさにもかかわらず、イスラーム世界に直接波及することはなかった。
 むしろ多数派スンナ派が優勢な諸国にあっては、国内シーア派への波及とかれらの革命的蜂起を警戒し、「敵の敵は味方」の論理に従い、イラン‐イラク戦争では世俗社会主義のバアス党が支配していたイラクに肩入れしたほどであった。
 これに対し、イランの革命体制は国際的な孤立状態を打開する目的からも、中東各国に対する革命の輸出政策を推進した。中でも、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラは、イラン革命から程ない1982年にイラン革命政権の直接的な支援のもとに創設され、イランの革命防衛隊によって軍事訓練を受けた。
 この組織はイラン革命政権が敵視するイスラエルの抹殺を設立目的に掲げ、自国レバノンにおける革命以上に、隣国イスラエルへの軍事攻撃を主たる活動としている組織であり、今日に至るまでイラン革命体制の中東政策の中核を担う連携組織となっている。
 しかし、こうした事例は例外的で、スンナ派が優勢な諸国への革命の輸出政策には限界があったが、イラン革命の持続的な成功は、スンナ派イスラーム諸国でも、それまで革命勢力の主流的イデオロギーであった世俗的な社会主義に代わって、イスラーム急進主義が台頭する動因を作ったことは確かである。
 その点、隣国アフガニスタンの内戦における反革命勢力ムジャーヒディーンにあっても、イラン革命政権による支援は全面的ではなく、ムジャーヒディーンを組成するシーア派小組織に対するものに限定されていながら、間接的にはイラン革命による刺激が長期の抵抗運動を可能にしたとも考えられるところである。
 他方、ソ連がイラン革命のアフガニスタンへの波及、ひいてはイスラーム圏でもあるソ連の中央アジア地域への波及を警戒したことをも動機の一つとして、イラン革命と同年の12月に、アフガニスタン社会主義政権を安定化させるための軍事介入に踏み切ったことも、イラン革命の反面的な余波に含まれる。
 最終的に、アフガニスタンでソ連及びその傀儡社会主義政権が敗北し、イスラーム勢力が勝利したことはイランの直接的な貢献とは言えないとしても、如上の経緯からすれば、イラン革命の長期的な波動の帰結であったと言えるかもしれない。
 時代的に、イラン革命は戦後の東西冷戦時代晩期の始まりに当たっており、その成功は冷戦時代の第三世界における革命の主流であったマルクス‐レーニン主義をはじめとする社会主義革命の潮流を概して退潮させる効果を持ち、1980年代以降の革命の性格を大きく変える転換点ともなった。
 また、それまでソ連を主敵としてきたアメリカにとっても、米大使館占拠事件の屈辱以来、イランという第二の主敵が現れたこととなり、米ソ対立を軸とする東西冷戦構造に風穴を開ける変化をもたらした。
 そうした意味では、イラン革命の余波は直接的な影響よりも、間接的かつ長期的な影響のほうが大きく、それ自身の想定を超えて、世界秩序全体への波及効果を持っていたと言えるであろう。


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