ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第465回)

2022-07-26 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(6)リビア革命

〈6‐3〉民衆蜂起から内戦・干渉戦へ
 ガダーフィ時代のリビアでは、最大で国民の20パーセントが保安機関の要員もしくは協力者と推定されたほどの徹底した相互監視システムが敷かれていたにもかかわらず、リビアに連続革命が波及するのにさほど時間を要しなかった。
 2011年にはアフリカ大陸最長の42年に及んでいた抑圧的な長期体制に対する国民の不満と怨嗟は、そうした稠密な社会統制システムを作動させないほどに鬱積していたということを示している。
 リビアで民衆蜂起の最初の狼煙が上がったのは、2011年2月15日(以下、日付は2011年)、東部ベンガジにおいてであった。ベンガジは近代リビアが成立する以前の三つの自治地域の一つキレナイカの「首都」であり、元来、独立志向が強いうえに、ガダーフィの属する部族とは別の部族が割拠するところで、ガダーフィ体制のアキレス腱とも言える場所であった。
 ベンガジ蜂起の契機は政治犯釈放要求にあったため、当局は要求に応じて譲歩しつつ、抗議デモに対しては治安部隊を動員して弾圧する両面作戦を展開した。しかし、これは裏目となり、2月21日には首都トリポリにも抗議デモが波及したが、政権はこれに対しても徹底した武力鎮圧で臨んだ。
 弾圧による死傷者が増加し、国際的な批判も高まると、政権の司法書記(法相)ムスタファー・ムハンマド・アブドゥルジャリールが政権を離脱したうえ、2月27日にベンガジにて国民暫定評議会(以下、評議会)を組織した。
 これはガダーフィ体制崩壊を見越して、臨時の革命政権として機能することを目指した組織であり、設立時点では未然革命における並行権力の関係にあったが、この時点ですでに東部地域は反体制派によって制圧されており、さらに首都トリポリを除く他地域でも反体制派が蜂起し、政権の支配が及ばなくなっていた。
 これほど短期間で体制が崩壊危機に瀕したのは、近代リビアが元来、三地域の合同として成立し、多部族割拠の伝統を残す不安定な構造を持っていたことに加え、ガダーフィ自身、軍の出身でありながらクーデターや反乱を恐れて軍の強化を行わなかったためであった。
 3月に入ると、評議会のもとに反ガダーフィ派が結集し、首都進撃を窺う段階に至り、革命の成功は時間の問題かと思われたが、評議会側の軍はおおむね部族単位での民兵組織の寄せ集めであり、統一的な作戦遂行能力に限界がある一方、追い詰められたガダーフィ側も出身部族の忠実な精鋭部隊をまとめ、反攻の機を窺う状況にあった。
 こうして膠着状態に陥り、事実上の内戦状態となる中、西側諸国がガダーフィ追い落としのため、干渉の手を伸ばす。特にいち早く評議会を承認していたフランスが音頭を取り、3月17日に国連安保理でリビア攻撃を認める決議が採択されたことを受け、米英も加わった多国籍軍によるリビア空爆作戦が開始された。
 しかし、こうした西側の干渉も十分な効果を上げず、多国籍軍内部でも足並みが乱れる中、交渉を模索する動きもあったが不調に終わり、最終的には評議会軍によるトリポリ進撃作戦が決め手となった。
 欧米の特殊部隊や民間軍務会社の支援も囁かれた軍事作戦は8月下旬から本格化し、同月24日までに降伏したガダーフィの子息らを拘束したが、ガダーフィ本人は取り逃がした。しかし、ガダーフィは「戦略的行動」と称して首都から逃亡しており、同月末には評議会側のトリポリ制圧は完了した。
 こうして、42年に及んだガダーフィ体制は内戦・干渉戦の末に崩壊したが、これは革命の成功の始まりではなく、失敗の始まりとなる。この後、10月のガダーフィの拘束・惨殺をはさみ、リビアは国家の分解へと向かうからである。


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