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近代革命の社会力学(連載第229回)

2021-04-30 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(3)民族解放戦線の結成と独立宣言
 アルジェリアにおける先住民層の抵抗運動は、前回見たように、フランスによるアルジェリア占領の初期からあったわけであるが、19世紀中の抵抗は、イスラーム宗教指導者や部族指導者を中心とする伝統社会の構造の中から隆起したものであった。
 しかし、20世紀に入ると、先住民層の間でも、次第に近代的な民族意識に根ざす運動が興隆してくる。その最初のものとして、1907年に結成された青年アルジェリア人がある。
 この運動名称は同時代、オスマン・トルコの立憲革命を担った青年トルコ人運動に触発されたものであるが、運動はより穏健で、独立ではなく、先住アルジェリア人にフランス本国の国民議会選挙の投票権など対等な権利を付与するよう求めるものにとどまった。
 1920年代になると、より明確に独立を掲げる民族主義者のメッサリ・ハジが台頭した。彼は当初、フランス共産党と連携しつつ、民族解放運動を開始するが、やがてアルジェリア独立に消極的な共産党との連携を解消し、1930年代に独自にアルジェリア人民党を結党した。
 ハジは基本的に非暴力主義者であり、武装抵抗運動には否定的であった。しかし、フランス当局は、非暴力かどうかを問わず、アルジェリア民族運動には弾圧方針で臨んだため、アルジェリア人民党は非合法化され、ハジも拘束された。
 そうした中、大量のイスラーム教徒の先住アルジェリア人(最大推計3万人)が殺害されたセティフ虐殺が大きな転機となり、1946年に改めてハジを指導者とする民主的自由の勝利ための運動(MTLD)が結成された。これが、アルジェリアにおける民族解放組織の本格的な結成の嚆矢と言える。
 しかし、1947年、MTLD内部ではハジの非暴力路線に懐疑的なグループが組織内組織となるその名も特殊組織(OS)を結成して、武装活動を開始した。これ以後、ハジとOSのせめぎ合いが続くが、それに加えて、ハジの汎アラブ主義的な立場が先住民層の中の少数派であるカビル人を反発させ、民族間の亀裂が生じた。
 そうした路線と民族両面での複雑な組織力学が作動する中、MTLDは当初、アルジェリア地方議会選挙に参加し、46年の選挙では当局の干渉を乗り越えて5議席を獲得するが、48年選挙では全議席を喪失、51年にはOSが非合法化された。
 このような閉塞状況の中、旧OSメンバ―を中心に、本格的な武装抵抗組織の結成を通じた完全な独立への希求が生じた。その結果、1954年4月には団結と行動のための革命委員会が秘密裏に組織された。
 これを最初の革命細胞として、同年7月には各地の独立運動組織を結集した拡大革命会議を経て、武力革命方針が確認された。そのうえで、10月に民族解放戦線(Front de libération nationale:FLN)が結成され、FLNは11月1日に独立宣言を発した。
 FLNは軍事部門として民族解放軍を擁し、戦争を通じて独立を勝ち取ることを目標とする明確な武装革命組織であり、独立宣言は同時にフランスへの宣戦布告でもあり、これ以降、アルジェリアは1962年まで、長い独立戦争に突入する。
 このような紛争事態に至った要因として、フランス当局の頑ななまでのアルジェリア植民地固守の姿勢があったことは間違いなく、その点で、戦後いち早くイギリスとの交渉によって達成されたインド‐パキスタン独立(1947年)との相違が際立った。


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