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近代革命の社会力学(連載第116回)

2020-06-17 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(3)共産主義運動の転移
 1917年ロシア革命において共産党が前面に現れた所以に関しては、ロシア固有の事情とともに、欧州における共産主義運動が、それまでの中心であったフランスからロシアへと転移した経緯について見ておく必要がある。
 フランスにおける共産主義運動の歴史は古く、18世紀フランス革命に遡る。特に、革命家フランソワ・ノエル・バブーフがその先駆と想定される。貧農出自の土地台帳管理人だったバブーフは、フランス革命に身を投じる中で、自身の専門分野でもあった土地問題に関心を寄せ、土地の万民共有論を基礎とし、物品の平等な共同管理・配給を軸とする共産主義社会の建設を夢見た。
 バブーフは当初、ロベスピエールの熱心な支持者だったが、恐怖政治に対して次第に批判的となり、ロベスピエールを倒したテルミドールのクーデターではクーデター側に立つも、総裁政府の保守性にも反対し、独自の秘密結社パンテオン・クラブを結成した。
 パンテオン・クラブは総裁政府との対峙状況の中、1796年、新たな革命により権力を握り、階級独裁による新体制を樹立することを計画するも、密告により発覚、摘発され、バブーフもギロチン台に送られた。一般に「バブーフの陰謀」として知られるこの革命計画は、思想的にも実践としても稚拙ではあったが、近代の共産主義者に強いインパクトを与えた。
 フランス革命がナポレオンにより乗っ取られ、保守的に収斂した後、バブーフを継承したのは、彼の信奉者であったルイ・オーギュスト・ブランキであった。ブランキはバブーフから革命実践面の理論を継承し、少数精鋭の革命家集団による武装革命、人民による階級独裁といった革命実践論を完成させた。
 その具体化として、1839年、ブランキは秘密結社「四季協会」を結成した。その文学的な名称とは裏腹に、同組織は軍事的に組織化された革命集団であり、その後の近代的な武装革命運動における範例ともなった。
 1805年生まれのブランキは、七月革命以来、19世紀フランスで続発した諸革命のすべてに最急進派として参画したが、彼の先鋭な革命思想は当然にも当局から危険視されたため、たびたび検挙・投獄が繰り返され、75年の生涯のうち通算で30年以上を獄中で過ごすこととなった。そのため、ブランキは革命派の間で影響力を持ちつつも、共産主義革命に成功することはなかった。
 こうしたブランキを賞賛しつつ、新世代の共産主義者として自己確立したのが、彼より一回り下のマルクスとエンゲルスであった。かれらはドイツから出たが、保守的なドイツに彼らの居場所はなく、ブリュッセルに亡命してきていた。
 彼らは、第二次欧州連続革命前夜の1847年に秘密結社「共産主義者同盟」を結成し、翌年に勃発する連続革命の渦中、同盟の綱領文書として公刊したのが著名な『共産党宣言』であった。
 ただ、かれらの同盟は知識人中心の思想団体の性格が強かったうえ、当時まだほぼ無名のマルクスとエンゲルスが中心となった「同盟」の影響力は限られており、目下進行中の革命にほとんど影響を与えることなく、1850年に独仏当局の摘発を受け、52年には解散に追い込まれてしまう(以上の経緯について、詳しくは拙稿参照)。
 その後も新たな亡命地ロンドンを中心に展開されたマルクス‐エンゲルスの活動は、保守的なイギリスではもちろんのこと、フランスでも十分に浸透することがなかったところ、19世紀末になり、ロシアに現れたウラジーミル・レーニンらの新たな革命運動において、本格的に継承された。
 簡単に言えば、レーニンは理論上はマルクスから、実践上はブランキからも触発され、独自の革命理論・実践の体系を作り上げたのであった。これにより、共産主義運動がマルクス‐エンゲルスを媒介して、フランスからロシアへ転移したと言える。


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